冬の昼間だった。空は綺麗に晴れていて、少し乾燥した空気には雪の匂いが含まれていた。
中央の市場はずいぶん賑わっていた。以前ミスラたちと訪れた冬のマーケットほどではないにしても、色とりどりのお菓子や雑貨を並べた店が大通りに並んでいる。出店もいくつかあって、そのうちの一つにホットココアがあった。賢者とフィガロはそれを買って、近くのベンチで休憩しているところだった。
「甘い」
紙コップからココアを一口飲んで、フィガロが呟く。ココアの上には、真っ白いホイップクリームとカラースプレーがまぶされていた。クリームとココアが口の中で混ざり合って、舌の上になめらかな感触を残していく。
「こういうの、久々に口にしたな」
「フィガロはお菓子とか、あんまり食べないんでしたっけ」
「うーん。意識したことはないけど、そうかも。魔法舎に来てからかな。お茶の時にクッキーをつまんだり、食後にデザートを食べたりするの」
二人の周囲に、他の魔法使いはいない。リケとミチル、それと他の魔法使い数人でこの市場に来ていた。もっといろんな店が見たいとはしゃぐ彼らとは別に、賢者とフィガロはここで少し休むことにしたのだ。二人の周囲をせわしなく行き交う人々の、コートに移った料理や香水の匂い。それらが外気に溶け込んでいく。
「それに、俺みたいなのがアイスとかケーキを外で買って食べてるのって、あんまり似合わなくない?」
「そんなことありませんよ。パンケーキ屋さんとか、すごく似合うと思います」
「パンケーキ?」
まるで面白い冗談を聞いたかのように、フィガロが口元を手で覆って笑う。
「似合うかもしれないけど、締まらないなあ」
「俺はパンケーキ屋さんとか、元の世界でよく行ってたんですけど、変ですかね。あんまりそういうの気にしたことないんです」
「そりゃあ、君は若いから。そういう店にいても違和感ないよ」
賢者がココアを飲む。唇にホイップクリームがついたので、それを舐め取る。こまやかに動く、ピンク色の舌先。その様子をフィガロはじっと見ていた。舌で拭いとったカラースプレーが、体温よって舌の上で溶けていく。フィガロは手の中の紙コップをつぶした。もう飲み干していたから。
「でも、パンケーキって割と高くて、流行ってたせいもあるんでしょうけど……」
フィガロが、賢者の肩を掴んで無理やりこちらを向かせた。賢者が不思議そうな顔をする。その表情のまま、フィガロに唇を押し付けられた。
フィガロの舌が賢者の口の中にもぐりこむ。甘く、粉っぽい、ココアの味がした。それと、生々しい戸惑いも。すべて唇から伝わってきた。
体を離した後も、賢者は呆然とフィガロを見つめ返していた。フィガロは自分が今、どんな表情をしているのか分からなかった。分からなかったし、知りたくもなかった。
「パンケーキ屋、探そうか」
そう言って、フィガロがベンチから立ち上がる。賢者の手を取りながら。
「あったら一緒に食べよう」
フィガロが先に歩き出す。賢者があからさまな困惑を顔に浮かべながら、ベンチの方を振り返った。そこには、ひしゃげた紙コップが落ちている。フィガロが立ち上がった際に手の中から転げ落ちていったものだ。潰れて、その内側の、乾いたココアの跡が見えている。何かの死骸のようにそこに転がっていた。
賢者は少し迷ってから、その紙コップを拾った。そしてフィガロの後をついていきながら、通りかかったゴミ箱にそれを捨てた。
自分を覆っていた膜が、ふいに剥がれたかのようだった。あの時の出来事を、フィガロはそう感じていた。確かに彼は賢者に対して好意を抱いてはいたが、そういう種類のものではないと勝手に思い込んでいた。だから、自分のことながら随分と驚いた気がする。
賢者にまた触れたいという衝動は、あの日からずっと募り続けていた。触れて、唇を重ねて、舌をねじ込んでやりたかった。できるなら、それ以上の行為もしたいと思った。
