水底

 試したいことがあるんだ、とドクターが言った。それを聞いたテキーラは、良くない胸のざわめきを表に出さないよう努めながら「手伝うよ」と返した。お利巧な彼はもちろん、人の良さそうな笑みを顔に浮かべるのも忘れなかった。
 
 お湯の溜められていない、からっぽのバスタブ。照明はつけておらず、小窓から差し込むわずかな陽射しだけが光源で、そのせいか余計に寒々しく見えた。
 バスタブの底に、ボストンバッグがひとつ置かれている。ロドスの備品であり、艦内で飽きるほど見かける鞄だ。それがほんの少し口を開けた状態で置かれている。テキーラは洗い場に立って、そのバスタブの中を覗き込んでいた。
 彼の金髪がくすんで見えるほどに、浴室は薄暗い。けれどもほんの少し目をこらせば、ボストンバッグの中で窮屈そうに体を畳んでいるドクターの姿が、ジッパーの隙間から見えたことだろう。
「ほんとうにいいの?」
 テキーラは、今日何度目かになる質問をまたドクターへ投げかけた。
「ほんとうに閉めちゃうけど」
「そうしてくれ」
 ジッパーの奥から、くぐもった声が聞こえてくる。ボストンバッグが身を揺する。収まりが良くなるように、ドクターが姿勢を変えたのだろう。彼は言い聞かせるように、ついさっき説明したことをまたテキーラへ繰り返した。
「私が中に入った状態で、君はかばんの口を閉める。そしてそのまま、浴槽に水を溜めてくれ。このかばんを浴槽に置いたまま。私が声をかけるまで、君はかばんを開けずにそこで見守っていて欲しい」
 テキーラはやはり事情を呑み込めない顔のまま、不承不承という風に頷いた。その顔をじっと見上げていたドクターは、いつもの無表情から数ミリほど満足そうな顔をして――今回ばかりは息苦しいからと、フェイスシールドを外していたので彼の表情がよく見通せた――テキーラに向かって頷き返した。
 バッグの中にもぐりこんだ姿はやはり窮屈そうで、見ていて楽しいものではなかった。不自然に両脚を畳んで押し込まれている様子に「誘拐」という言葉が頭をよぎりそうになる。その言葉が似合うほどに、どこか非倫理的な光景だった。
 シャツ一枚にスラックスという格好のテキーラが、バスタブのふちに手をついて身を乗りだす。ひんやりとした冷たさが手のひらに伝わってきて、それが彼の胸を余計にざわつかせた。
「いい?閉めるよ?」
 頷くのを確認してから、ジッパーをゆっくりと引き上げていく。金属が鈍く擦れ合う音。それが愛撫めいたざわめきを与えた。テキーラの腕が鳥肌を立てる。一番上まで閉め切った瞬間、苦しげな吐息が聞こえた気がした。
「……水を流すね」
 返事はなかった。テキーラが蛇口をひねる。すぐに、おびただしい量の水が浴槽の底へと叩きつけられていった。数十秒もしないうちに、底一面にうすく水が張られる。普通に立っているだけならば、足指が浸かり切るかどうかというほどであった。しかしドクターからすると、背中全体がじんわりと濡れ始めていることだろう。勢いよく水が注がれていく暴力的な音は、いま目の前で起きている光景から意識を逸らすのに丁度よかった。
「…………」
 水が溜まっていく。テキーラは立ち尽くしたまま、壁のタイルをじっと見つめていた。黒っぽいカビの跡が目につく。タイルの表面に浮かぶなめらかな光沢は、そのままテキーラの青い瞳にも映し出された。小窓から射し込む陽射しが、彼の顔に淡い影を落としている。
 テキーラが視線を戻す。浴槽の中には、まだ三分の一も水が溜まっていなかった。しかしそれだけの冷水に身を浸していれば、徐々に体温が奪われるだろう。ドッソレスの海のような、陽射しの暖かさを含んだ水とは違うのだ。
 もうボストンバッグは半分ほどまで水に浸かっている。テキーラはその中で体を折りたたんでいるドクターの姿を思い出そうとした。バッグはぴくりとも動かず、中に人がいるとは想像もできない。水面がゆるやかに波打つ。その動きが、テキーラの胸をかすかに引き絞りつつあった。
 彼の視線が、また壁のタイルへと戻される。それから、カビの目立つ小窓にも。焦燥が体の内側を満たしていく。彼は一刻も早く、この状況から解放されたがっていた。今すぐにでもドクターを助け出して、この責務に対する何かしらの安堵を得たい。そう思うのは当たり前ではないだろうか?水かさが増していく。冷えた足裏の感触が不快だった。
 それからどれくらい経っただろう。外の日差しが強くなったのか、やや明るさを得た浴室の中に、小さな声が響いた。
「テキーラ」
 彼は弾かれたように目を向けた。それは確かに、ボストンバッグの中から聞こえた声だった。そう思う一方で、聞き間違いだと否定する声も彼の中にあった。立ち尽くす彼の耳に、また掠れた声が届く。
「テキーラ……」
 今度こそ本当に、名前を呼ばれたのだと確信を持てた。バッグの中から出してやらなければ。テキーラはそう思い、しかし痺れ切った彼の頭は、別の選択肢を思い浮かべた。今ここで、自分が手を貸さなければ彼はどうするつもりだろう?
