寝顔

穏やかな朝だった。朝の日差しに満ち溢れた廊下に立って、俺は賢者様を起こそうと、扉越しに声をかけていた。
何度か呼びかけてみたものの、壁一枚隔てた部屋の中からは物音ひとつしない。俺は心構えのために小さく息をついた後、ドアノブをそっと握り、賢者様のお部屋へ足を踏み入れた。
賢者様の元へ朝の挨拶をしに行くのが習慣化した頃、「声をかけても俺が起きなかったら、部屋に入ってもいいですよ」と賢者様に言われた時、俺は少し驚いた覚えがある。知り合ったばかりの相手に寝顔を見られるというのは、俺からすると耐え難いことだった。それは俺が神経質だからかもしれないし、どこかで囁かれている陰口の通り「気を遣われるのが当たり前の御坊ちゃま」だからかもしれない。戸惑う俺に賢者様は困ったように笑って「廊下にヒースを待たせる方が、俺には申し訳ないので」と言った。
賢者様のお部屋に入り、枕元へ立つ。賢者様の寝顔を見下ろした俺は、胸に満ちていく甘やかな衝動を感じて、そっとため息をついた。
ベッドの中で、賢者様はいかにも幸福そうな、穏やかな寝顔を浮かべていた。幼い顔立ちも相まって、なんだか子供のように見える。健康的な色をした肌や、血色の良い頬は、触れたら溶けそうなほどに温かいのだろうと、手を伸ばさずとも想像できる。俺は最近、賢者様を見ていると官能的な気持ちになってしまう。その温かくて柔らかい手で、口にできないような場所を撫でられる想像さえしていた。最低な行為だと分かっているのに、賢者様の幼い部分を目にする度に、この衝動が増していくのが分かる。
実を言うと、俺は賢者様と出会ったばかりの頃、この人は俺より年下なのだろうと勘違いしていた。それは、俺より低い身長や童顔のせいでもあったし、疑うことを知らない性格や、他者の気配に疎いところ、なんて事ない景色や言葉に感動するところが、俺にそう思わせたのだ。
実際の年齢を知った時、俺は驚くと同時に、賢者様を羨ましいと思った。きっと彼は、ここよりずっと安全で、差別も偏見もない幸福な世界から来たのだろうと思った。だからこそ、出会ったばかりの魔法使いを信用し、手を取ってくれたのだろうと勝手に思い込んでいた。本当は、そんな事なかったのに。俺が思い込んでいたそれらは、俺たち魔法使いが一番嫌っている偏見と同じようなものだったと今になって思う。
賢者様は、差別や偏見を知らないわけではなかった。むしろ、慣れすぎているくらいだった。誰かにひどい言葉をかけられた時、彼は言い返さずに困ったように笑うことが多かった。魔法使いが非難された時は、声を上げて怒ることが多いのに、自分自身が傷つけられた時は、そうやって受け止めるばかりだった。自分に向けられる理不尽な怒りを、黙って受け入れることにあまりにも慣れていた。
俺はとても怖くなった。この振る舞いができるようになるまで、この人は一体どれだけ傷付けられてきたのだろう。俺たちは理不尽な扱いを受けた時に「自分が魔法使いだから」と理由を作ることができる。けれど、この人はおそらく苦痛をやり過ごすための理由をでっち上げることすら出来ずにいたのだろう。
依頼先で、賢者様が謂れのない言葉をかけられた時、俺は勿論声を上げてそれを否定する。それだけでなく、賢者様を慰めたいとも思う。賢者様を抱き寄せて、さっきの酷い言葉は全部嘘で、あなたは何より価値のある存在なのだと言い聞かせたいと思う。けれど、それはきっとしてはいけないのだろう。賢者様を抱きしめた時、俺は歯止めが効かなくなるはずだから。
賢者様を守っている自分に、慰めている自分に悦に入って、まるで賢者様を自分の手の中に収めることができたような気持ちになるのだろう。その思い込みのまま、口にできないような、ひどく自分勝手でおぞましいことさえしてしまう。そんな想像が容易く頭に浮かぶくらいの感情を、俺は賢者様に向けている。
いつの日か、俺と賢者様が並んで中庭を散歩している時、こう言われたことがある。
「ヒース、いつも俺のことを庇ってくれて、ありがとうございます」
「……そんな、お礼を言われるほどのことじゃありませんよ」
賢者様の額に、前髪でできた影が落ちている。木漏れ日のようなそれに、何故だか胸がざわついた。
「だって、すごく嬉しいんです。ヒースが俺の味方をしてくれるから、俺は自分の意見を言うのが怖くなくないって思えてるんですよ」
そう言って、賢者様は俺を見た。俺と賢者様はそこまで背丈に差があるわけでもないのに、俺はまるで子供に見上げられているような錯覚に陥る。
「俺、いつかおじいちゃんになっても、ヒースがこんな風に庇ってくれたこと、覚えてると思います」
「……大げさですよ」
俺はそれしか返せなかった。賢者様の言葉を聞いて、胸がいっぱいになって、本当はもっと伝えたいことがあったはずなのにそれくらいの言葉しか喉から搾り出せなかった。
「大げさじゃないですよ。ずっと覚えています。ヒースみたいに素敵な人が、俺の味方でいてくれたこと、俺はきっと忘れられないと思います」
そう口にした賢者様の笑顔は、この世の何よりも綺麗に見えて、だからこそ、いつかこの人が俺の目の前から居なくなってしまう事実に、胸が押し潰されそうだった。俺はこの世界に存在するありとあらゆる言葉を尽くして、賢者様に好意を伝えたい衝動に駆られた。けれど、俺がそれをした瞬間に、ひどく醜い行為に変わってしまうのだろう。だから喉元まで出掛かった言葉を飲み込んで、その代わりにありふれてくすんだ言葉を返した。
「……俺も、賢者様のことを絶対に忘れないと思います」

人の気配を感じたのか、賢者様は赤ん坊がむずがるように顔を僅かに歪める。まつげが震えて、まぶたがゆっくりと持ち上がる。俺はそれを見て、すぐに品の良い笑みを顔に浮かべるよう努力した。貴族として生まれたために、もう飽きるほど顔に張り付けてきた表情だけれど、この人を前にすると上手く取り繕えている気がしない。
あと数秒もしないうちに、賢者様は目を覚ますだろう。両目を開けた賢者様は、しばらくはぼんやりと俺を見上げるはずだ。俺は笑顔を浮かべる事に神経を集中させる。賢者様には、俺の綺麗なところばかり見せていたい。これからもずっと、俺のことを好きでいて欲しいから。
愛おしい人が、もうすぐ目を覚ます。俺に気づいて、笑顔を浮かべて、おはようと声をかけてくれる。その一瞬の出来事を、永遠に繰り返せたらいいのに。薄墨色の瞳が現れる。そこに映った俺の顔が、ひどく卑しいものに見えたのは、きっと見間違いではないのだろう。