破滅願望

 「抱いていいよ」とリオセスリさんに言った時、さして深い理由はなかった。その関係になる決心がついたとか、そんな美しい理由ではない。もし言語化するのであれば「その方が気が楽になるから」であったと思う。
 気が楽になる。それはロープ一本の綱渡りをしていて、ついに足を踏み外して、奈落へと落ちていくときに感じる安堵にも似ていた。

 そう言ったのは、バスルームの中でのことだ。いかがわしい場面ではなく、お互いに服を着ていた。リオセスリさんは腕まくりをして、自分は片脚をシャワーの水流にさらしていた。膝についた泥を流してもらっていたのだ。
 コンビニでの買い出しの帰り、蹴躓いて転んだ。血は出なかったけど、膝は汚れた。先に家にいた彼に見られて、タオルで拭くくらいでいいと言ったのに、無理やりバスルームに連れてかれた。
 シャワーがタイルに叩きつけられる。歳の離れた兄みたいに、献身的な彼の姿を見て、何を思ったか自分はそう口走った。リオセスリさんはまず顔を上げた。こちらを見上げて、一瞬目を細める。シャワーの水が目に入ったのかな。そうは思ったけど、たぶん違う理由のはずだ。
「急だな」
「じらした方が良かった?」
「リネくん、はじめてじゃないのか」
「だったら面倒?」
「そうじゃないけど」
 そうじゃないなら、何? そう目だけで聞くとため息をついて「後悔するぞ」と返された。
「リネくんはたぶん一生、覚えてるだろうし後悔する」
「しないよ」
「リネくんは俺と似てるから分かる」
 はあ? という声が出そうになった。絶対にそんなことはない。そう言い切りたいのに、なぜかはばかられるものがあった。シャワーの温水が伝う、足先を上げた。その足裏で、リオセスリさんの肩を踏んだ。乾いた、高そうな黒いシャツ越しの肩に。濡れた足を置いて。彼の顔を見下ろしながら言った。
「いいから、セックスしてよ」

「リオセスリさん、肩が広くていいな」
 そう言いながら手を這わせると、苦笑する気配がした。子供じみた言い方だったろうか? こんな行為の直後に言うこととしては。でも、もう片手で数えきれないほど寝たのだから、今更雰囲気も何もないだろう。「リネくんは、俺の手首より二の腕が細い」
「そういうのだるい」
 みっしりと肉の詰まった背中だ。いつも、確かめるみたいに触ってしまう。自分とは全然違う体だ。リネットとも、フレミネとも違う。時々それに怯えそうになる。異物。自分の人生の中で彼を言い表すなら多分そうだろう。
 仕返しみたいに、今度は彼の方から触れてきた。脇腹を撫でられる。くすぐったくて、すぐに払いのけた。
「くすぐったがり屋だな」
「リオセスリさんが変な触り方するから」
「リネくんが敏感なんだよ」
 彼の目がまだ脇腹をじっと見ている。そこに触れた痕跡が残っているみたいに。その視線に気圧されて、無意識に膝を抱き寄せてそこを隠すみたいにする。
「はじめて会った時から、きっとそうなんだろうなあって思ってたがな」
「はじめて会った時?」
「もちろん、お喋りする仲になってからも思ってたけど」
 色の薄い瞳に対して、黒々とした瞳孔が、洞穴のような暗さをもってこちらを見下ろしている。
「白い肌も、前髪で隠れた額も、細い首も、用心深そうな目も、脚を折った時の膝頭のかたちも」
 次々と挙げていくのに、視線は見つめあったまま逸らされないのが不気味だった。
「俺が急に触ったら、人慣れしてない猫みたいにビクつくんだろうなあって思ってた」
「変態みたい」
 みたい、と一応付け加えたが、みたいも何もなくそのまんま変態だろう。セックスするようになるまで、この人が突然僕の体を触ったり、無理やり腕を取ったりするようなことは一度もなかった。その点だけは、紳士的だな、と思っていたのに。
 体育座りをして、彼の言う「用心深そうな目」をしているぼくの姿は、彼の目にどんな風に映っているのだろう。どんな姿に、頭の中でさせられているのか。
「おいで」
 目だけは笑っていない顔で、リオセスリさんが手招きする。
「おいで、おじさんともっかいしよう」