しかしそれを達成するために、フィガロにはある問題があった。それは、肉体関係を伴わずに恋を成就させる術を彼は知らないということだ。彼の経験してきた恋愛というものは、全てがまずセックスから始まっていたような気がする。そうでなくとも、大抵は向こうからフィガロに好意を持ってくれているのがスタートラインのようなものなのだ。「相手に恋愛的な好意を抱いてもらうための努力」というのがどういうものなのか、少しも分からないままフィガロは2000歳を迎えてしまったというわけだ。
夜。中庭にやって来た賢者は、ベンチに座るフィガロを見つけた。一瞬迷って、フィガロのそばへ近寄る。
「フィガロ」
名前を呼ぶと、彼はこちらを振り向いて力なく笑った。「となり、いいですか」「うん」二人はベンチに並んで腰かけた。
ひどく静かだった。二人以外には誰も中庭にいない。しばらく、無言の時間が続いた。フィガロは、この前のような空気にはなりたくないと考えていた。彼は西の魔法使いではない。失態や気まずさを楽しむ心は無かった。彼にとって居心地の悪い空間というのは、それだけで屈辱に感じるものだった。
けれどその一方で、賢者にまた触れたい、と切実にそう思っていた。今も彼は、隣に座る賢者との距離をほとんど無意識に計っていた。どんな風に抱き寄せて、どれくらいの時間でその口に触れられるかを計算する。
沈黙を先に破ったのは賢者の方からだった。「寒くありませんか」と穏やかな声で聞く。そうしながらフィガロの手を取った。
「ほら、すごく冷たくなってますよ」
「……ほんとだ」
賢者の手は、ひどく柔らかかった。マシュマロのようにフィガロの手を包み込んで、肌に吸い付いてくる。
「すごく柔らかいね」
「え?」
「君の手、前はこんなんじゃなかった気がする」
「昨日もおとといも、こういう手でしたよ」
賢者が笑いながら言う。どうしたんですか、と微笑を含んだ声で。まるで賢者の体温に引き寄せられるように、体の中の熱が喉を這いあがって口から出る。フィガロは賢者と目を合わせた。
「また、俺とキスしたい?」
賢者は一瞬、あっけにとられたように驚いた。目を伏せると、意味を図りかねているような声で「いえ、特には……」と答える。
「あの……からかってるんですか?」
「ちがうよ。俺もよく分からないけど」
フィガロは自分が何をしたいのか分からなかった。賢者を困らせたかったわけではない事だけは分かる。でも、こんな風にしてフィガロの言動に賢者が悩んでいる姿を見るのは、気分が良いような気がした。「あのね」とフィガロが切り出す。
「昨日、君のことを考えて自慰したんだ」
「……」
「可愛かったなあ」
「……フィガロ、もしかして、疲れてるんですか?」
「ちがうよ。君は疲れたら誰とでも寝たくなるような子なの?」
「いいえ」
「そう。良かった」
またほんの一瞬だけ、中庭が静寂に包まれた。確かに少し寒いな、とフィガロは今更になって実感した。
「どうしたら、君の気を引けるのかなあ」
「……フィガロが、俺のことを本当に好きでいてくれてるなら、できるだけフィガロの気持ちに応えてあげたいと思いますけど」
「寝てくれるってこと?」
「違います。フィガロが俺にして欲しいことと、俺がしたいことを擦り合わせて、その中でできることをしてあげるんです」
「なんだあ」
落胆する声は何故だかひどく子供っぽくて、賢者は少しだけ笑ってしまった。その笑い声に何を思ったのか、フィガロが続ける。
「ねえ、一晩でもいいから寝てくれない?そうしたら君は、俺のこと好きになってくれそうな気がするんだけど」
「……ならないと思います」
こんなやり取りをしていても尚、賢者が手を握っていてくれているのがフィガロには不思議でならなかった。しかしそれも、今この瞬間にするりとほどかれる。
「俺、行きますね」
賢者は静かにその場を去っていった。最初からそこにいなかったかのように、何の痕跡もない。フィガロはずっと繋いでいた手を、しばらく握ったり開いたりした。あと、手のひらの匂いを嗅いだ。もちろん、賢者を感じ取れるようなものなんてそこには残っていなかったけど。
フィガロの欲望は、夢にまで現れ始めたらしい。夢の中で、フィガロは自室へと帰ってきたところだった。扉を開け、中に入ると、ベッドのふちに賢者が腰かけていた。
「あれ」
フィガロがどこか気の抜けた声を上げる。その声に、断りなく部屋に入っていたことへの不信は感じられない。今、彼の中に満ちているのは歓喜だけだった。
