長い戦争が終わって、三年が経った。シルバーアッシュは未だにカランド貿易を経営しており、規模をわずかに縮小しつつも、滞りなく仕事を回していた。
会社を縮小したのは、シルバーアッシュの意思ではなくそうせざるを得なかったからだ。戦争によって、地方の工場で働いていた職員の多くが国に動員されると、その工場は閉鎖するしかなくなる。それでも彼は、ほとんどの支部を戦前と同じように維持し続け、給料も変わりなく与えていた。それについて、僻地の工場で働いている顔を合わせたこともない職員から、感謝の手紙が送られたこともある。彼らは戦中にあっても、家族全員分の衣服を取り揃え、食事を与えることができたと手紙の中で語っていた。
ロドスの消息は、戦争の終結を境に分からなくなっていた。オペレーターの数人は所在が分かるものの、代表であったコータスの少女や、医療部門を統括していたフェリーンや、あのドクターの生死は、そのオペレーター達にも分からないようだった。
シルバーアッシュは、あちこちに滞在している職員の手を借りて、ドクターの捜索をさせていた。定期的に彼らから報告書が届くものの、その封筒の軽さから封を開けるより先に何の進展もないことが分かってしまう。カランド貿易の透かしが入った封筒は、彼に焦燥感を抱かせるだけのものになりつつあった。
シルバーアッシュは執務室の机に腰掛けたまま、目を閉じてドクターの姿を思い浮かべようとしていた。
白い肌と、色の薄い瞳。驚くほどに大きな目をしていた。鼻梁も唇も、ひどく少女じみており、それらを目にするたびに胸がざわめくのを彼は感じていた。見つめあっているだけで、体中の血が凍り、ほどけていくのを感じる。そんな風に思わせた男は、シルバーアッシュの生涯の中でドクターただ一人であった。
シルバーアッシュが席を立ち、屋敷の中の別の部屋に向かう。寝室の隣に作られた部屋へ入る。そこは、彼の「趣味」のために作られた場所だ。戦争が終結してから始まった、彼が自身の傷を愛撫するための、もしくは自傷のために作られた部屋。
扉を開けると、たまご色をしたカーペットと、天井から吊り下げられたモビールが彼を出迎える。モビールは、色とりどりの気球と雲の形をしたものが、微風を受けて揺れ動いている。床には動物の形をしたクッションがいくつも転がっており、子供用の椅子が一脚と、大人用の椅子が一脚置かれていた。
シルバーアッシュはクッションを一つ拾い上げ、大人用の椅子に腰掛ける。そのまま目を閉じて、空想に耽り始めた。
いま彼が居るのと全く同じ内装をした部屋の中で、ドクターとその子供が遊んでいる。ドクターは、シルバーアッシュの記憶にあるのと同じ、少年の見た目をしていた。子供は、まるで影絵がそのまま質量を得たような、黒々とした姿をしていた。それでもシルバーアッシュには、その子供がどれだけ愛らしい顔をしているのか、その仕草がどれだけ無邪気なものであるかを感じ取ることができる。
子供は、笑い声を上げながらカーペットの上を転がっている。生まれたての子グマのように愛らしい仕草だ。ドクターはそばに膝をついて、時々手を貸しながらその様子を見守っていた。子供はおぼつかない動作で立ち上がると、笑顔を浮かべシルバーアッシュの方へ駆け寄った。小さな両手を、目一杯広げてこちらに向かってくる。
シルバーアッシュは、それを抱き止めようとした。彼の目が開かれる。彼は現実の中にいた。部屋は無音で、足音も、笑い声も響いていない。室内にいるのは、彼一人だけだった。
椅子から立ち上がり、クローゼットを開ける。そこには、可愛らしいベビー服が並んでいた。砂糖菓子のような色合いをしたそれら一つ一つを、指先で確かめるように触れていく。満足した彼は、クローゼットを閉じて部屋を後にした。
ここは、ベビールームだった。彼に子供はいない。結婚すらしていない。彼の空想の中にある、ドクターとの間にできた子供のために作った部屋だった。
科学が進歩して、同性同士でも子供を作ることが可能になった。いくらかの投薬や手術は必要であるが、母体に負担をかけるものではない。しかし、それはシルバーアッシュの空想の中でさして重要ではなかった。なにせ彼は、ドクターの消息も、足取りさえ掴めていないのだから。
夜十時を過ぎた頃、彼は書斎で仕事をしていた。仕事と、あの子供部屋を訪ねる以外に、彼がしたいと思えることは無い。控えめなノックが室内に響く。一人のメイドが、遠慮がちに部屋へ顔を覗かせた。
「あの、エンシオディス様のご友人を名乗る方が来られています」
