神さまみたいなつくりの男

 午後の講義が終わって、学生たちが次々席を立っては帰り支度をしている。そんな中で、晶は席に着いたまま、ため息をついて大きく伸びをした。今日はバイトも無い。このまま帰るだけだった。そのせいか、気が緩んでいたのかもしれない。だから、その錠剤を疑うことなく受け取ってしまったのだろうか。
「あげる」
 その声とともに、ぽん、とピルケースのようなものが目の前に置かれた。見ると、同期の女の子がすぐそばに立っていた。彼女は晶を見てくすりと笑った。
「ビタミン剤。疲れてるときに良いらしいよ」
 ため息をついていたところを見ていたのかもしれない。晶は少し照れくさそうに、お礼を言ってそれを受け取った。プラスチックのケースの中には、確かにそれらしい小粒のタブレットが入っていた。ケースは手の中に納まるほどの小ささだ。そのチープな感じが、昔コンビニのレジ前に売っていたピンキーなんたらとかいうラムネ菓子のようだった。だから余計に、抵抗なく貰ってしまったのかもしれない。むしろ、気を遣われちゃったな、くらいのことを思っていた。ケースをポケットの中にしまう。ざらざらと揺れる錠剤の感触が、やけに生々しく手のひらに伝わってきた。

 帰りの電車は少し混んでいた。朝の通勤ラッシュほどではないものの、席はすべて埋まっている。晶は運良く座れたことに感謝した。
 電車内の空気は澱んでいた。一日中働いてきた人たちの、汗や皮脂、外気の匂い。晶は、アパートの最寄り駅に着くまで、あとどれくらいかかるかを頭の中で計算する。誰かが咳払いをする音。なにか、リフレッシュできるものが欲しい。そう思った瞬間に、ついさっき貰った錠剤を思い出した。
ポケットから取り出す。チープなプラスチックの容器。これ、嚙み砕くタイプのタブレットかな。そう考えながら、二粒だけ取り出し口に含んだ。彼はフルーツ味かピーチ味を想像していた。しかし実際には、ミントのような風味が鼻を抜けていっただけだった。

 最寄り駅で下車した時、彼は明らかな異常を感じ取っていた。言いようのない多幸感が、全身に満ち溢れている。体の中で、快楽を感じる神経だけが限界まで引き絞られているような。ふわふわとした足取りで改札口に向かう。足裏が地面に接するたびに、奇妙なくすぐったさが靴の中を泳いだ。
 駅を出るころには、その違和感はもはや明確なものになっていた。晶の体を、何かが突き破って出ようとしているかのようだ。むず痒い、気持ち良い感覚が肌の上を這う。
 彼はもはや周囲の風景をきちんと認識できなくなっていた。もう夕日が沈みかけていて、空の上の方は透き通った藍色になっている。視界の端に映る建物の明かりが、通り過ぎるたびに帯のように尾を引いてどこまでも後方に伸びていく。リュックを胸に抱えながら歩く。そのうちに何度か人にぶつかった。しかしそれに気を留めている余裕はない。晶はほとんど無意識のうちに、自宅のアパートの前までたどり着いていた。彼が自力で玄関の鍵を開けられたのは、ほとんど奇跡に近いことだっただろう。
「おかえり」
 そう言って、フィガロが彼を出迎えた。しかし彼の視界に映ったのは、リュックを抱きしめたままうつ伏せで玄関に転がっている恋人の姿だった。ほんの一秒ほど、フィガロはそこに立ち尽くした。そして、晶の元へ近寄る。屈みこみ、両手で彼を抱き起そうとした。
「どうしたの」
 晶の顔を上げさせる。白い顔がフィガロの方を向いた。うつろな目。額には汗が滲んでいて、しかし肌はいつも以上に血色がない。晶の呼吸はそう荒くない。けれど彼の心臓の鼓動が分かりそうなほど、体の表面を何かがざわめいていた。
「何をされたの……」
 低く、押し殺すような声でフィガロが尋ねる。晶はそれに答えた。ほとんど吐息に近い、掠れるような声だったが。
「くすり……」
