※捏造が激しいです(特にX個人のことについて)リリース直後の情報量で書いています。
「今度、アルカニストの男の子が入ってくるみたい」
そう私に言ったのは、同僚の事務員だった。同僚といっても、私よりいくらか年上で、財団に入社したのも私より数年早い。その数年の差は、私にとっつきにくさを感じさせるには十分な月日だった。彼女はやや長めの髪を後頭部でまとめている。今まで何度も髪を染めてきたのだろう。栗色の髪にツヤはなく、毛先は白っぽくなっていた。そこに、くすんだ色のシュシュがわずかばかりの華を添えている。
「珍しいですね。アルカニストがここに配属されるなんて」
私はそう返した。私たちはいま、計算科学研究センター内の、狭苦しい給湯室に並んで立っている。コーヒーメーカーにセットした紙コップへ、カフェオレが注がれるのを私は待っていた。同僚はすでにコーヒーを手にしていたが、デスクに戻る前の話し相手として私を選んだらしい。早くどこかに行ってくれないかと私は内心思っていた。
「研究分野で何かしらの成果があるみたい」
「成果って、そんなに有名な人なんですか?」
「さあ」
同僚は不機嫌そうに顔をしかめ、コーヒーを一口すすった。薄暗い給湯室の中で見る彼女の顔は、粉っぽくかさついている。デスク周りがあまりに乾燥しているからだろう。そのせいか彼女は実年齢より五歳は老けて見えた。私も、他人から見ればこうなのかもしれない。そう考えるとゾッとした。
「なんにしても、若すぎるのはいただけないわね。また期限ギリギリになって書類を出してくるような子ばかりになったら今以上に忙しくなるのよ」
私は首を縮こませるようにして、曖昧に笑った。彼女が本当に忙しいのか、それとも忙しいふりをしているのか、それすらも知らない私はなんと答えるべきか分からなかった。幸いにも、同僚は私の返答を気に留めなかったらしい。彼女はコーヒーを飲み終えて、紙コップを手の中で潰した。そしてこちらの目を覗き込むように、やや顎を引きながらこう言った。
「もっと歳がいってたら、あなたの彼氏候補になれたでしょうにね」
同僚はひしゃげた紙コップを捨てて、自分のデスクへと戻っていった。おそらく他意のない発言だったのだろう。
職場では、よくあることだった。こうやって時折雑談をして、少しは親密になれたのではないかと錯覚するたびに、相手のいやな面を見ることになるのは。カフェオレで満たされた紙コップを、コーヒーメーカーから取り出す。
私は、遠ざかっていく同僚の後ろ姿を見た。髪をまとめているシュシュの、くすんだピンク色の布地から、糸が一本ほつれて飛び出している。これは私の悪い癖だ。不快な目に遭うと、決まって相手の悪いところを見つけ出そうとする。そうやって今まで心を落ち着けてきた。
結局のところ、私もあの同僚と同じように、品性下劣な人間だということだ。
くだんの彼は、一ヶ月もしないうちにやって来た。研究センター所長に連れられて、朝礼の時に姿を現わした。支給されたのだろう白衣を身に着けている。どうやら全ての部署に、顔合わせのため彼を連れてきているらしい。
「今日から、皆さんと一緒に働くことになる──■■■君だ。彼の今までの発明品は、新聞の見出しに飾られたことも──」
所長がそう紹介するのを、他の人たちと同じようにその場に立って私は聞いていた。しかしほとんどの言葉は耳を通りすぎて、意味のない言葉として認識されるだけだった。所長の隣に立つ彼を観察するのに、意識のほとんどを私は費やした。この場にいる十数人の視線が向けられているというのに、彼は落ち着き払っていた。緊張や萎縮をしているようには見えなかった。遠くにある地平線を静かに眺めているような、そんな表情をしていた。
所長の話す声をBGMにして、彼のことを観察し続ける。藤色の髪と、左右で色の違う目をしていた。あの怪物めいた金色の目は、どうしてかこの時はさして気にならなかった。前髪がその目にややかぶさっていたからかもしれない。それよりも、痩せこけた体躯の方に私の意識は寄せられた。心配になるほどに肉の無い体だ。半ズボンを履いていたので体つきがよく分かる。脚は枝のように細く、膝はまるで石が飛び出ているようだった。
所長の声が途切れる。話すべきことを話し終わったらしい。隣で彼が、丁寧にお辞儀をした。それで終わりだった。周囲の職員たちがまばらに拍手をする。私もそれに従った。こころもち大きな音で、両手を打ち合わせた。歓迎の意の薄いこのまばらな拍手の音に、彼が落胆しなければいいと思ってのことだった。
結局、彼の声をこの場で聴くことはなかった。余計なことを言うなと事前に釘を刺されていたのかもしれない。なにしろ、彼はアルカニストなのだから。
「大人しそうな子だったわね」
朝礼が終わり、デスクへ戻る合間に同僚がそう口にした。まさか。私はそう返してやりたかった。本当にそう見えたのだろうか?