シルバーアッシュは書類から顔を上げ、瞬きをした。その不審そうな様子を読み取ったのか、メイドはさっき以上におずおずと、自信なさげにこう付け加える。気を悪くされたら申し訳ありませんが、と。
「その、エンシオディス様が探されていた方に、よく似ているような気がするんです」
彼はすぐに階下へ向かった。螺旋階段を降りる途中で、ホールの入り口に立つ男の姿が視界に入る。脱いだばかりのコートを使用人に渡していた。それは、シルバーアッシュが何年も待ち望んでいたあの男だった。簡素な、やや着古した服を着ている。男が顔を上げ、視線が絡み合う。
「シルバーアッシュ」
囁くように言ったその声に、シルバーアッシュの頭が痺れるように歓喜の声を上げる。ドクターは、記憶の中とほとんど変わらない姿をしていた。少年じみていたあの見た目が、いくらか青年に近くなっているほどの変化はあった。それと、肌が以前よりずっと青白くもなっていた。
「急に会いに来て悪かったね」
「今までどこにいた?」
シルバーアッシュの問いに、ドクターは答えなかった。ただ、口元にうすく微笑を浮かべ、ゆっくりと瞬きをしたのみだった。それだけで、シルバーアッシュは心臓が脈打つのを感じた。彼は別の言葉をかけることにした。
「ずっとお前が来るのを待っていた」
「ずっと?」
「ああ」
「約束でもしていたっけ」
「していない。ただ私がお前を待ち望んでいただけだ。この三年間」
それ以上は、胸がつかえたような気がして言葉を続けることができなかった。ドクターはじっと彼を見つめた後に「言ってくれれば、すぐに君に会いに行ったのに」と呟いた。
無意識のうちに、シルバーアッシュは白い頬へ手を伸ばしていた。まるで子供にするように、両手で顔を包み込む。親指で、目元や唇の端を撫でた。雪の中を歩いてきたせいか、肌は冷えて乾燥しており、しかし少年のような柔らかさもきちんとあった。
何かに憑かれたように、シルバーアッシュはしばらくそうやってドクターの顔を覗き込んだ後、ふと我に返り使用人に「夕食の支度をしてくれ」と命じた。
夕食は、肉料理と付け合わせ、蒸し野菜とスープにワインだった。向かい合って座り、食事をする。その最中に、ドクターは囁くような声で今までのことを語り始めた。
ロドスは、あの大きな戦争以降に散り散りとなり、アーミヤとケルシー、ドクターの三人が再会できたのはその一年後だった。アーミヤは今、小学校の教師をしている。ケルシーは学校近くの慈善病院で働きながら、ほうぼうに散ったオペレーター達と連絡を取ろうとしていた。ドクターは列車を経由してあちこちを転々とし、ある日アーミヤが新聞広告に出していた彼宛ての文を読んで、ようやく二人と再会できたというわけだった(おそらくあの戦争を締結させるためにロドスが何かしらの関与をしたのだろうとシルバーアッシュは予想がついていたが、ドクターがそれについて語ることはなかった)
「お前に会いたかった」
シルバーアッシュは今日何度目かになるその言葉を口にした。
「三年間だ」
「待たせちゃったみたいだね」
ドクターがうっすらと微笑む。その微笑を、シルバーアッシュは食い入るように見つめた。三年間、戦後を過ごしていたとは思えないほどに衰えが感じられない。もちろん、肌は青白くなっていたし、目元もやや落ち窪んだようにも見える。しかし目元の肉がなくなった分、その大きな目が、より存在感を増してこちらを見つめている気がした。色の薄い瞳。シルバーアッシュは、自身の胸がざわめくのを感じた。見つめあっているだけで、体中の血が凍りつきそうだと本気でそう思うほどに。
視線を合わせたまま、ドクターが控えめに自分の頬にそっと触れた。さすがに見つめ過ぎたか、と気づきシルバーアッシュは気恥ずかしさを覚えた。
「そんなに私は老けたかな」
「いいや。むしろ少しも変わっていない」
「気を遣わないでよ。君の方こそ、本当に昔のままだね」
その言葉を聞いて、シルバーアッシュはこの三年間のことを振り返った。経営を縮小し、ドクターを探し回って、屋敷の中に子供部屋を作った。そう、あの子供部屋。たまご色のカーペットと、色とりどりのクッション。変わっていないはずがないのだ、この自分が。自分の頭がおかしくなっていることに、気づかないほど彼は愚かではない。
「お前も、世辞を言うようになったか」
自嘲気味に口にしたその言葉に、ドクターがゆっくりと首を傾げる。「本当のことなのに」とひとりごとのように言った。
