清潔なベッドの上で、せつらは目を覚ました。
薄青い闇が、部屋中を満たしている。重傷を負い、メフィスト病院で身を休めている最中だということを、彼は思い出した。
横たわったまま、せつらの目がベッド脇へと向けられる。そこに、一人の男が腰掛けていた。
人外を思わせる美貌の男だった。薄闇の中でも、光を纏っているかのように見える。その美しい瞳が、せつらをじっと見つめていた。せつらがぽつりと呟く。
「ダミーか」
ドクター・メフィストと瓜二つの顔をして、傍に腰掛けるこの男は、彼を模したダミー人形だった。
「何をしに来た?あいつに監視でも命じられたのか」
「いや、私個人の意思で来た」
「意思ねえ」
芒洋とした仕草で首を傾げるせんべい屋の顔を、ダミーはじっと見つめていた。ふと、白い相貌に僅かばかりの険しさを浮かべたかと思うと、意を決したように重々しく口を開いた。
「私は、メフィストの手で作られていない」
「──へえ?」
「私は意思から生まれ、自らの手でこの体を組み立てた」
「どうやって?」
せつらはさして驚くことなく先を促した。
「私の自我は、まず君に触れたいという想いから始まった。それを叶えるために体を作った。地下室には、ダミーの予備パーツが幾らでも転がっている。私はそれらを繋ぎ合わせ、この体を得た」
「へえ」
「けれど、頭だけは予備が見つからなかった。だから、それだけは稼働しているダミーの頭をもぎ取って調達した」
それは、随分不気味な光景だっただろう。せつらの頭の中で、首の無いデッサン人形が、通りすがりのメフィストの頭をもぎ取る姿が想像されていた。
「お前、いつかあいつに処分されるよ」
「ああ」
メフィストの許しを得ないまま生まれ、制御下にいない人形を彼は認めないはずだ。このダミーの存在を知れば、すぐにでも解体するだろう。
ダミーもそれは重々承知しているのか、頷く声は静かだった。
「それで──」
僅かばかりの沈黙の後、せつらがゆったりと口を開く。奇怪な生まれを告白する間、伏せられていたダミーの目が、美しき魔人へ向けられる。すがるような光を帯びて。
「それで、お前は僕に何をして欲しいの?」
メフィストがそっと身を乗り出す。白い繊指が、音もなくせつらの手に重ねられた。絹糸のような髪が、その動きに合わせてせつらの体に零れ落ちる。
凄絶とした美貌が、すぐそばまで迫る。身を寄せたダミーは、懺悔をする聖者のような顔をして、悩ましげにそっと囁いた。
「憐憫が欲しい」
どんな人間でも、この男のために全てを捧げたくなるだろう。それほどまでに、憐れっぽく、蕩けそうな声をしていた。
「憐れな人形だと、そう思っただろう?なら、その心のままに情けをくれないか。たった一度の口づけでも、抱擁でもいい。私はそれだけを夢見てこの体を手に入れた」
今やダミーとせつらの体は、隙間もないほどに密着していた。
声が、潤みを帯びていく。熱を増した吐息が、冷えた室内に咲いては霧散する。しかし、それに対するせつらの返答は、ひどく素っ気ないものだった。
「いやだ」
ひゅ、とダミーの瞳孔が縮まる。それを見つめながら、せつらはこう続けた。
「情けが欲しいなんて、僕になんの貢献もしてない癖によく言えるな」
「…………」
「そりゃ、世の中には好きでいてくれるだけでお返しをするような人間はたくさんいるよ。でも、僕はそれに当てはまらない。何もしてないのに何かして欲しいなんて、欲張りだな、お前」
ダミーが目を伏せる。しかしあからさまな落胆の色はそこに無い。せつらに拒絶されることを、心の底では分かっていたのかもしれない。
「……なら、何をすれば君の同情をもらえる?」
すがるような声でダミーが言う。彼のオリジナルが、この魔人にどれだけ尽くし、どれだけ冷たくあしらわれているかを知っていてもこう言えるのだから、愚かな個体のようだ。
「じゃあ、見張りをしてよ」
「……見張り?」
「この病院、仮眠を取るのに便利だから。あのやぶ医者が寝込みを襲いに来ないよう、見張っててよ。あいつが来そうになったら、起こすなりなんなりして」