「どうしたの」
あきらかに喜色を含んだ声でフィガロが尋ねる。賢者は黙って微笑んだいるだけだった。立ち上がり、フィガロの前まで来て手を取ったかと思うと、彼をベッドまで連れていこうとする。
「ずるいな。俺がエスコートしたかったのに……」
賢者がベッドの上に仰向けになる。静かに微笑したまま。フィガロはそれに覆いかぶさった。賢者は普段通りの格好をしている。長袖のシャツにベストにネクタイ。肌の露出は首から上と両手くらいだ。禁欲的だ、とフィガロは思った。ぞくぞくする、とも。首筋に舌を這わせる。甘い。フィガロの口の中に唾液が溜まっていく。賢者が服を脱ごうとボタンに手をかける。
「待って。俺にやらせて」
フィガロが静止して、代わろうとする。薄いシャツ越しに感じられる、甘やかな肌の気配。爪の先が疼く。無褒美に晒される鎖骨を想像しながら、ボタンを外した。その時だった。彼が夢から目覚めたのは。
「……」
白い光が、部屋の中に降り注いでいる。冬の朝、乾いた陽射し。フィガロはどうしようもない苛立ちと疲労感に苛まれながら自室のベッドで身を起こした。しばらくの間、ぐったりと背を丸めて、皺の寄ったシーツを見下ろしていた。そして、もう一度ベッドにもぐりこむ。三十分ほどして「用」を済ませた後、ようやくベッドから起き上がり彼は朝の身支度を始めた。
あれから数週間経って、二人の関係は進むことも破綻することもなく、微弱な緊張を持って、ゆるやかに続いていた。二人きりであれば、フィガロの悪い「癖」が出てしまうけれど、大勢でいる時はそうでもない。二人の間に別の魔法使いがいて、彼の肩越しに視線が絡み合った時、二人は微笑み合えるくらいの精神的な余裕があった。
フィガロが、魔法舎のバルコニーから中庭を見下ろしている。もう深夜近いのもあって、バルコニーにも中庭にも人影は見当たらない。風は冷たかった。いかにも冬らしい、体温を奪うような、冷えて乾燥した風だ。けれど、確かに春が近づいていることも分かる。変に胸がざわめくような、湿度と匂いをはらんだ空気。それを身にまといながら、フィガロは一人きりでバルコニーの柵に身を預けていた。不意に、彼の背後に誰かが立った。
「フィガロ?」
声を聴くより先に、気配で分かっていた。フィガロが振り向く。灯りの落とされた廊下に、賢者が立っていた。どこか頼りない、心細そうな表情で。こんばんは、とフィガロが言う。
「賢者様も眠れないの?」
「いえ、俺は……フィガロのことが気になって」
力なく笑う幼い顔に、フィガロは何だかほだされそうになった。というか、もうほだされているんだろうけど。
「その……したくないって言ったくせに、こういうこと言うのは迷惑ですか」
「ううん。そんなことないよ」
フィガロはいろんな言葉が頭に浮かび上がるのを感じた。気になったって、俺が君と寝たがってるって知っててそれを言うの?どんな気持ちで俺のこと探してた?俺を見つけるまでにどれくらいかかったの?けれど、それらの言葉が口から出ることはなかった。自分がみじめになるだけだと分かっていたから。
気持ちを振り切るように、前に向き直る。夜空が目の前にあった。自分の背後で、賢者が落ち着かなさそうに立ち尽くしているのが分かる。ここでさっさと居なくなっちゃう子だったら、ここまでほだされなかったんだろうな。フィガロはそう思いながら、「賢者様」と呼びかけた。
「夜の散歩、付き合ってくれない?」
「はい」
「じゃあ、来て」
フィガロが手を差し伸べる。賢者はほとんど反射的にその手を取った。え、と賢者が声を漏らす。一瞬のうちに、賢者の足先が地面から離れ、風に乗って浮かび上がろうとしている。体の芯を通り過ぎていく風の感触。宙に浮かんでいるのはフィガロもまた同様で、抵抗する暇さえなく、賢者は中庭の上空へと連れ出されていた。
「えっ、えっ、えっ!」
「なに?どうしたの」
「だって、空に……」
「ああ、だから、空のお散歩。言わなかったっけ?」
「聞いてないです!」
