賢者と共に街に出かけたミスラは、見知らぬ女に声をかけられた。
年末を目前に控えた街は、普段以上の活気を見せており、いつもなら見られないような出店も多くある。ミスラが声をかけられたのは、賢者が出店のホットココアを二人分買いに行っている最中だった。
女の顔に見覚えはなく、この真冬だというのに暑いのか顔を上気させている。ミスラが黙って女を見下ろす中で、女はうわずった声でナントカという名前の喫茶店を知らないかと聞いた。ミスラは「知りません」とだけ返して、女から視線を外した。雪の積もったベンチや、色とりどりの飴細工が並べられた店先をぼんやりと眺める。女はまだ何か用があるのか、しばらくミスラの前にたちすくんでいたが、もごもごとお礼のようなことを口にしてその場を去っていった。
店の場所を知りたいのなら、自分たちのような通行人ではなく、土地慣れしているだろう店員たちに聞けばいいのに、とミスラは思った。しかし、初対面の人間にそこまでしてやる義理もないので、ミスラが女にそれを教えることはなかった。女が充分に遠ざかったのを見て、ミスラは声を上げた。
「もう終わりましたよ」
すると、背後から小さな足音が近づいてくる。振り返ると、そこには予想通り賢者が立っていた。女と会話している最中から、こちらをうかがう賢者の視線にミスラは気づいていた。ココアが入った紙コップを手にしている賢者は、不安げな顔をしてミスラを見上げている。
「あの、今の女の人って、ミスラの知り合いですか?」
「他人ですよ。道を聞きにきただけです」
「えっ、じゃあ道案内してあげなくていいんですか?」
「いいんですよ。俺も知らない場所だったので」
そう言って、ミスラは賢者の手からココアを受け取った。ココアにはマシュマロが二つ浮かんでいる。ミスラはコップを煽り、マシュマロを口に含んだ。奥歯に転がっていったマシュマロが、口内の温度でじんわりと溶けていくのがわかる。マシュマロを舌先で転がして味わっていると、賢者がココアの水面を見つめながらぽつりと口にした。
「……さっきの女の人、多分ミスラをデートに誘いたかったんだと思います」
「違いますよ。店の場所を聞いただけだって言ったでしょう」
「それをきっかけにして、ミスラを誘おうとしたんですよ」
「はあ……?めんどくさいですね。それなら最初から目的を言えばいいのに」
マシュマロを嚥下しながら、ミスラはため息をついた。ミスラが前々から思っていることだが、何故人間は目的を達成するために遠回りするのだろう。自分のしたい事をはっきりと伝えた方が、相手にちゃんと伝わるし、達成できる確率が高くなるだろうに。不思議がるミスラの眼下で、賢者は上目遣いになりながら、おずおずと問いかける。
「あの、さっきの女の人が、ミスラとデートしたいってはっきり言ってたら、ミスラは誘いに乗りましたか?」
「まさか、今日はあなたと来てるじゃないですか」
「……じゃあ、もしミスラが一人で来ていたら……」
「それでも相手にしませんよ。特別惹かれる見た目でもありませんでしたし」
そう答えると、賢者は「綺麗な人だったのに」とひとりごとのように言って、ココアを一口啜った。
「綺麗な人」という言葉を受けて、ミスラはさっきの女の容姿を思い出そうとする。けれど、どんな顔形をしていたのか、どんな髪色をしていたのかさえ思い出せなかった。そもそもとして、顔をちゃんと見ていなかった気がした。きちんと女を視界に入れていたのは、おそらく去っていく際の後ろ姿くらいだろう。さくさくと音を立てて雪を踏みしめる靴先。揺れるコートの裾と、そこから伸びる脚。そこまで思い出して、ミスラは「ああ」と声を上げた。
「確かに、脚は綺麗でしたね」
足首は細いのに、ふくらはぎは程よく肉がついていた。それは以前、ミスラが食べたうさぎのモモ肉を連想させる形だった。ワインで煮込まれたうさぎのモモは、チキンに似た淡白な味わいもあっていくらでも食べられそうなくらい美味しかった。ミスラの口の中に唾が湧く。ココアを飲んでる最中だというのに、すっかり口が肉の味を求めるようになってしまった。
そう考えながら、ミスラは賢者の表情を窺った。賢者の言葉にわざわざ共感してやったのだから、きっと喜んでいるだろうと思ったのだ。しかし、ミスラの予想に反して、賢者は眉を下げ、より一層暗い顔をしていた。
ミスラは不思議で仕方がなかった。普段賢者がミスラにしているように、賢者の気持ちに寄り添ってやったというのに、何が不満なのだろう。じっと賢者の顔を見つめていると、賢者が伏せていた目を上げてちらりとミスラの方を見た。しかし、ミスラと目が合うと慌てて視線を下に向けてしまう。
ミスラは斜め上に視線をやりながら、ぼんやりと考える。賢者を喜ばせるためにはどんなことをすればいいだろうか。別にこのまま暗い顔をした賢者を引きずるようにして街を連れ歩いても構わないのだが、胸の内にある形容し難い感情が、賢者に笑って欲しいと言っていた。
