愛すべき珍獣または隣人として

その日、東京では珍しい大雪が降った。
コンクリートは白く染まり、それだけでなく屋根や看板や車の上にも雪がやわらかく積もっていった。テレビのニュースでは、電車やバスの交通状況をせわしなく伝えては、道路で立ち往生している車の映像を流している。
あらゆる交通機関が軒並みマヒしてしまったため、帰宅することを諦めたサラリーマン達のほとんどは近場のホテルに泊まることを選択した。そして、美空を含めた三人もまた、同じようにホテルで一晩過ごすことを選んだのである。
美空と毒島とひるこの三人は、都内のビジネスホテルに隣り合わせの部屋を三つ取った。普段毒島が常宿にしているようなところより、ランクがずっと下である。大勢の帰宅難民によって次々と空き部屋が無くなっていく状況の中で、ようやく取ることができたのがこのホテルなのだ。一人ひと部屋確保できただけ、十分ましな方であっただろう。
部屋は、どことなく粗末な印象を受ける作りをしていた。ホテルとして必要最低限のものは揃えられており、壁には小さな絵が飾られているものの、それが余計に安っぽさを目立たせている。
そんな部屋の中で、美空は窓辺に立ち、雪に覆われた都内の様子を見下ろしていた。毒島なら「独房に取り付けられた窓」とでも例えそうな、こぢんまりとした大きさの窓だ。そこから見えるのは、眩いほどの白である。流石に、道路上の雪は大勢の足跡によって無惨に濡れ潰れていたが、ビルの上に積もった雪は、輝くような白さを未だに保っていた。上階から見下ろすビル群は、まるで白く四角いコンテナがいくつも並んでいるようである。
普段泊まっているような、ハイクラスのホテルから眺めていれば、より胸をときめかせるような景色として見えたのかもしれない。黒くたっぷりとしたセーターに身を包んだ姿で、美空はひっそりとそう思った。
来客があったのは、それから数分後であった。
インターホンを聞いて部屋のドアを開けると、そこにはひるこが立っていた。相変わらずビジネスホテルの廊下に似合わない、猿のような容姿とくたびれた水干姿である。美空の顔を見ると、にんまりと笑ってこう言った。
「お喋りしに来たぞえ」
そして、美空が返事をする前に「せっかくだから、毒島の部屋でお喋りしようぞ」と付け加えた。一体何が「せっかく」なのかは分からなかったが、美空は「そうしましょう」と答えた。
美空を引き連れて、ひるこが毒島の部屋へと向かう。部屋のドアには、カードキーを差し込む機械が取り付けられていた。その前でひるこが立ち止まる。中から毒島に開けてもらうのだろうか、と美空が思っていると、ひるこは水干の袖の中からすばやく何かを取り出した。そして、カードキーの代わりにそれを差し込む。ひるこのかさついた手がドアノブを握ると、ロックされていたはずのドアは呆気なく開いた。ひるこの背中に遮られて美空からは何も見えなかったが、奇妙な道具を持っているらしい。頼めば貸してくれるだろうかと思いながら、ひるこに続いて部屋の中に入った。
「うひょひょひょひょ」
入るや否や、ひるこはそんな奇声を発しながらベッドに飛び乗った。子犬のようにシーツの上を転げ回り「男の匂いじゃ」と声を上げる。美空は、ベッドのそばの一人がけの椅子に腰を下ろした。
内装は、美空の部屋と変わらない。意外なことに、毒島は留守のようだった。どうやらひるこは、留守中に忍び込んで毒島を驚かせてやるつもりらしい。「帰ってくるのが楽しみじゃ」と言いながら、未だにベッドを転げ回っている。
毒島が部屋に戻って来たのは、それから三十分もしないうちであった。部屋に入る前から、二人の気配に気付いていたのかもしれない。入ってきた毒島は、寛いでいる二人を一瞥しても驚かず、僅かに眉をしかめたくらいであった。手には、コンビニの買い物袋が下げられている。それをガサガサと言わせながら、二人のそばへ近づいていく。
「どうせこんなことだろうと思ってたよ」
「毒島よ、随分帰ってくるのが早いではないか」
ぼやく毒島に、ひるこが言う。続けて「女が捕まらなかったのか」と聞いた。
「あほ。こんな天気の日に漁りに行けるか」
言いながら、小さなテーブルへ買い物袋を置く。
「何じゃそれは」
「夕飯だよ。俺たちの」
「なに?」
「コンビニで買ってきてやったんだよ。この雪でまともな飯屋はもうやってないぞ」
「下にレストランがあっただろう」
「そこも、食材の納品が難しいからってもう閉めてたぜ」