 それを聞いて、フィガロは白い手を晶の唇に押し当てた。次に頬を。その次に首筋を。小刻みに震える、じっとりと湿った肌。呼吸か、脈を測ったのだろうか。晶の目には、フィガロがどんな表情をしているのか分からない。彼の視界で、フィガロは薄暗いキッチンの背景と混ざり合い、抽象画のような姿になっている。
 フィガロの手が、晶のスラックスのジッパーを下ろした。そこに指先を潜り込ませる。薄い下着の感触が伝わってきた。
「濡れてる」
 その言葉だけが、やけにはっきり晶にも聞き取れた。彼はほとんどパニックのような状態になる。ここに来る途中で失禁してしまったのかと考えたのだ。しかし冷静に見てみると、それはスラックスにまで染み込まないほど少量で、そのうえそれは尿ではなく精液だった。晶は自分でもほとんど気が付かないうちに、ゆるく吐き出していたらしい。フィガロが手を離す。
「乱暴はされてないみたいだね」
 晶の衣服が乱れていないことや、肌を見てそう判断したのかもしれない。
「立って」
 そう言うと同時に、フィガロは晶を抱き起こした。運ばれていく最中、晶はほんの少しだけ、フローリングの廊下に糸のように細く唾液を吐き出した。

 ほとんど投げ込まれるようにして連れられたのはバスルームだった。座り込んだ晶が浴槽のふちにぐったりともたれかかる。遠くで、シャワーの音がする。浴室に充満する湯気。ほとばしるお湯を頭からかけられた時、晶は子犬のような悲鳴をあげて逃げようとした。
「じっとして」
 お湯が顔面を強くはたく。反射的に彼は目を閉じた。首筋を伝ったお湯が服の中に入り込む。晶は帰って来た時とほとんど同じ姿でバスルームに投げ込まれていた。かろうじて靴は脱いでいるが、それだけだ。そしてフィガロの方も、服を脱ぐ暇も惜しいという風にそのままだった。
 晶は怯える子供のように、両腕でシャワーから顔をかばおうとする。フィガロはそれを、胸倉を引き寄せてよりシャワーヘッドを密着させた。
「飲んで」
 その声に従ってか、それとも反射的なものなのか。晶がうっすらと口を開けた。
「いちいちコップについで飲んでちゃ間に合わないよ」
 口に入り込んだお湯は、そのほとんどがそのまま吐き出されているようだった。口の端から顎へ、首筋へ。お湯が太く伝っていく。
「できないなら吐いてよ」
 晶は浴室の隅で、虐待された子犬のように身を縮こませている。かたくなに目を閉じて、顔をそむけようとする。今の彼には、浴室の照明がひどく眩しく見えた。まるで手術台で浴びせられるライトのようだ。
「なんか、俺がDVしてるみたいじゃん」
 ぽつりとこぼされた声はひとりごとのようバスルームの壁に反響して、シャワーの音にかき消されていく。どんな気持ちでこの言葉を口にしたのか、晶には想像できなかった。そしてフィガロ自身も、いま自分がどういう気持ちなのか理解できていないのかもしれない。晶の体で、体温が恐ろしく上がっていく。しかしそれに反して、周囲の気温はひどく冷え切っているように感じた。
「お腹を蹴られたい?」
 結局、それからしばらく後、フィガロがやや乱暴な手を使って晶に胃の中のものを吐き出させた。おそらく学食で食べたパスタかスパゲッティなのだろう麺類らしきものが浴室の床にぶちまけられて、それで終わりとなった。フィガロは最初、彼を浴槽の中に投げ込まなかったのを後悔した。もし逃げ回ったら厄介だと思ったのだ。しかし実際は、洗い場と浴槽のふちに挟まれたすみっこで、ひたすらうずくまっているだけだった。

 晶が目を覚ました時、彼はベッドに寝かせられていた。ずぶ濡れだった全身は乾いたタオルで拭われて、やわらかなパジャマにちゃんと着替えさせられていた。肌に直接触れる生地の感触が気持ちいい。丸一日眠っていたような気がした。時計を見ると、三時間ほどしか経っていない。
「起きた?」
 枕元にフィガロが立っていた。彼も服を着替えていた。おそらく、バスルームでのあれこれで彼もびしょ濡れになったのだろう。