自分に置き換えたらどうなるだろう、とミスラは考える。例えば、ミスラが他人を褒めたとする。人の容姿にあまり興味が無いミスラが誉めるとしたら、おそらく、魔力や強さに関してだろう。「オズは強いですよ。まあすぐに俺が追い抜かしてやりますが」とミスラが言って、「そうですね。オズはすごく強いです」と賢者が共感する。ああなるほど。確かにこれは良い気分にならないな、とミスラは思った。それならば、ミスラが言うべき言葉は決まっている。いつか賢者に伝えようと思っていた事なので、むしろ丁度いいとさえ思った。
「でも、あなたの脚の方が綺麗ですよね」
ぱっ、と賢者が顔を上げた。見開いた目の中に、ミスラの顔が映っている。じわじわと赤らんでいく顔の中で、黒い瞳が夜空のように潤んで瞬いていた。綺麗だと思ったミスラがその目を覗き込もうとすると、賢者は慌てて目を逸らした。ミスラの頭の中には、添い寝をした翌朝に、パジャマから着替える賢者の下半身が浮かんでいる。その情景をなぞるようにして、そのまま声に出した。
「膝裏からふくらはぎまでの形とか、俺は好きですよ。膝頭の骨の浮き出てる感じとかも」
「あ、あし……脚って……」
「ああそれと、背中の肉のつき方も好きです」
「背中!?」
「はい。浴室で見てると、背中全体に綺麗に肉がついてていいと思います。骨の位置も綺麗ですよね」
「あの、お風呂の時に見てたってことですよね……?」
「はあ。そうですけど。あと、唇も小ぶりで」
「ストップ!いいです!もう!大丈夫です!」
賢者はココアを持っていない方の手をバタつかせて、ミスラの言葉を遮った。賢者の頬がこれ以上ないほど真っ赤に染まっている。赤い頬に、黒いまつ毛が良く映えていた。ミスラがそれを眺めていると、視線に気がついた賢者は手で顔を隠そうとした。仕方がないので、ミスラは視線を外して周囲のベンチや空を眺める。手持ち無沙汰にココアを飲むと、マシュマロが完全に溶け出してしまったせいか、砂糖水を飲んでいるように甘ったるかった。
賢者が落ち着いた頃、飲み干したココアのカップをゴミ箱に捨てて、二人は街を巡り始めた。横並びで歩いていると、自然と手が触れ合うために、ミスラは賢者に指を絡めて手を繋いだ。賢者は目を丸くしたものの、すぐにはにかんでミスラの手を握り返した。
すべすべとした手の感触を楽しんでいたミスラは、ふと前を歩くカップルに目を奪われた。互いの腕を絡め、束縛し合うような格好で歩いている。時折顔を見合わせては、幸福そうにクスクスと笑っている。それを見て、やってみたいと思ったのはミスラとしては当然のことだった。
「晶、俺たちも腕を組みましょう」
「えっ、俺とミスラがですか?」
「だって、あの人たちだってやってるでしょう」
ミスラが指差すカップルを見て、賢者はううんと唸った。
「あれは、仲の良い男女がするもので……。ああいや、今時は同性同士でもおかしくはないんでしょうけど……」
「よく分かりませんけど、俺と賢者様は仲が良くないんですか?」
そう問われた賢者は、顔を赤くして俯くと「……仲良しです」と答えた。ミスラはその返答に満足しながら、賢者の腕に自分のものを絡める。しかし身長差ゆえか、どうも肘の位置が違いすぎて、ミスラが賢者を引っ張り上げているような格好になった。前を行く男女のカップルは、性差のために自分たちよりも身長差があるだろうに、何故自然に歩けているのだろう、とミスラは疑問に思った。よく見ると、女の方はヒールのある靴を履いており身長差はほとんどなかった。なるほどヒールというものは一体何故存在するのだろうと不思議だったが、ああいう風に活用するのか、とミスラは納得した。
結局、腕を組んで歩くとどうしても不恰好になったために、賢者がミスラの腕に抱きつくようにして歩くことになった。腕を組むより密着するために、むしろこちらの方が良いとミスラは機嫌が良くなった。服越しに感じる賢者の腕の感触に、ミスラは浴室の中で眺めた彼の腕を思い浮かべる。うっすらと肉がついていて、手首が締まった腕。腕といわず、背中も脚も見たいと思ったミスラは、素直に口にした。
「帰ったら一緒に風呂に入りましょう」
「……もしかして、俺の体、ああえっと、変な言い方ですけど、見たいから、ですか……?」
「はい」
賢者は黙り込んだ。真剣に悩んでいる様子がミスラにも伝わってくる。無意識なのか、ミスラの腕に縋りつく力が強くなっている。そしてたっぷり一分は経っただろう頃に、賢者がミスラの腕を強く引き寄せた。目一杯爪先立ちをして、ミスラの耳元に唇を寄せる。内緒話のように潜めた声で、ミスラに囁いた。
「俺に気付かれないようになら、見てもいいですよ」
その言葉を聞いて、ミスラは形容し難い興奮が胸に満ちるのを感じた。どんな閨事の誘いよりも、卑猥で淫蕩に聞こえてしまったのは、果たしてミスラだけのせいなのか。口の端を釣り上げながら「それくらい朝飯前ですよ」と答えるミスラに、賢者は黙って抱きついている腕を抱え直した。