「君は昔と同じく綺麗な顔のままだねって、そう言いたかっただけだよ」
あらかた食事が片付いて、あとは一口分のワインがグラスに残るだけとなった。
「立って、そばまで来てくれないか」
シルバーアッシュは懇願するように言った。
「お前が目の前にいることを、まだ信じられないでいる」
ドクターはそれに従った。席を立ち、シルバーアッシュの目の前にまでくる。
ドクターの手に、シルバーアッシュは触れた。二人とも手袋を着けていない。だから素肌同士が触れ合っていた。
ドクターの手は、まるで絹に触れたような感触を与えた。甘やかな興奮が、シルバーアッシュの腕を伝う。細い手首を掴んだ。彼の手首の内側には、薄青い血管が走っていた。そのまま、服の袖に潜り込むような形でシルバーアッシュの手が這い上がる。しかしそれ以上はできなかった。ドクターが腕を引いたためだった。
シルバーアッシュは特に気に留めなかった。さっきのやり直しのように、今度は彼の頬を両手で包んだ。柔らかい、弾力のある頬の感触が、生々しい興奮を生み出していく。目元に触れていた親指で、今度は唇をなぞる。
その感触にうっとりとしかけたところで、不意に刃の切っ先を押し当てられたような、鋭い痛みが指の腹に走った。白い歯が動くのを残像のように捉える。シルバーアッシュは手を離さなかった。親指の腹に血が滲む。ドクターが、指を軽く噛んだらしかった。
唇のそばで、その赤黒い血が静かに膨れていくのをシルバーアッシュはぼんやりと眺めていた。ふと見ると、ドクターがうっすらと微笑んでいた。舌先が、ほんの僅かに差し出され、親指の血を舐めとる。色の薄い唇が自身の血で汚れていく様を、呆けたようにシルバーアッシュは眺め続けた。
夕食が終わり、彼はまた書斎の中にいた。使用人に客間の用意を命じた後である。数分もしないうちに、またドクターの元へ戻るつもりだった。
室内の電気はつけていない。ランプスタンドだけを灯して、手にした卓上カレンダーをじっと見つめている。今日この日の日付けを、頭の中に叩き込もうとした。三年。もう数え切れないほどに、その時間が脳裏に浮かんでは消えていく。たった三年だ。何を感傷的になる必要があるだろう。そう自身に言い聞かせても、いくつもの歓喜が彼の胸に湧き出るのを抑え切れなかった。
カレンダーの表面に、親指から滲んだ血の跡が残る。灯りを消して部屋を後にした。
廊下に出た彼は、少しも歩かないうちに異変に気がついた。寝室の隣、あの子供部屋のドアが、うすく開いたままになっていた。
ドクターは、子供部屋の中央に立っていた。こちらに背中を向けている。シルバーアッシュが近づくと、無防備に振り返った。腕の中にあのクッションを抱えている。黄緑色の、きりんを模したクッション。
「驚いた」
ドクターが言う。
「君、子供がいたんだね」
「違う」
その否定に、ドクターは瞬きをして見つめ返した。
「私に子供はいない。伴侶もだ」
「なら、この部屋は?」
ドクターの声は、まるで子供のそれのように無垢なものとして聞こえた。
「この部屋は、誰のために作られたの?」
「子供だ。私とお前の間にできた」
ドクターの表情に、さして変化はなかった。冗談を言っているのだと、思ったのかもしれない。シルバーアッシュの胸が、恐ろしい速さで脈打ち始める。
自身がこわばった笑みを浮かべているのを、彼を自覚した。彼はこの部屋にいる時、いつも架空の子供の姿を思い浮かべていた。今は、どこにもいない。ただ目の前の男の存在を、知覚することだけに神経の全てが使われていた。
「聞いてくれ。馬鹿げたことだろうが……」
「うん」
「ここはただの、ごっこ遊びのための部屋なんだ」
「うん」
「私は、ここでお前と子供を育てている想像をしていたんだ」
「子供?」
そう聞き返す唇が、やけに可憐なものとして彼の目に映った。
「本当に、馬鹿げたことだと私も分かっている……」
「……」
ドクターは、一度腕の中のクッションを見下ろした後、カーペットの上にそれをそっと置いた。そしてシルバーアッシュと改めて向かい合う。
「変な人」
ドクターはそう言った。
「私と結婚したいの?」
「……お前が許してくれるなら」
「私のことが好きなのは知っていたけど、そんなに好きだとは思ってなかった」
「……」
「言ってくれればよかったのに」
ドクターは一歩、シルバーアッシュに近づいた。
「楽しかった?」
「何がだ」
「頭の中で、私としたその結婚生活とやらは」
「……」