「具合はどう?気持ち悪い?」
「いえ……」
 晶はまだぼんやりとした頭で身を起こした。軽い頭痛がした。しかしそれは寝起き特有のものだろうと思った。そのあともフィガロはふたつみっつ質問した。晶は首を振ったり頷いたりして答えた。
 目を覚ました直後、彼はフィガロに怒られるだろうと思った。もしくは愛想を尽かされて出ていくのだろうと。けれどフィガロはむしろにこやかに、てきぱきと動き回っていた。押入れの奥にしまい込んでいた、折り畳みテーブルがベッドのそばに置かれる。ベッドとテーブルが一部屋に押し込まれていて、まるでワンルームのようだった。
 晶の意識が、徐々にはっきりしていく。少なくとも、薬を飲んだ後よりは正気に近かった。キッチンからフィガロが戻ってくる。手にしたお盆に何かが乗っていた。あたたかく、食欲をそそるようないい匂いが、晶の鼻先をくすぐった。
「はい、食べて」
 目の前に出されたのは、パックに入った手羽先だった。表面の茶色い部分が、脂をまとっててらてらと輝いている。
「お腹すいてるだろうと思って。好きでしょ。ちょっとでも食べおきなよ。体力つくから」
 ペットボトルのミネラルウォーターも出される。マグカップに入った少量のスープも。
「あの……そこのお総菜屋さんのですよね」
「うん」
 パックの外側に貼られたシールに見覚えがあった。ニコニコしながら肩を組んでいる牛とにわとりの絵。アパートを出てすぐそこの商店街にある、昔ながらの総菜屋のものだ。
「君が起きた時、すぐ食べられるものを用意しておこうと思ってさ」
 晶は小さな声で「いただきます」と言って、手羽先を少しづつ食べ始めた。両手で手羽先を持って、ほんの少しずつ食べていった。小さな口で肉を骨から引き剥がしていく。脂で汚れていく唇。それをフィガロは、頬杖をついてニコニコと見守っていた。晶はなんだか、自分が小さな子供になって、熱を出しているのをお世話されているような気持ちになっていた。奇妙な気恥ずかしさが胸に満ちていく。
「お惣菜を買いに行ったらね、そこのおばちゃんに話しかけられてさ」
「はい」
「君が帰るところ、見てたって」
 どくん、と晶の胸が鳴った。全身が、冷水を浴びせられたかのように冷えていく。下着の中に出していたあれ。それを脳裏に思い浮かべながら、晶は震える声で聞いた。
「あ、あの……なんて……」
「ずいぶん酔っぱらってたけど大丈夫?って」
 にっこりと笑ってフィガロはそう言った。晶が一瞬だけぽかんとする。フィガロは彼を落ち着かせるためか、どこかのんびりとした声で店員が話していた内容をなぞっていく。
 「晶くん、すごい酔っぱらってたみたいで。私が声をかけても気づかないのよ。猫背になってふらふらして。途中でサラリーマン風の人にぶつかってね、まあその人がすごい怒った顔になったんだけど、晶くん、見るからに「無理やり飲ませられた若い男の子」って感じだから、その人も仕方ないなって感じで何もせず行っちゃったから良かったわよ。今の大学生ってサークルで飲み会とかあるんでしょ。フィガロさん一緒に住んでるんだから、ちゃんとついてあげなきゃ。しっかりしなさいよ」
 だいたいそういった内容だった。聞き終えた晶は安堵から、ほっと全身の力を抜いた。
「良かったねえ、変なことしてなくて」
「はい……」
「全裸になって猥褻物出して、商店街を走り回ったりしてなくて」
「はい……本当に……」
「それで、売り物じゃないけどってゆかりおにぎりも貰ったから、お腹に余裕あったらそれも食べよう」
 優しい人に見守られている。そのことが晶をじんわりと温かくさせた。それと同時に、そんな人たちにあんな姿を見せてしまったことを恥ずかしく思う。晶が食べる手を止めてうつむく。すると、前から伸びてきた手が、晶の前髪を指ですくい取った。遮るものが取り払われて、ぱっちりとした二重の目が、フィガロの目と見つめ合う。