「なんと」
毒島が袋から取り出したのは、ペットボトルのお茶三本と、カップラーメンとおにぎりがいくつかだった。ほとんどの店が閉まっているというのが事実なら、おそらくコンビニの食料品も残りわずかだっただろう。毒島が買い出しに行ってくれなければ、まともな食事にありつけなかったかもしれない。美空は毒島を見上げて礼を言った。
「ありがとうございます、毒島さん」
にこやかにそう言ってみせた美空だったが、毒島はどこかムスッとした顔で美空を見つめるばかりだった。ようやく口を開いたかと思ったら「どけよ、そこは屋主の席だぜ」と言うだけだった。
美空はひるこの隣になるようにベッドに腰掛け、入れ替わるように毒島は椅子に座った。美空は席を立つ際に、ついでにカップラーメン用のお湯をポットで沸かしに行った。
まだお湯が沸く気配は無く、ひること毒島はおにぎりの取り合いをしている。毒島が買ってきたおにぎりは鮭といくらと昆布なのだが、いくらを二人が取り合っているのだ。しかし傍目には、ひるこが本気で食べたがっているようには見えない。毒島がいくらに手を伸ばしてから、後出しで鷲掴みした姿を見る限り、単に毒島とじゃれ合いたいだけなのだろう。一つのおにぎりを巡って、綱引きのように引っ張りあっている姿はなかなか面白い。
しばらく待ってみたが、なかなか二人の攻防が終わる気配が無いため、美空は先に食べてしまうことにした。
「いただいていますね」
鮭のおにぎりを手に取り、外側のフィルムを剥がす。暖房で乾燥した空気の中に、海苔の匂いが混じり始めた。おにぎりを両手で持って、てっぺんを一口かじる。美空は自身の口元が反射的に緩むのが分かった。そういえば、今朝から何も腹に収めていなかった事に気づく。碌に飲み食いできないのは仕事柄よくあることであったが、やはり空腹が満たされるのは快かった。
もそもそと咀嚼していた美空だったが、不意に視線を感じ顔を上げると、毒島がこちらをじっと見つめていた。ひることのおにぎりの取り合いはいつの間にか終わっていたらしい。何か、珍しがっているような、微笑ましいものを見ているような、そんな表情である。形の良い眉が、愉快そうに僅かに持ち上がっている。
「うまいか?」
口元に微笑を浮かべて、毒島が聞く。美空は「ええ」と答えながら、妙な居心地の悪さ──というより、むず痒さのようなものを感じた。
毒島にこのような顔をされるのは、美空にはよくあることだった。ものを食べたり、寝たり、水を飲んだり、そういう人間らしい振る舞いを美空がしていると、まるで珍しいものを目にしたような顔で毒島が見るのだ。その表情は、例えるなら動物園に来た客が、コアラやナマケモノがのんびりと飯を食う姿を眺めているようである。
そういう風に見られると、美空はいつも妙にそわそわとしてしまう。傍目にはいつも通り落ち着いた立ち振る舞いのままなのだが、内心はそうでもない。「異物」として見られることに慣れ切った美空であるが、そんな風に、どこか微笑ましそうな目をされるのは余り慣れていなかった。
「なんじゃ、にやにやとして」
隣でいくらおにぎりのフィルムを剥がしながら、ひるこが言う。いくらはひるこが勝ち取ったらしい。毒島は表情を一変させて「うるせえ」と返すと、大人しく昆布おにぎりを頬張り始めた。
毒島の視線が逸れた事に内心感謝しながら、美空はおにぎりを食べ進める。
自分にとって毒島が珍獣であるのと同時に、毒島にとっての自分は珍獣に見えているのだろう。
そう結論付けながらも、美空の胸にはモヤモヤとしたものが残っている。珍獣扱いされるならされるで納得できるのだが、妙に可愛らしいものを見るような目で見られているのが気に入らないのだ。
お湯が沸き、カップラーメンが出来上がったので三人でそれぞれ食べ始める。久々にこういったジャンクフードを食べた美空は、駄菓子みたいな味だなと思った。
毒島は湯気の中で麺を啜りながら「屈辱だよ。おれがこんなものを食うなんて」と言うのを「黙って食え」とひるこが返す。しかしひるこはそうしながら、毒島のラーメンの中に箸を突っ込んでタンメンを奪い取ろうとするので、毒島が「おめえこそ大人しく食え」と叫んだ。
窓の外では、雪が音もなく降っている。美空は、またあのくすぐったい視線が毒島から寄越されるのではないかと思ったが、その気配は無く、安堵しているような、どこか物足りないような気持ちになりながら二人のじゃれあいを眺めていた。