「どんな子供が生まれたの?三年間、君はそういうことを考えていたの?楽しかった?私と君とその子供と、この部屋で過ごしたんだろう?」
ドクターはもう、目の前まで来ていた。彼はシルバーアッシュの顔を覗き込み、こう囁く。
「寝室に連れていってあげようか」
「寝室……」
「顔色が悪いよ。休んだほうがいい」
「嫌だ」
ドクターは不思議そうに首を傾げた。
「どうして。横になった方がいい」
「私が眠ったら、お前はその隙に私の元から逃げ出すだろう」
「しないよ」
「……」
「そんなに不安なら、私も一緒にくっついて寝てあげるから」
ドクターは腕を取った。
「君が望むなら、別に『したいこと』をしてくれてもいいから」
したいこと。その言葉が、シルバーアッシュの頭の中で反響した。
ドクターはシルバーアッシュの腕を肩に回すようにして、引きずるように彼を寝室に連れて行こうとした。もちろん、二人の体格差と握力から、うまくいくわけもなく、部屋を出るだけで足がもつれかけた。その途中で、シルバーアッシュは我に返ったようにこう尋ねた。
「それは、了承したということか?」
「そうだよ。受け入れたんだよ。君のプロポーズ。お付き合いもしてないけど」
ドクターはそこで立ち止まり、シルバーアッシュの顔を見て「プロポーズだよね?」と確認した。
「ああ……その通りだ」
疲れ切ったような、それでいてどこか夢から覚めたような声で彼は答える。自分はまだ夢を見ているんじゃないだろうかと彼は思った。それは今日一日、ドクターが屋敷を訪ねてきてからずっと続いている錯覚であった。
一時間後に、シルバーアッシュは目を覚ました。上着を脱いだだけの姿で、ほとんど昼間と同じ格好のままベッドに横たわっていた。ドクターもまた同じだ。彼らは行為をせず、シャワーも浴びないままベッドに潜り込んだのだった。
シルバーアッシュは毛布の中をかき分けて、ドクターの胸に頬を押し当てた。その後頭部に、そっと触れる指先を感じる。手の中の小鳥を愛撫するような手つきだった。
「アーミヤに、お金を返さなきゃ」
ずっと起きていたらしいドクターが頭上でそう言う。
「帰りの列車賃だけ少し足りなくて、アーミヤに少額借りたんだ。それを返さなきゃいけない」
「お前はもうここに留まるのだから、帰る必要はないだろう?」
「そうだけど、こまごました仕事くらいは向こうでしていたし、その引き継ぎをしに帰らなくちゃ。アーミヤとケルシーへの挨拶も」
休みは長く取ったから、そう急ぐ必要はないけれど、とも付け加える。シルバーアッシュが僅かに顔を上げて、上目遣いにじっとドクターを見つめた。その表情に、ドクターは以前画集で見かけた、「堕天使」という題のカバネルの絵を思い出した。歳をとったと自称しながらも、絵画の中の美しい男を想起させる容貌を持っているこの男を、羨ましいなとドクターは純粋に思った。
「いなくなったりしないよ」
「ああ」
「でも、お金は貸してね。アーミヤに返す分、は私の手持ちで払えるから、向こうに行き帰りする分は」
プロポーズを受けた直後にわざわざ金の貸し借りについて口にするドクターのことを、彼らしいなとシルバーアッシュは思った。そして、そんなことを話題に出すのだから、本当に自分のそばで暮らすつもりなのだろうと確信を持ちさえした。
「トイレに行きたいんだけど」
暗に離してほしいのだと言うドクターに、シルバーアッシュは首を左右に振った。三年間だ。ドクターがその消息をつかませなかった時間が。なら、その時間分、埋め合わせをするようにくっついているくらいは許されて欲しいと彼は思った。彼がドクターの不在を惜しんだ、妄想の子供を作り出して子供部屋を作り上げた時間。
「子供には、どんな名前を付けてたの」
「忘れた」
「ひどい父親だな」
本当に、その子供の名前も、その他全てのことも、シルバーアッシュの頭の中から消え失せていた。空想の中で組み立て、作り上げていたはずのドクターの姿でさえ。霧の中に消えていったかのように思い出せない。彼の頭は、たった今触れているドクターの手首の感触を、頭に刻みつけようとしている。なめらかな肌と、生ぬるい体温。彼の指先が、そこに浮かんだ血管の形をなぞる。
「あの部屋は、お前のものにしてもいい」
「あんなに可愛い部屋は私には似合わないよ」
そうだろうか?シルバーアッシュは聡いので、その疑問を口にしないほどの気遣いはできた。ドクターの手が、髪をかき上げて、頭を撫でる。大丈夫だよ、と彼は囁いた。
「部屋は残しておくといい。あと数年もしないうちに、きっと必要になるだろうから」