絵具のように、雨のように

 外で、建物が溶け始めている。逆行する雨の中で。絵具のように、樹脂のように、夢のように。雨に濡れた窓越しに、崩れてく建物たちのぼやけた姿が見えていた。
 Xは、華奢なスプーンの先でパフェ「らしきもの」をすくい取る。ザザビー嬢の発明した幻覚剤の効果は目覚ましく、彼の舌が感じ取っている甘味は本物としか思えない。普段コーヒーばかり口にしているせいか、余計に新鮮に感じられる。
 エンジニアとして、彼はこの発明を讃えてあげたいところだったが、当のザザビーはテーブルの端でうつむいていた。ついさっきまで、大きな坩堝の中から幻覚剤を配り歩いては、跳ねるように難民の間を行き来していたのに。薔薇や羽根、パールで飾られた帽子が、そのうつむいた頭に合わせて、重たげに傾いている。手には、黒い燕尾服を持っていた。それを見に着けていた執事は、もういない。彼女のそばには、まるで乳母のようにソネットが寄り添っている。
 Xは、視線を周囲に戻した。何十着もの服が、花びらのように力なく床に広がっている。先ほどまで難民たちが着ていた服であると、彼はちゃんと分かっていた。今この瞬間も、それは続いている。彼のとなりにいたメイドが、いつのまにか消えていた。彼女が手にしていた皿がテーブルに取り落とされ、たまごサンドが彼の手元に転がっていったが、彼が気分を害した様子はない。
「あんたら、いつもこんなもんを見てるのか?」
 Xの左隣で、ショートケーキをぱくついていたレグルスが言った。声には呆然とした響きが含まれている。威勢よくフォークを握っていた手は、今やAppleのシャツをつまんでいる。その姿は、親とはぐれてしまわないかと怯えている子供のようだった。
「こんなもんって、何のこと?」
「『ストーム』に決まってるだろ! この、いま目の前で起きてる……」
 口にするのも躊躇われるのか、彼女にしては曖昧な物言いだった。しかしその気持ちも分かる。Xは再度目の前の光景に目を向けた。消えていく人々。残されていく痕跡。もし、彼らが直前まで触れていた椅子や食器を手に取ってみれば、体温さえ残っているかもしれない。けれど、その持ち主そのものは、どこを探したって今この世界にはいないのだ。
「僕は内勤任務ばかりだからね、君が考えているほどには、この景色を見慣れてるわけではないよ」
「ああ、そうか。それなら、よかった……」
 そう返すレグルスの声は弱弱しい。
「あたし、自分のことを割と軽薄な奴だと思ってたんだけどさ、そうでもないのかもしれないって思ったよ。今消えていってる奴らにも家族がいて、友人がいて、お気に入りのレコードだってあったはずだって思うと、ゾッとするものがある」
「船長が軽薄? 義理人情に厚すぎるほどでしょうに」
「見るのが二度目のあたしでさえ、こんなに気圧されてるんだから、あのお嬢様には見せない方が良かったのかな……」
「あれ? 二回目なの? その割にはちょっと過敏すぎるんじゃない? これから財団で暮らしていくなら、もっと図太くなっていかなくちゃ」
「おい! あんたには血も涙もないのかよ!」
「船長、気を強く持っていたいのなら、そのサングラスの下で目を閉じていた方がよろしいかと」
「う……」
 誰かの泣く声が聞こえる。それはザザビーのものだろうか。それとも、たった今消えていったシュナイダーの姉のものかもしれない。ストームで人が消えていっても、涙はそこに留まるのだろうか?
「ヴェルティは……泣いてなんかいないよな?」
 そう言いながらも、レグルスはヴェルティの様子を窺う勇気は無いらしい。きっとその言葉は、期待というより祈りなのだろう。彼女が傷ついていなければいい、という純粋な祈り。
「泣いてないと思うよ」
 Xはどこか冷淡に、そう言った。
「泣いて変わる未来があれば、彼女もそうしていたのかもしれないけど」