 大学の講義が終わった直後に、友人から電話がかかってきた。
「リネ、グループ発表の課題、今からやらない?」
「今日?」
 まだ早くない? と返すと「来週はバイトあってきついんだよ」と言われる。そう言われては仕方がない。幸い特に用事もなかった。大学近くの喫茶店でやろうという提案に了承して、通話を切る。校内のカフェテリアの方がいい、喫茶店なんか課題をやるには割高だ、と最初反論したら「俺が奢るから」と返されたのだ。妙に羽振りがいい。いつもならこんな提案もLINEで済ませるだろうに、という疑問もある。けれど、急に呼び出した負い目で奢りたいのかもしれないし、他に日が無いので焦っていたのかもしれない。通話越しの声も、妙に切羽詰まっていた。

 友人は、店内の丸テーブルに座っていた。灯りを絞った室内で、モダンな木製のテーブルが雰囲気を出している。友人はテキストも何も広げず、真面目な顔をしてスマホを凝視している。
「何時までやれる?」
 テーブルにどすんとかばんを置きながら聞いた。大学内でやるんならテキストも課題プリントもロッカーに置いてこれたのに、と暗に匂わせながら。友人はぱっとスマホから顔を上げ、安堵の表情を浮かべる。
「あー!良かった!来た!」
「呼んだのはそっちでしょ」
 カバンの中をかき回してテキストを取り出そうとした時、席を立ってこちらに近づいてくる人影を視界の端で捉えた。赤いパーカーを着た、背の高い男。彼はテーブルのすぐそばで立ち止まった。不審に思い、見上げると、見覚えのある顔がそこにあった。それなりに整って、育ちの良さそうな、爽やかな顔立ち。あの、フレミネに「紹介して欲しい」と頼んだ男。
「はじめまして」
「……」
 声こそ出さなかったものの、おそらく自分はすごく嫌な顔をしただろう。眉を寄せて、口を半開きにして。不快な思いをしている、とあからさまに表れた目をしていたはずだ。
「はめたんだ」
「いや、許してよ」
 友人が拝み手をして謝る。君たち二人でぐるになって、と嫌味を続けたものの、ぼそぼそと言ったせいで妙にきまり悪く響いた。自分の友人と、フレミネの言う「先輩」が繋がってるとは思わなかっただけに、後ろから撃たれたような気持ちになってしまう。
 それに自分は、以前丁重に「お断り」したはずだ。フレミネに返事を任せても良かったけれど、彼が気に病んでしまいそうだからとわざわざ本人のLINEを聞いて、友人にはなれない旨を直接伝えたのだ。その時は丁寧な返信が返ってきたので、感じのいい人だな、とむしろ思ったのに。
「いや、本当にごめん。騙したみたいになっちゃって」
「みたいじゃなくて、騙したんでしょう」
 当然のように空いていた席に座った「先輩」に、悪態をつく。
「リネくんにちょうど会えるかもって教えられたから、ついね」
 目線がほとんど同じになったおかげで、さっきより顔のつくりがよく分かる。動画で見るより、口が大きめだな、と思った。しかしそれで悪く見えるというわけでもない。むしろ親しみやすさが増したように思える。すっきりとした目鼻も、加工で作っていたのかと思ったが自前らしい。
「どれくらいここに居れば、奢ってくれる?」
「おいおい」
 友人に聞くと、焦ったようにそう返される。隣の「先輩」が気を悪くしていないか不安らしい。しかし「先輩」はむしろ楽しげに、こちらの顔を下から覗き込むようにして口を開く。
「奢りさえすれば、コーヒー一杯分くらいは話を聞いてくれるってこと?」
「……まあ、」
 この男は、思っていたよりも口が回るのかもしれない。
「今日はジムに行かないんですか?」
「あれ、もしかして動画見てくれてるの?」
「フレミネに勧められたから」
「え〜嬉しいな」
 「先輩」が片手を上げて店員を呼ぶ。その隙にLINEを開いた。あまり期待せずにリオセスリさんへ「いまひま?」と送る。秒で既読がついた。早すぎる。逆に何してたんだこの人。「暇だよ」「いまこれる?」「どこに」「悪い人につきまとわれてる」
 そこで返信を待たずに「〇大近くの×××って喫茶店」と送信した。
「リネくん何がいい?」
「ホットコーヒー」
 スマホから顔を上げずに答えた。LINEを閉じて懐にしまう。一時間以内に来なかったら、暴れてでも一人で店を出ようかなと思った。