 よくない想像だと、分かっていても彼は止められなかった。彼が助手としてここに立ち会った意義のすべてが、その役目にかかっているだろうに。内側からジッパーを引き下ろすのは、そう難しくはないだろう。けれど、冷水で指先の感覚までなくなりかけている人間であれば、無理難題に近いかもしれない。窮屈に閉じられた空間は、水圧によってより隙間なく満たされているはずだ。普通よりずっと非力で虚弱な彼が、それを成し遂げられるだろうか?
「……ぃ」
 水音に混じって、また声が聞こえたような気がした。それはさっきより不明慮で、もしかしたら、口の中に水が入り込んだのかもしれない。水面はもう、ボストンバッグを覆いつくしそうなほどにせり上がってきていた。
 その声を合図のようにして、テキーラはただじっと、波打つ水面を見つめていた。彼は祈りのような迫真さをもって、ドクターがたった一瞬でもいいから、こちらに不信を抱いて欲しいと願った。いつまでも助け出される気配のない状況で、パニックに陥って欲しかった。テキーラが本当にそばに立っているのかを疑い、自分の手でかばんの口をこじ開けようと、もがいたり暴れたりするか、大声をあげてテキーラ以外の誰かに助けを求めて欲しかった。
 それはどう考えても、彼にとって何のメリットもない行動だった。それでも行動に移してしまったのは、ドクターから向けられる信頼が一度でも崩れてしまった時、自分がしたよくない想像や――以前からドクターに向けていた執着のすべてが、許されるような気がしたのだ。ボストンバッグの中、苦しげに身を横たえた小さな体の内側が、ただ一人の人間に対する不信と恐怖でいっぱいになる様を見たかった。
 十数秒は、経っただろうか。その間、バッグは身じろぎ一つせずに転がっていた。悲鳴も、うめき声も聞こえないまま。
「……」
 テキーラの指先が、緩慢な動作でジッパーへとかかる。ここまできても、躊躇いが彼の手を押しとどめた。それでも、引き下ろすのはあっという間の出来事だった。
「ドクター」
 そう声をかけるより先に、大きな目がテキーラを捉えた。青白い肌。ごぼ、という音を立てて、半開きになった口から水が吐き出された。口の中に水が流れ込むほどに、水面が上がり切っていたのだ。
 ドクターが身を起こす。何の感情も読み取れない顔だった。濡れて束になったまつ毛と、それに囲われた色の薄い瞳にも、テキーラを責めたてるような感情は浮かんでいない。唇が、青紫色になっている。
「ありがとう」
 寒さのためか、ぎこちなく歯を鳴らしてドクターが言う。テキーラは何も答えなかった。無言のまま背を向け、洗い場にあるシャワーの蛇口をひねり、お湯を出す。
「なに?」
「体を温めなきゃ」
「いいよ。しなくて」
「よくないよ」
 おいで。彼はそう言って、ドクターの手を取った。氷よりも凍えた手をしていた。おぼつかない足取りで浴槽をまたぎ、テキーラの胸へ倒れこむようにドクターが収まった。シャワーからほとばしるお湯が、テキーラの肩越しにドクターの頭へとふりかかる。背後で湯気が立ち昇る気配がした。冷え切った浴室が、急速に暖められていく。
「濡れるよ」
「俺も後で着替えるから」
 シャツの内側を伝っていくお湯の感触を受け止めながら、テキーラはひとりごとのようにそう言った。

「いい?流すよ」
 水が勢いよく叩きつけられていく音。バスタブの底には、以前と同じようにボストンバッグがあった。その中にドクターの体が閉じ込められていることまで、全く同じ状況だった。
 ドクターはあの日以来、この儀式めいた遊びをいたく気に入ったらしい。遊び?いや、彼にとっては大真面目な実験なのかもしれない。どちらにせよ、理由を聞かされていないテキーラには判断のしようがなかった。きっと低体温症の再現やら、水圧がどうたらという彼なりの目的があるのだろうが。
 バスタブの底に水が張られていく。一番上まできっちりとジッパーを引き上げられたボストンバッグは、やはり物言わぬ胎児のように浴槽の中でじっとしていた。薄暗い浴室で、波打つ水面が光を含んでは奇妙なうねりを描いていく。テキーラはそれを、ひどく不気味なものを見るようにして眺めていた。
 いつもであれば、ここから数分間、ドクターもテキーラも口をきかないまま、バスタブに水が溜まっていくのを待つのみであった。それが今日この時だけは、ドクターが不意に名前を呼んだ。