私には、彼の生白い肌や、痩せこけた脚や、聡明そうな顔立ちの中に、世間への侮蔑や軽蔑が滲み出ているように思えた。あの場にいた職員全員が、自分よりばかでうすのろだと思っていても可笑しくないような気がしたのだ。
それに、本当に大人しい子であれば、ああいう紹介の場に立たされたら、居心地悪そうにあちこち視線を彷徨わせているはずだろう。ここに入社したばかりの頃の私のように。
それから数日後、私は偶然、センター内の廊下で彼と鉢合わせた。彼は一人で、両手いっぱいの資料やファイルを手にしていた。おそらく、財団内での決まりごとや、各部署の簡易名簿、センターの理念についてや各研究室に備えつけられている暖房機器のマニュアルまで、ありとあらゆる資料を渡されたに違いない。私にも覚えがある。入職してすぐの頃に、抱えきれないほどの資料を渡された。これらすべてを一字一句暗記するべきなのだろうかと当時は真剣に思い悩んだものだ。
向こうからやって来る彼と、紙束ごしに目が合ったような気がした。その瞬間に、彼が資料を一枚取り落とす。それを拾い上げようとして屈みこんだ彼の腕から、また一冊本が滑り落ちた。その厚さを見る限り、おそらく「財団発足からこれまでの歩み」だろう。
「大丈夫?」
私はそばに行って、「財団の歩み」を拾い上げた。
「ありがとう」
彼が屈みこんだまま、私を見上げてそう言った。私は動揺した。予想よりも幼い声を彼がしていたからだろうか? もしくは、彼が真っ直ぐにこちらを見てきたからかもしれない。「ええと、ミス──」
「一階の、庶務課の事務員よ」
私はわざと名前を告げずにそう答えた。その受け答えのちぐはぐさに、彼は気づいただろうか。
こんなに近くで、彼の姿を目にすることになるとは思わなかった。視線を落とすと、きれいな、新品の革靴が目に入る。新品すぎて、少年じみた脚には不釣り合いだった。
それは、孤児院の人に買ってもらったの? その言葉を飲み込んだ。彼が孤児院育ちだという噂は、初日のうちに私の部署まで届いていた。そして数日後には、その噂がどうやら本当らしいという情報まで回ってきたほどだ。彼が自分の口で私に明かしていない、パーソナルな部分について言及することは憚れた。だからといって、当たり障りのない話題を探そうと彼のあちこちに目をやるたびに、どうしても「孤児院」というワードが頭をよぎる。
「なにか、困ったことはない?」
そう尋ねると、彼は微笑しただけだった。私でもそうするだろう。けれども、その人懐っこそうな笑顔にやはり胸がざわめく。有無を言わせぬ圧があるように思えた。相手に隙を見せないように、何一つ欠けていない仮面を、私と相対した途端に着けられたような気がした。子供の顔をしてはいるけれど、その皮一枚の下には、疲れ切った老人の顔があるように思える。
話題を探し、あちこちに視線をやった末に、私の目は彼の髪に留まった。
「髪、傷んでる」
「うん?」
「寄宿舎に、備え付けのシャンプーを使ってない? あんなにひどいシャンプー見たことないでしょ」
彼は、一瞬こちらを探るような目をした。しかしそれも一秒に満たず、すぐにあの人懐っこい笑顔を浮かべながら「やっぱり?」と言った。
「どうりで、あんまり泡立たないと思った」
「子供用の消しゴムみたいな匂いがするでしょう? 水っぽくて、ポンプからも出にくくて」
「メロンソーダみたいな色の?」
彼が何を言おうとしているのか、私には分かった。研究センター内のトイレに置かれている、ハンドソープのことを言ってるのだ。彼の言う通りメロンソーダみたいな色をしていて、水で薄めすぎているのか、濡れた手ではちゃんと手に取れているのかも分からない。たしかにあれは、そのシャンプーと粗悪具合がよく似ていた。私たちは互いに笑みを浮かべた。いまこの建物内にいる誰よりも、通じ合っているような気がした。その錯覚が、私を高揚させたのかもしれない。
「今度、私が使ってるシャンプーを持ってきてあげる」
「ええ?」
さすがに彼の顔にも困惑が表れていた。
「家に買い置きがあるから」
これだけでは理由が足りないということに、私自身気がついていた。
