必要ありませんよ

今日のミスラは不機嫌だった。ベッドの上で猫のように丸くなり、シーツを噛んでキシキシと歯軋りをさせている。それに、ベッドに腰掛けている賢者に対して、背中を向けて寝ていた。機嫌がいい時は賢者の膝に頭を乗せたり、下から顔を見上げる時が多いので、少なくとも楽しげでは無いのだろうと分かる。
その不機嫌の理由を賢者は知っている。今日の昼間、魔法舎にやって来た客人の態度が、ミスラを苛立たせたのだ。
午後のおやつの時間を少し過ぎたあたりで、賢者がルチルやフィガロと共に談話室で過ごしていると、クックロビンが客人を連れてやって来た。普通ならば、正規の手順を踏まなければならないのだが、客人のひどく焦っている様子から、緊急の用かと思い魔法舎に上げたらしい。
確かに、客人は焦っている、というより情緒不安定にすら見える様子だった。彼は賢者や魔法使いたちを見ると、まず魔法舎が自身の故郷よりずっと遠い場所にあることや、入り口がすぐには見つけられなかったことを捲し立てはじめた。フィガロが宥めようとしたが、それでも客人の苛立ちは収まる様子を見せない。客人を落ち着かせるにはまだ時間がかかりそうだったために、フィガロとクックロビンに対応を任せ、賢者とルチルは客人に出す用の菓子とお茶を用意しに行った。
しかし結局、客人は茶菓子に手をつけなかった。談話室に戻り話を聞いたところ、賢者の魔法使いが手伝うにしては依頼の内容にあまりにも私怨が多すぎた。手を貸せない旨を伝えると、客人は顔を赤くして何かを捲し立て、さっさと魔法舎を後にした。この時の客人が口にした言葉が、賢者には早口すぎて聞き取れなかったのだが、今思うとフィガロの魔法によるものだったのかもしれない。賢者の聴覚を一時的に鈍くするなど、フィガロには呪文を唱えずとも朝飯前だろう。
クックロビンが客人を追って慌てて出て行った後、談話室には手付かずの茶菓子が残された。せっかく用意してしまったのだから、ここにいるみんなで二度目のおやつにしようか、と提案した瞬間、長い腕がにゅっと伸ばされ、茶菓子を素手で鷲掴んだ。黒いマニキュアが塗られたその手は、いつの間にかそこに居たミスラのものだった。ミスラは片手いっぱいに茶菓子を掴んで、そのまま口に運び咀嚼を始める。菓子を食べ終わり、指についた残骸を舐め取った後、ミスラはぼそりと独り言のように言った。
「見ているだけで恥ずかしくなる男でしたね」
賢者は最初、それが何を指しているのか分からなかった。フィガロに言われ、ようやく先程の客人のことを言っているのだと分かった。あの一部始終を、ミスラは気配を消して物陰からこっそり見ていたらしい。どおりで、俺たちの腹に収まる前に、菓子にありつけたわけだとフィガロは笑っていた。

今のミスラは、その時の苛立ちを引きずっているのだ。ミスラがごろりと寝返りをうち、久しぶりに賢者の方を向いた。けれど、機嫌が治ったわけではないようで、彼の両目にはのたうち回るミミズを眺めるような、愉快とは言えない感情が含まれていた。ミスラがひどくゆっくりとした動きで口を開く。
「あんな屈辱的なこと、もうしなくてもいいですよ」
「あんなって、どんなことですか?」
「給仕の真似事みたいなのですよ」
「ああ……」
給仕の真似事、という言い方が賢者には新鮮だった。客人をもてなすのは当然だという認識だったために、確かに給仕みたいだと言われたらそうなのかもしれない、と賢者は考える。
「でも、魔法舎にやって来た人に、相談しやすい雰囲気を作るのも、きっと俺の仕事の一つだと思うんです」
「俺は思いませんよ。まるで、強い者に媚びへつらう弱者みたいで、不愉快でした」
あやすようにミスラの頭を撫でながら、いかにも北の魔法使いらしい考えだな、と賢者は思った。きっとミスラは、今まで命乞いや貢ぎ物として、食べ物を捧げられたことが何度もあるのだろう。そうのんびりと考えていた賢者は、ふとあることに気がついて「あの、ミスラ」と慌てて声を上げた。