そう叫んだ直後、賢者はついはるか下方へ視線を向けてしまった。何メートルも下にある地面が視界に入る。そこに叩きつけられた自分の姿を想像するのは容易かった。冷水を浴びたかのように体が一気に冷えていく。空から突き落としたり、地面に放り出したりなんて真似、フィガロがするわけないと分かっている。けれど、本能的な恐怖が賢者の頭を支配していた。
「怖い?」
フィガロが聞く。賢者はひたすらにうなずいた。足先から力が抜けていく。膝から崩れ落ちるかと思ったその時、腰に回されたフィガロの手が、賢者の体を抱き寄せた。二人の体が密着する。
「くっついてて」
そう言って、フィガロが差し出したもう片方の手を賢者が取る。ここが空中ではなく、どこかのダンスホールであるかのように導かれていく。足裏に感じるのは、固い床の感触ではなく、手応えのないふわふわとした空気だけだ。歩いているというより、上から糸で吊るされているような感覚である。確かなのは、身を寄せているフィガロの体だけだった。
足裏から頭のてっぺんに向かって、風が通り抜けていく。服の中を冷えた風が泳いでいく感覚。賢者にとって未知の体験だった。思わずフィガロの方を見ると、視線が交わり、賢者に向かってにこりと笑った。
「気持ちいいでしょ」
フィガロの柔らかそうな前髪が、風になぶられている。
「それとも、そんなに楽しくなかった?」
「いえ!すごく楽しいです。ちょっとびっくりしただけで……」
フィガロの肩越しに見る夜空は、窓から見るよりもずっと近くにある。賢者は少し俯いた。そして、どこか気恥ずかしそうな、後ろめたそうな声でこう呟いた。
「……いつもこういう風にエスコートしてくれるなら、俺だってフィガロを好きになってましたよ」
「ええ?ほんと?」
フィガロは特別気を悪くした風もなく、嬉しそうに笑った。
「じゃ、付き合ってよ」
「そういうところですよ」
「何が?」
「それに、こういう場面で告白するのって、少し卑怯だと思います」
「なんで?ロマンチックじゃない?」
「だって、もしフィガロが手を離したら、俺は地面に落っこちちゃうしゃないですか」
フィガロは一瞬呆気に取られ、その後に声を上げて笑った。
「あっはは!そっか、脅迫してるみたいに見えるんだ」
笑う彼の横で、賢者は苦々しそうな顔で口をつぐんでいる。フィガロはひとしきり笑った後に「ごめんね。そういうつもりじゃないよ」と言った。
「それは、俺も分かってますけど……いえ、すみません。ひどいことを言いました」
「ねえ、じゃああの茂みに降りてから、もう一度聞いてみてもいい?」
フィガロが示す先には、確かにまりものような草の塊が中庭の隅に生えている。
「……なんであそこなんですか?」
一瞬、落下の衝撃を抑えるためかと賢者は思った。しかしそんなことしなくたって、魔法を使えばもっと安全に降り立つことができるはずだろう。ロマンチックさにこだわるフィガロにとって、噴水の前とか花壇のそばに降りた方がそれらしいのではないか。
「もし君がOKしてくれたら、そこでおっ始められるかなって」
「いやです!」
「ええー」
フィガロがくすくすと笑う。夜気の中で響くその声は、風に乗って砕け散る花びらのようだった。
「……」
「ん?なに?」
「なんだか、今日はすごくご機嫌だなって思って」
「だって、君とデートしてるから」
「………」
「それに、自信もついたしね」
「自信?」
だって、賢者はフィガロの手を取ってくれたから。散歩に誘った時、それと腰を抱き寄せた時、これよりずっと前にベンチで二人きりになった時だって、賢者はフィガロの手を取ってくれた。そう悪いようには思われてないんだと、それに気づいたフィガロは何となく嬉しくなった。
「ねえ、賢者様のこと、好きでいるくらいは許してくれるでしょ?」
「それは、構いませんけど」
「構わないけど、なに?」
「もっと、紳士的で、えっちなことが好きじゃない人の方が俺は好きです……」
「あはは!ひどいな!俺が助平なおじさんみたいじゃないか」
二人の体が、緩やかに下降していく。地面に近づくにつれ、夜露に濡れた草木の匂いが強くなっていく。紳士的になるの、考えてくれました?賢者がそう尋ねると、フィガロは軽く片目を閉じて「善処するよ」とだけ答えた。