申し訳ないけど、と口にした瞬間、目の前のオペレーターはあからさまに肩を落としていた。
悪いことをしたな、と思った。ついさっきまでの、緊張でこわばっていた彼の顔を見ていただけにそう思ってしまう。
オペレーターがとぼとぼとロドス艦内に帰っていく。自分はしばらくその場に留まり、彼の背中が小さくなっていくのを眺めていた。風が強い。フードがなぶられていくのが分かる。ここは甲板だった。聞いて欲しいことがあるからと、ここに来るようあらかじめ指定されていた。そのせいで今や、周囲で立ち働いているオペレーターたちの注目の的だ。まじまじと見る者はさすがにいないが、作業をこなしながらちらちらと様子を窺っている。
人目のある場所を選んだのは、彼なりの配慮だったのだろうか?人気のない場所で、二人きりの時にこういったことをされると、恐怖心を覚える女性が多いということを知識として知っている。それとも、衆人環視の中なら断りづらいという算段があった?結局、彼の意図は彼本人にしか分からないだろう。
一度、ゆるやかに周囲を見渡して(何も見てませんとばかりにそっぽを向く彼らの様子は愉快だった)自分もまた艦内へ戻るため歩き出した。すれ違いざまに、ある女性オペレーターが隣人へこうささやくのが聞こえる。
「もう十二回目よ」
なにが?と疑問を抱いた瞬間に、ああ、自分が振った数か、と理解した。当事者たる自分でさえ回数を覚えていないというのに。彼女の記憶力を褒め称えたかった。
艦内に続く扉を後ろ手で閉める。その直前、扉の向こう側の空気があからさまにほっとしたのを感じ取った。彼らも彼らで、こちらに気を遣っていたのだろう。やっぱり、告白というものは何度されても慣れないな。そんなことを思いながら執務室へと向かい始めた。
「十二回目らしい」
「なにがだ」
「私が、告白されて振った回数」
今日、内勤のオペレーターに告白されたんだ。呟くようにそう言って、レーズンとクリームを挟んだクッキーを一口かじる。おいしい。さすがマッターホルンの作ったお菓子だ。しかし今日、彼はこれを執務室に届けに来たかと思うと、すぐにそそくさと出て行ってしまった。シルバーアッシュがロドスを訪れて今みたいにお喋りに興じる時、つまみを持ってきてはちょっとした雑談をしてくれるのがささやかな楽しみでもあったのに。まさか、昼間のことがもう彼の耳にも入っているのだろうか。
「わざわざ私に教えて、妬かせたいのか?」
「君が私の口から聞きたがってるだろうと思っただけだ。どうせもう知っていたんだろう?」
「さて、どうだろうな」
しらをきる恋人の顔を、じっと睨みつける。ローテーブルを挟んで、向かい側のソファに座る顔を。整った顔だ。この男の顔を見るたびにそう思う。人の顔というものは、ここまで完璧な形になることができるのか。目も鼻も口も、この顔にこうやって収まるために、生み出された器官なのではないかと本気で思ってしまう。目元にやや険がありすぎるかもしれないが、それさえもたまらないと言う人は大勢いるだろう。この男に愛されたいと願う者はどれだけいただろうか。彼に愛を囁かれたり、ベッドに誘われる妄想をした人間はきっと数えきれないほどいる。
「食い下がられただろう」
「少しはね」
断った直後、あのオペレーターはぎゅっとつらそうな顔をしてから「どうしてもですか」と続けた。多分、答えは分かっていたはずだ。あの表情はまるで、とどめを刺されに行くようだった。けれど──
「大切にしてもらってるし」
自分がそう言った瞬間、彼はひどく打ちのめされたような顔をした。それからだ。その表情がどこか疲れ切ったものに変わったのは。全てを諦めたような顔。
「お前が魔性をふりまくたび、私がどれだけ心をかき乱されているか考えたことも無いだろうな」
「はあ」
「明日にでも、記入済みの婚姻届けをお前の背中に貼りつけて、ロドス中を闊歩させねばなるまい」
「なに言ってるんだ、ばか」
この男は私が絡むと、途端に変な気を起こす。照れ隠しではなく、本心からそう思った。
「同情を誘うつもりはないが、私にも憂鬱な事柄の一つや二つはある」
「ふうん。君を寝取りたがっている美女が毎晩寝室で待ち構えてるとか?」