「可愛いね。もっと見せてよ」
 その、少しからかったような声がひどくむず痒くて、頭を軽く振ってフィガロの指を振り払った。しばらくの間、ふくれたように無言で手羽先を食べていた晶だったが、生来から持ち合わせている良心が、彼の心をひたひたと責め始めた。こらえていた涙が溢れ出すようにして、晶は小さな声で「ごめんなさい」とつぶやいた。それに対し、フィガロは場違いなほどにあっけらんかんとした声で「謝るのはもういいよ」と返す。もう?その言い方に疑問を抱くと、見つめ合ったフィガロがにっこりと笑ってこう付け足した。
「お風呂場で何回も謝ってもらったし」
 晶はつぎはぎだらけの記憶を辿ろうとする。そういえば、バスルームでシャワーを浴びせられながら、うわごとのように「ごめんなさい」と繰り返していたような気がする。しかし、その時の自分は何を思ってごめんなさいと言ったのだろう。フィガロに手間をかけさせたから?それとも、心配させてしまったから?もしくは今受けている苦痛から逃れたくて、反射的にそう言っていただけかもしれない。
「……大学で同じ学部の子にもらったんだ?」
「はい」
 あの薬物をもらったいきさつを話すと、フィガロは興味深そうに自身の唇をゆびさきで撫でた。
「それなら、あんまり急がなくてもよさそうだな」
「そうなんですか?」
「配り終わってすぐ自主退学、で逃げるわけでもなさそうだし。どっちにしても、おまわりさんのところに行くのはもう少し体調を整えてからにしよう。数日経ってまた何か異常が出てくるかもしれない」
「はい」
 フィガロは冷静だ。彼がそばにいてくれたことを、こんなにも心強く感じた日はないだろう。晶は自分の頭が落ち着いていくのに合わせて、胸の内がひどく陰鬱になってくのを感じた。膝を胸に引き寄せ、自分の体を抱きしめるように座る。フィガロが面白がっているような目で彼を見た。
「なあに。そんな顔して」
「……」
「そんなに申し訳なく思う必要ないのに」
「申し訳ないっていうか……」
「ああ、不甲斐ないって思ってる?」
「はい」
 ドラッグの危険性を、晶はちゃんと理解していた。中学でも高校でも、保健体育の授業で習った覚えがある。ニュースなんかで聞くような、薬物に簡単に溺れる同世代のことを、内心理解できないでいた。それがどうだろう。晶は何の疑いもなく、怪しげな薬を受け取ってしまった。もしかしたら運悪く、フィガロや周囲の人を傷つけていたかもしれない。彼は自分が情けなくて仕方がなかった。
「あはは」
 屈託なくフィガロが笑う。気のいいお兄さんみたいに。その笑顔がふいに引っ込んだかと思うと、床を膝で擦るようにして晶の足元にまでやって来た。ベッド端に手を置き、ぐいと身を乗り出して彼の鼻先まで迫る。至近距離で交わった視線に、晶が反射的に身を引くと「いいこと教えてあげようか」とフィガロが囁いた。
「俺はね、すごく嬉しいよ。君にこういうことがあって」
「え」
「もちろん、君に後遺症が残らなかったからこそ言える言葉だけど」
 フィガロの肌は白く、怖いほどに整った顔をしている。こんなにも近くで見つめ合っていても、その顔に一点の疵も見つけられない。天使。もしくは神様みたいなつくりの男だ。
「どうして……」
「分かんないかなあ」
 身を引いて、フローリングの床に座り込んだフィガロが、子供のようなしぐさで首をかしげる。しかし彼は、晶の方が子供みたいだと今まさに思っているのだろう。微笑の中で、彼の瞳がそう物語っている。晶のことを、無垢で、子供っぽくて、愛らしくて、そして自分の手の届く場所に置くべきものとして思っているような。生きていくために知るべき物事を、何も分かっていない幼子を見るような目で。「だって、そうだろう?」フィガロが言う。
「こういうことがあるたびに、君は俺以外の人をますます信用できなくなるんだから」