「だって、あなたの部署とは関わりが無いし、私が仕事で教えてあげられることなんて無いから、その代わりに」
私は意識して、感じのいい笑顔を浮かべようとした。
「ここにいるみんなは、あなたを歓迎しているの」
それは多分嘘だった。彼がアルカニストである限り、偏見の目は必ず向けられる。
翌日、私が紙袋に入れてきたシャンプーとトリートメントを、彼は昼休み中に受け取った。彼の部署を尋ねるより先に、エレベーター付近で待っていた彼と会うことが出来たので、その場で手渡して終わった。人目につく場所で、受け取りたくはなかったのかもしれない。それっきりだった。彼との交流は。その数か月後に至るまでの間。
その日私は、折りたたんだパイプ椅子を重ねて運んでいた。明後日には弁論大会が始まるということで、ホールに人数分の椅子を用意しなくてはならない。
いい天気だった。お日様が出ていて、窓から陽射しが降り注いでいて、それが室内に落ちる影をより濃くしている。奇妙な肌寒さも同時にあった。気にするほどのものではなかったけれど。
歩くたびに、椅子同士がぶつかり合って、ガチャガチャと不愉快な音を立てる。だから、後ろから近づいてくる足音に全く気がつかなかった。
「ミス、×××──」
背後から、親しげに肩を叩かれた。そんな風にされるのは、久しぶりだった。少なくとも、財団に就職してからの数年間、こうやって肩に触れられたことなんて一度もない。私は驚き、振り返った。そこに彼が立っていた。
「重そうだね。手伝おうか?」
あの、痩せこけた脚の彼だった。当時と同じように、白衣と革靴を身に着けている。私は何も言えず、黙り込んだまま彼を凝視した。なにせ、私の記憶にある彼とかけ離れていたからだ。彼はもう痩せこけてもいないし、老人の顔もしていなかったから。顔は血色がよく、石のように飛び出ていた膝は、脚の中にちょうどよく収まっていた。髪は柔らかそうに風を含んでいて、彼の頬の上で楽しげに揺れていた。まるで彼の肉体に付属していることを、誇らしく思っているかのように。
「なあに? お化けでも見たような顔して」
彼は笑顔でこう言った。実際、その通りだった。私にとって彼は、数か月前に会話をしてから一度も関わることなく、忘却の海に放り出された存在だった。ほとんど死人と同然だった。私の頭の中では。
「いえ……、」
何とか、絞りだすようにしてそう否定する。
「背が、ずいぶん伸びていたから、びっくりしただけ」
「ああ! 分かる? そうなんだ、あれから5cmも伸びてね」
無邪気な笑顔に、いよいよ私の困惑が増していく。彼のその表情が果たして「仮面」なのか、今の私には推測できずにいた。あの時は、それが取り繕ったものであるとすぐに分かったはずなのに。私だけが見つけられていたものが、今はもう失われていた。
ふと、彼がこちらをじっと見つめていることに気づいた。あの、大きな目で。
「ええと、なに?」
「運ばなきゃいけない椅子は、あといくつあるの?」
「全部で五十」
「ふうん、じゃあ、これだけ運んで、恩を売っておこうかな」
「恩って──」
わざとらしい軽薄な物言いに、きっと彼なりのジョークなのだろうと思って笑みを浮かべようとした。口の端が不器用に吊り上がるだけになってしまったけれど。
「はい、じゃあもらうね」
急に椅子を全部取られて、私は慌てた。自分はどうしてこんなに狼狽えているんだろう。あの時は自然と対話できていたのに。
「そんな、悪いもの」
「ううん。僕が持ってくよ。で、君は次の椅子を取りに行っておいで」
彼が私の目を見つめる。諭すような目だった。
「だって、僕と一緒に居たくなさそうだしさ」
「じゃあね」とだけ言って、彼はまるでファイルのように軽々とパイプ椅子を小脇に抱えた。呆然とする私に、彼は「そうだ」と何かを思い出したような顔をして、こう言った。
「君が勧めてくれたシャンプー、今も買い足して使ってるよ」
今度こそ彼は背を向けて、二度目の「じゃあね」の後にホールへと遠ざかっていく。
私は彼の背中を見た。小さくなっていく彼の姿に、瑕疵も疵瑕も見つけられなかった。ふわふわと揺れる髪の中にも、白衣から伸びた脚の中にも。