「陰口を叩かれている」
「誰に?」
「ロドスの面々にだ」
「……なんて?」
「あれではまるで、聞き分けの無い子供に飴をやってるようなものだと」
「飴?」
「お前が、私に恋人の座を与えたことについてだろう」
おそらく自分は、珍獣を見るような目をしていただろう。その視線を受けて彼は笑った。聞き分けの無い子供?それは、この男のことを言っているのだろうか。こんな風に、獰猛ともいえる笑みを浮かべた男が、子供だと?言葉に詰まった私へ、彼は言った。
「しかし、飴は飴だ」
「……そうだろうね」
他に言うべき言葉も見つからなかった。ほとんど無意識に、テーブルの上のクッキー皿に手を伸ばす。しかし指先は宙を掴むだけだった。見ると、空になっている。知らず知らずのうちにつまみすぎたらしい。
「また持ってこさせるか?」
シルバーアッシュが言う。私は首を振った。ソファーから立ち上がる。
「食堂に行くぞ」
「食堂?」
「シルバーアッシュ、君は知らないかもしれないが、最近食堂にソフトクリーム機が導入されたんだ。お金を入れて、セルフサービスで巻くやつだ」
「ほう」
「それを君におごってやる。喜んでいいぞ」
「……旨いのか?それは」
「分からない。まだ食べたことがないから」
シルバーアッシュはソファーに腰かけたまま、まるで面白い出し物を見るような目でこちらを見上げている。でも、と私は続けた。
「でも、私はとても上手にソフトクリームを巻けるだろう。完璧といっていい形に」
「初めて使うんじゃないのか」
「行くぞ」
シルバーアッシュの手を引いて食堂へと向かった。
ソフトクリーム機は、使用禁止になっていた。大きな赤いバツ印が書かれた紙が、機械の正面に貼られている。噴出口で詰まりを起こしたらしい。小さな字で「一部のオペレーターによる度を超えた機械の占領も原因の一つであり、」とも書かれていたが、理由はどうでもよかった。
「残念だったな」
身を寄せて、横から覗き込みながらシルバーアッシュが言う。おそらく今の自分は、分かりやすく項垂れているのだろう。
「そのマシンさえ動いていたら、お前が完璧なソフトクリームを作りだして、それに感銘を受けたオペレーターが以前から胸に秘めていた想いをお前に告げる場面が見れただろうに」
「……」
面白くもない冗談に返事をする気力もなかった。
「購買でアイスを買ってやろうか」
「いい」
二人で来た道を戻る。別に、完璧なソフトクリームを作ることで彼にぎゃふんと言わせたかったわけではない。それでも、意気揚々と出てきた手前なんだか気恥ずかしかった。
「あ」
廊下の向こうから、そんな声がした。うつむきがちに歩いていた顔を上げる。するとそこには、昼間に甲板で振ったオペレーターが立っていた。あの時の、張りつめてこわばった顔が一瞬にして思い出される。
「……おつかれさま」
「…………」
何と声をかけるべきか分からず、形式的にそう言った。オペレーターは、首を縮こませるように会釈した。人の良さそうな顔の中で、彼の目がシルバーアッシュと自分とを交互に見る。なんだか、叱られるのを怖がっているような目だった。妙な空気ができ始めていた。それをシルバーアッシュに悟られる前にここから立ち去りたい。いや、もう気がついているかもしれないが。
本当なら、このまま何事もなかったかのようにすれ違うのが最善であったのだろう。実際、自分と彼はそれを望んでいた。わずかな摩耗が生じる可能性はあるものの、何事もなかったかのように振舞い続けるのが、穏やかな関係を保ち続けるために一番手っ取り早いものだ。しかし、それを望まない者がここに一人いた。
「ひとつ、貴殿に聞いていいか」
大仰な呼び方をして、シルバーアッシュが彼を呼び止めた。「え?」と彼が顔を上げる。困惑しきった表情だった。それはそうだろう。私も多分、同じような顔をしているだろうから。彼の視線を捉えたのを確認してから、シルバーアッシュは尋ねる。
「ここにいるドクターと、同じ席で食事をした経験は?」
「……いいえ」