 それから二十分もしない頃だろうか。カップの底に、コーヒーが二ミリほど残っている。コーヒー自体は既に冷め切っていた。飲み干しちゃおうかな、と自分が考えているのとほぼ同時に、目の前の「先輩」がおかわりを店員に頼むタイミングを図っているのも感じられて、なんだか愉快だった。
 相手との間合いを図る。会話のタイミングを掴む。相手の趣味嗜好と、交友関係と、プロフィールを頭の片隅に置きながら。入学してからそれなりに繰り返してきたこのやり取りに、自分がうんざりしているのを今ほど自覚したことはない。
 リオセスリさんとは、どうだっただろうか。自分はあの人が、何の仕事をしているのかさえ知らない。服で隠れている体の下の、どこにタトゥーが入っているのかまで知っているのに。彼が内側に入り込んでくるのは一瞬だった。
「楽しい? リネくん」
「何が?」
 そう尋ねられて我に帰る。ほとんど話を聞いていなかった。「先輩」は人の良さそうな笑顔を浮かべている。
「楽しそうに見える?」
 そう聞き返してやると、「見えないから聞いたんだよ」と答えられた。分かってるじゃん。生意気にそう返してやりたかった。
 背後で店のドアが開く。一瞬だけ入り込んだ外気が、足首を冷たく撫でた。その瞬間に、奇妙な、予感めいたものを覚える。夢から覚めるような、シャボン玉が割れるような、水面から浮上するような、そんな予感が。入ってきた誰かが歩くのに合わせて、床板が軋む音。足はすぐ真後ろで止まった。
「リーネくん」
 そう呼びかけられるより先に、誰であるか分かっていた。振り返る。思い描いていた通り、リオセスリさんがそこに立っていた。
 腕まくりした黒いシャツ、着崩したネクタイ。一眼見ただけで、この店にいる誰よりも長身なのだと分からせる体格。薄暗い照明も相まって、天井にまで届きそうな背丈に見えた。
 立ちながら、手持ち無沙汰にすぐそばにある椅子の背もたれに片手を置いているのだが、そこに座っている客がやや怯えた顔で彼を見上げていた。それに吹き出しそうになる。明らかに堅気ではないと思わせる雰囲気のせいだろう。彼自身は凄んでいるわけでも、タトゥーを見せつけているわけでもないのに。
「悪い人ってだれ?」
 言いながら、テーブルに近づいてくる。「先輩」に向き直ると、ハンサムな顔面にじっとりと汗をかいていた。この数秒の間に、座っているだけでこんなに汗をかける人間がいるのかと不思議になるくらい。多分、この人は、彼に何かをされるとか、暴力だの報復だのをされると思って怯えているわけじゃないんだろう。ただ、無意識のうちに圧倒されているのだ。
 黒いシャツを着た長身を、もう一度上から下まで眺めた。この人は、他人に劣等感を覚えさせる。今初めてそう気がついた。自分が目の前の男より劣っているのだと、本能的に分からせてしまう。相手が男でも女でも、犬であったとしても、その場から逃げ出したくなるくらいに、鮮烈な惨めさを覚えさせるのだ。
「迎えが来た」
 そう言って席を立つと、友人がびっくりした顔でこちらを見た。
「お前」
「何?」
 やや嫌味を込めたトーンでそう聞き返すと、友人は一瞬口ごもり(しかしそれは躊躇や気まずさによるものではなく、単に言葉を選んでいたのだろうとすぐに分かった)
「大物だなあ」
 と、呆けたような顔をして言った。思わず笑い出しそうになる。
「何言ってんの、たかが迎えだけで」
 かばんを手に取る。「本当に課題する時は、ちゃんと呼んで」そう言い残して、リオセスリさんのそばに駆け寄った。
 店を出るまで、彼は一言も喋らなかった。ただ、外に出る瞬間、ぼくを先に行かせて自分は最後に出た。背中に手を置いて、外に押し出すみたいにして。そうしないと、また店の中に戻ってしまうと考えているような手つきで。