「テキーラ」
 その声に、ぎょっと目を剥いてバスタブの中へ目をやる。無理もない。今の今まで、ドクターがこんなすぐに声をかけてくることなどなかった。水たまりほどにもかさは増しておらず、人差し指を沈めたとしても、第一関節まで浸りきるかどうかという浅さだ。
「あ……どうしたの?もう出たくなっちゃった?」
「ううん」
 ドクターが否定する。どこか眠たげな声は、蛇口からほとばしる水の音にかき消されてしまいそうだった。「じゃあ、なに?」耳元で水が波打っているだろう彼にも聞こえるように、やや声を張り上げてテキーラが訊ねた。そのせいで、少し苛立っているような声になり、彼自身それに戸惑った。しかしそれ以上に彼を困惑させたのは、ドクターが口にした次の言葉だった。
「私のことを好きでいてくれてありがとう」
 テキーラは、聞き間違いではないだろうかと咄嗟に思った。幻聴の類を疑うものの、たとえ気が狂ってしまってもここまで直接的な好意の言葉を、自分の脳はでっちあげたりしないと頭の片隅が冷静に言う。
「どうしたの」
「お礼を言ったんだよ」
「それは分かるけど」
「ねえ、楽しくないの?」
 テキーラは言葉に詰まった。楽しい?この奇妙な儀式について言っているのだろうか。少し間違えれば死んでいてもおかしくない、何をさせられているのかもテキーラには分からないこの一連の行為を?返事をできずにいる中で、ドクターが「私はね」と続ける。
「君以外のオペレーターに、これを手伝わせたりはしないよ」
「……それは、」
 そうだろうね、としかテキーラには返す言葉がない。ドクターが言っているのは当たり前のことのように思えた。アーミヤやケルシー、その他大勢のオペレーターが、これを手伝ってくれるわけがない。ドクターの身の安全を第一に考えている者であれば、問答無用でこの遊び自体を却下するだろう。今ここにいるテキーラのように、ドクターとの距離を縮める口実になれば良いと、打算混じりに考えている者以外は。
「たのしくないの」
「ドクター、今日は少し、気分が良くないんじゃないかな」
 二度目の問いかけを、テキーラはそんな風に返した。
「今日はもうやめにしたら」
「…………」
 長い長い沈黙がその場に落ちた。浴室に反響する水音のおかげで、そこまで気づまりな空気にはならなかったものの、聞こえなかったのか?とテキーラが不安になるほどにはドクターの返答は遅かった。ややあって、口の中で呟くように「そうする」とだけ言うのが聞こえた。
 テキーラがジッパーを下ろす。ドクターがボストンバッグから身を起こした。水かさは、脇腹のあたりまでを濡らすだけに留まっていた。それでも、ドクターの顔は青白く、指先はいつもよりずっと冷え込んでいた。
「おいで」
 慣れた手つきでシャワーを出し、テキーラが手招く。濡れて張りついた防護服を脱がした。
「……」
 大きな目が、じっとテキーラを見つめている。いつものような、こちらを観察するような視線ではない。まるで、叱られるのを怖がっているような、悪いことをしたと自覚している子供のような目だった。その視線の意味を理解できないまま、テキーラは彼なりの優しさでそれには触れずにいることにした。もう一度「おいで」と言ってドクターを抱き寄せる。シャツとスラックス姿の彼に対し、ドクターはほとんど裸に近い格好だった。
 シャワーを頭からかける。透明な湯が首筋を伝って、鎖骨に一瞬だけ留まり、それより下へ流れていく。発育不良の子供のような体型は、テキーラの腕の中でより一層うすく頼りない体つきに見えた。
 ドクターが心地よさそうに目を閉じる。額に張りついた前髪をかき上げてやった。母猫に毛づくろいされている子猫のような表情だ。テキーラが喉の渇きを覚える。背に腕を回し、今以上に密着した。ドクターの鎖骨に溜まったお湯が、テキーラのシャツへ伝っていく。
「濡れるよ」
「いいんだ」
 そう言って、白い耳たぶに唇を寄せた。吐息と一緒にこう囁く。
「それより、もっとくっついて」
 テキーラは薄ら寒さを覚えた。服が濡れてしまったせいではない。こんなにも考えを読み取れない相手に、未だ惹かれ続け、劣情さえ抱いている自分自身が、ひどく不気味に思えたのだ。