オペレーターが答える。しかしそれは、一刻も早くこの場から立ち去りたいという、ある種の怯えから出た答えだっただろう。この男の、こんな視線を浴びながら過去の記憶をきちんと振り返れたかというと絶対にできないはずだから。シルバーアッシュは笑っている。優しい、慈悲深いとでも言えそうな微笑だ。声だって子供をあやしているかのようだ。
「なら、ソフトクリームを奢ってもらったことは?」
馬鹿馬鹿しさに顔を覆いたくなった。オペレーターは黙り込んでいる。恐ろしげにシルバーアッシュを見上げたまま。彼の両足は、途方に暮れたように床へ張り付いたまま動かない。
「どうした?喉風邪か」
「もういいよ。行って」
シルバーアッシュを手で制しながら、もう片方の手を彼に向けて振った。「仕事の邪魔して悪かったね、──」最後に彼の名前も付け足して言う。そこまでしてやっと、彼は我に返ったようにこの場を離れた。立ち去る直前に何度もお辞儀をして。
オペレーターの姿が見えなくなった頃、私は吐き捨てるように言ってやった。
「最低だな、君」
「何がだ?」
「ああやって私の周りにいる男をいじめ倒すのが君の趣味なのか?」
「仲睦まじく雑談していただけだ」
「世界一意地の悪い男だな」
「そう見えるか?」
「……私に想いを告げに来た人たちは、みんな誠実な人ばかりだった。優しくて、真面目で、自分以外の誰かのことを思いやれる人たちだったよ」
「褒め称えるべきことだな」
「だから、もし君と付き合ってなかったら、彼の告白をOKしていただろうね」
シルバーアッシュは何も言わなかった。さすがの彼も口を閉ざすしかなかっただろう。しばらく、無言のまま二人並んで歩いた。そして苦し紛れの言い訳みたいにこう言った。
「当てつけのように名前を呼んだだろう」
私は大人なので、それに反応しないであげた。
「あんまり悪ふざけが過ぎると、私も黙ってないからな。君が私の全身に婚姻届けを貼りつけたって、不貞を犯してやる」
「……」
精いっぱい肩をいからせて、ずんずんと歩み始めた瞬間に、何かに足を取られて転びそうになる。見ると。片足に大きなしっぽが巻きついていた。誰のものか、もはや言うまでもないだろう。
「シルバーアッシュ」
視界が暗くなる。彼が身を寄せてきていた。あの長身でこちらに寄りかかってくるのだから、重量がすごい。毛量の多い髪が、フードに押しつけられる。もちろん、脚に絡みついたしっぽはそのままだ。
「だめだ、かわい子ぶったって流されないぞ」
すり、と頭を擦りつけられる。視界の端に、彼の髪の毛の先がちらついては消えていく。
「君が謝らないってことは、悪いことをしたと思ってないんだろう!これからも暇さえあれば私の周りの人間に牽制するつもりだな!特に君みたいに長身で見目の整った男相手に!」
彼は何も言わない。顔を頭に押しつけられているので、表情も分からなかった。ただ、寄りかかってくる体を受け止めて続ける。一体なんだって、廊下の真ん中でこんなことをしなくちゃならないんだ?人が通りかからない事だけが唯一の救いだった。人語の通じない、巨大な猫のように頭を擦りつけてくる。お手上げだった。この状況で、クレーン車を連れてきても彼を引き剥がせはしないだろう。ため息をついた。すぐそばにぶら下がっている、彼の腕を撫でる。
「もう満足しただろ……」
「……」
「今度ボーナスが入ったら、君のためにソフトクリームの機械を買ってやるから……」
「別に食べたくもないが」
久しぶりに出た言葉がそれだった。
「私なりの愛情表現なんだよ。分からないのか?カランド貿易の社長までやってるくせに」
本当に、聞き分けの無い子供に飴をあげているようなものだ。手袋を外して、指先で彼の髪に手櫛を通した。柔らかい毛並みと、熱く湿った頭皮の感触。彼にとってこちらからの好意は飴のように甘いのだろうと例えてみれば可愛いものだが、やけに大きな図体と変に回る頭とを使って善良な人々を脅して回るのだけは、いずれ辞めさせなければならない。
翌月、私が十三回目の告白をされた後に、カランド貿易からロドスへと親交の証に機器の貸与がなされた。カランドのマークが見せつけるように印刷されたそれは、まさしく高機能のソフトクリーム・マシーンであり、長い間食堂の隅に置かれることとなったのだった。