「俺がミスラに料理を作ってあげるのは、仕事だと思ってやってるわけじゃないですからね」
今朝、彼に請われて消し炭を作って(作ってと表現していいものかは分からないが)あげただけに、賢者は思わずそう訂正した。ミスラのどこか幼い思考回路なら、賢者のそういった行為と、客人への対応を混同して考えてしまうかもしれないと思ったのだ。しかし、賢者の予想に反して、ミスラはきょとんと目を丸くして賢者を見た。
「知ってますよ。そんなこと」
それを聞いて、賢者はほっとした。単純に、ミスラに喜んでもらいたいからとやってきたことを、勘違いされて、その上ミスラを傷つけやしないかと心配になったのだ。安堵の息をついて「それなら良かったです」と返す。
ミスラは寝転がったまま、奇妙なものを見る目をして賢者をじっと見つめた。それは、アリの行列を眺める猫のような視線だった。その目が、ふいに緩められた。花が開くように、ミスラの目元の強張りが解ける。常盤色の目が悪戯っぽく細められ、手がこちらに伸ばされたかと思うと、黒い爪をのせた指先が、ちょんと賢者の膝に触れた。賢者の視線は、楽しそうに微笑むミスラの瞳に吸い込まれる。
「俺に、嫌われるかと思いました?」
あまりにも無垢に聞こえるその声に、賢者が言葉を詰まらせると、ミスラは「あはは」と声に出して笑った。
クスクスと笑うミスラを眺めながら、賢者は何故だかひどく恥ずかしくなった。まるで、母親にあやされる子供のような気持ちだった。返す言葉がうまく見つからなくて、賢者は無言のまま、膝に置かれたミスラの指先にそっと触れた。すると、ミスラに指を絡め取られる。
いつのまにか、ミスラの機嫌は治っていたらしい。ひだまりで微睡む猫のように、心地良さそうに微笑んでいる。賢者の指を弄びながら、ミスラは楽しげにこう言った。
「今度ああいう人間がやって来たら、俺を呼ぶと良いですよ」
「……ミスラがお茶を出してくれるんですか?」
「いえ、殺します」
「だ、だめですよ!」
物騒な発想に、慌てて賢者が拒絶する。その様子を、ミスラは「どうして」と言いたげな目をして眺めた。
「確かに、今日の人は少し失礼でしたけど……。俺たちの知らないところで大変な目に遭っていて、一時的にああいう気持ちになってるだけかもしれないじゃないですか。だから、殺したり、蔑ろにするのは駄目ですよ」
「必要ありませんよ」
諭すつもりで賢者は語りかけたが、ミスラには少しも響かなかったらしい。むしろ、語気をやや強くして、断言するようにして言葉を返された。賢者を見つめ返す瞳は、死の湖の凍った水面のように静かで、自身の考えが賢者にとって善きものであるはずだと、確信しているのが分かる。続く言葉も、同じように確固たる自信に満ちていた。
「あなたを侮辱するような相手に、あなたが心を尽くしてやる必要なんて無いんですよ」
何の反論も思いつかないほどに、その通りだった。自分の心や魂を守るためなら、そうすることが一番なのだろうと賢者は思った。けれど、やはり自分はミスラの言う通りにはせず、自分を擦り減らしながら、道を譲っていくのだろうと思った。それが今までの人生で学んだ、真木晶の生き方だった。しかし、それではミスラを傷つけるだけだろうと思った賢者は、こう言葉を続けることにした。
「……じゃあ、本当に我慢できなくなった時は、ちゃんとミスラを呼びますね」
「是非、そうして下さい」
どこか楽しげにも聞こえる声で返したミスラは、賢者の指から手を離すと、自身の指先をかざすようにして眺める。それはまるで、研ぎ終わった自分の爪を満足そうに眺める猫のようだった。その様子に、賢者は思わずため息をつきたくなった。それは疲弊によるものではなく、胸に満たされる多幸感によるものだった。
こんな風に、心が傷つかないようミスラやフィガロに守ってもらうたび、身の丈に合わないほど幸せだとつい思ってしまう。そう思うことさえ、ミスラにとっては不愉快なのだろう。どんな形でさえミスラを傷つけたくない賢者は、彼に気付かれないようにそっと細く長く息を吐いた。