この病院が位置する歌舞伎町は、仕事柄せつらがよく訪れる場所だ。捜索願いを出されるような後ろ暗いことのある人間は、繁華街に身を潜めることが多い。その仕事の合間に休憩する場所として、メフィスト病院は立地的にも安全的にも申し分なかった。
ただ一つ、院長に鉢合わせると面倒なことになる、という点のみがせつらにとって煩わしかった。彼に見つからないよう仮眠室として利用できれば、という発想が以前から頭の中にあった。それを果たしてくれれば、情をかけてやらなくもない、という事らしい。
「承知した」
ダミーは重々しく頷いた。それを見て、せつらは安心したように微笑すると
「じゃ」
と片手を振ってまたベッドに身を沈めた。数秒後には、穏やかな寝息が響き始めた。
その姿をダミーは静かに見つめ続けた。伏せたまつ毛の影が落ちる、白い顔で。
この病室ごと世界から切り離されてしまったかのように、静寂に満ちた部屋の中で、ダミーはただひたすらに想い人の顔を見下ろしていた。
それからというもの、せつらは毎日のようにメフィスト病院を訪れた。裏口から侵入し、院長の目をくぐり抜けてどこかの空室に忍び込むと、必ずこのダミーが待ち構えていた。
せつらはそこで仮眠を取った。そう長い時間ではない。三十分から一時間ほどだ。その間、ダミーは瞬き一つせずせつらを見守っていた。
仮眠の途中で、オリジナルが訪ねてくるような事は一度もなかった。ダミーの手によって、メフィストの手の届かない場所へ部屋ごと時空を歪めるかしてるのかもしれない。
一ヶ月は過ぎた頃だろうか。いつものように眠りから目覚めたせつらは、突然こんなことを提案した。
「お前を家に持って帰ろうかな」
ちゃちな防犯装置よりは役に立つかもしれないし、と彼は言った。せつらが寝ている間、警備システム代わりに使おうと言うのである。
侵入者を知らせる妖糸を以前から店の周囲に張り巡らせている彼にとって、この人形のおかげで特別防犯が高まるというわけでもなかった。けれど、妖糸一本減らすくらいの機能はあるだろう、と見込んだのである。千分の一ミクロン以下の、糸一本分の価値。それが大きいのか小さいのか、せつら本人以外誰も計り知れないだろう。
「構わないよ」
ダミーは了承した。それが名誉であるかのような頷き方だった。
ダミーを引き連れて、せつらは病室の外へ出た。大理石のように白く輝く廊下がある。せつらが扇動する形で、裏口を目指した。
廊下の向こうへ糸を飛ばし、他者の気配を探りながら進んだ。しかし、それをくぐり抜ける者がいた。
せつらが足を止める。霧がかかったかのように果ての見えない廊下の先から、白い影が滲むように現れる。その影の懐で、銀色に瞬くものがあった。
せつらは抵抗しなかった。真っ直ぐに向かってきた針金が、黒衣の魔人を避けて、その背後にいるダミーの体を貫く。崩れ落ちる音を耳にしても、せつらは振り返らずに正面を見据えていた。
白いケープを揺らめかせて、オリジナルのメフィストが距離を縮める。逆光によって、その表情は窺い知れない。けれど、笑っているようにせつらには思えた。
「悪趣味だな」
メフィストの足が止まる。
「見せしめみたいに殺さなくても良かっただろう」
「それは君に危害を加えた」
穏やかな声だった。楽し気にさえ聞こえた。けれど、怒りを無理やり抑え込んでいるような不気味さを感じるのは何故だろう。
「気付いていただろう、君も」
せつらは首をすくめた。
分かっていた。
彼が眠っている間、その黒衣の下に白い手を忍び込ませたことも、気づかれないように不埒な行いをしていることも。
「本人の了承を得ない性的行為は、加害に当たるからね」
せつらが振り返る。どのような現象が起きたのか、そこに横たわっているはずのダミーは体だけを消滅させて、白いケープだけが取り残されていた。
拾い上げると、それはせつらの手の中で白木蓮の花びらのように見えた。
せつらは芒と立ち尽くしたまま、ダミーの言葉を思い出す。情けが欲しい、と言っていたような気がした。なんの感慨も湧かなかった。けれど、果たすべき約束のような気がした。
身じろぎ一つしない抜け殻へ、白い顔が沈み込む。
ケープの表面に、口づけをした。甘やかな死臭が鼻を掠める。
聖遺物じみたそれが、歓喜に打ち震えたように見えた。