「寒い!」
 外は店内よりずっと冷え込んでいた。さっきまで暖かかったのに、とぼやくと「早く乗りな」と促される。店の前にタクシーが横づけされていた。
「車で来てたら格好よかったのにな」
「出先だったんだよ」
 出る時と違って、今度はリオセスリさんが先にタクシーに乗り込んだ。
「どこに行けばいい? 大学? 家?」
「家」
 彼が住所を告げると、タクシーがゆるやかに発進する。
「やめとけって言ったのに会ったのか?」
 何のことかと思ったが、店内にいた男が前に話題に出した大学生のことだと気づいていたらしい。
「違うよ」
 怒った声が自然と出る。「向こうの方から急に会いに来たんだよ」
「へええ」
「信じてないでしょ」
 スマホを取り出し、通知を確かめる。さっきの「先輩」から面倒なLINEが来ていないか一応確認したのだ。何も来ていない。やはりちゃんと「弁えられる」側らしい。
 ふいに、温かいものが太ももに触れた。見ると、隣から伸ばされた彼の手が、そこに置かれている。服越しでも分かる、熱を帯びて硬い手。彼の目は、真正面に向けられたままだ。
「最近の大学生ってのは、お上品なんだな」
「そう見えた?」
「ああ」
 タクシーの中は、暖房が効きすぎて暑い。服の下が汗ばみ始める。フェルトじみた触り心地の座席から、車特有のむっとするような匂いが立ち昇っている。
「今の子はなんていうか、礼儀正しくて清潔感があってさ、俺がそのくらいの歳の頃より大人びてんなって思ったよ」
「褒めすぎじゃない?」
「昔はもっと、下品で猿みたいに馬鹿騒ぎしてる奴らばっかりだったんだよ。リネくんが見たらぶっ倒れる」
「そこまで?」
「だから、リネくんみたいにお上品な子から誘われた時はびっくりした」
 手が、太ももの内側に滑り込んでくる。力が込められて、軽く脚を開かされた。脚を撫でられながら、これ以上はしないんだろうなと何となく分かった。
 何を言われてるのかは、ぼんやりと理解していた。太ももの肉つきを確かめるみたいに、前後する手。自分はわざと、さっきよりはっきりとした口調でこう言った。
「今日も帰ったらセックスしたい?」
「ばか」
 脚に置かれていた手が、上に飛んで顎を掴むように口を塞がれる。けれども、本気ではないと分かる力だ。彼の声にも微笑が含まれている。
 自分は肩を揺らして笑った。こぼれた吐息が彼の手に当たっては、唇をわずかに湿らせる。
「リオセスリさんが大学生の頃は、どんな子供だったの」
「俺は大学行ってない」
「嘘だあ」
 まだ口を覆っている手を軽く舐める。すると、口内に指を数本押し込められた。
「んぐぐ」
「いくらします?」
「二千四百三十円です」
 気がつけば、アパート前にタクシーが到着していた。指はもう抜かれたものの、もう片方の手だけで器用に財布を開けて、五千円札を渡している。釣りはいらないと言うのが聞こえた。
「ほら、お嬢さん、降りる時気をつけな」
「誰がお嬢さんだ」
 外に降り立ち、見慣れたボロアパートを下から見上げる。
 外界と内側。最近考えているのがそれだった。彼の手引きで連れ出された場所。多分、逃げ出そうとしたらまた連れ戻されるのだろうと感じられる境界線。
 何の変哲もない建物だった。ただ、彼と何度も寝た部屋にこれから戻るのかと思うと、ひどくなまめかしいものが足先から昇ってくるような気がした。