天罰

 シルバーアッシュはここのところ、ドクターを殺す妄想ばかりしている。
 ドクターに対して、恨みや殺意が特別あるわけではない。ただ、一種のままごと遊びのように、頭の中でそういった空想を繰り返しているのだ。
 たとえばその妄想のひとつとして、ドクターが手のひらほどの大きさに縮んでしまったのを想像する。シルバーアッシュの手に閉じ込められたドクターは、指をよじ登ってそこから出ようとしたり、身ぶり手ぶりで解放されたい意思を伝えようとする。しかし、シルバーアッシュにその気がないのを察すると、諦めて力なく座り込んだ。行儀よく縮こまった、小さな手指を満足するまで眺めた後、彼はドクターを手に冷凍庫の前へ移動した。
 冷凍庫を開けて、中にドクターを放り込む。霜付きの冷気の中で、ドクターが慌ててこちらに駆け寄ってくるものの、それを待たずに扉を閉めた。それから一分、二分は経っただろうか。シルバーアッシュはそこに立ち尽くし、じっと耳を澄ませていた。小さな足音や声らしきものが聞こえてくることはなく、冷凍庫の稼働音だけが部屋に響いていた。
 またそれ以外にも、眠っているドクターを殺そうとしたこともある。清潔なベッドに横たわる彼を、シルバーアッシュは見下ろしている。あらゆる表情が抜け落ちた寝顔だった。そこへ、毛布を一枚ふわりとかけた。その上から顔を押さえつける。布越しに、ドクターの鼻と口を塞ぐ形になった。変化が起きたのは、数秒経ってからだ。手のひらに当たる毛布が、呼吸のためかせわしなくへこんでは戻るのを繰り返している。ドクターが身じろぎ、両手を伸ばして宙を掻いた。その手が、シルバーアッシュの腕をようやく捕らえる。透き通った爪の先が、頼りなく突き立てられるのを、シルバーアッシュは黙って眺めていた。
 これらは全て、ただの妄想だ。この内容を他人に打ち明けたことも、悟られたこともないとシルバーアッシュは自負している。繰り返しになるが、彼はドクターに殺意を持っているわけではない。現実世界で、実際にドクターを手にかけようと思ったこともなかった。けれど、こうやって空想の中で何度も殺していくうちに、心が休まるのを感じた。まるでドクターの、命も含めてた彼のすべてを支配できているような、奇妙な満足感がシルバーアッシュの中に生まれるのだ。
 
 その日、イェラグに招かれたドクターは、シルバーアッシュの屋敷に滞在していた。ふたりは深紅のカーペットが敷かれた部屋で、向かい合って夕食を摂っている。窓の外で、横殴りの雪が降っていた。灯りを絞っているために室内はやや暗く、それに反して窓の向こうは、雪のせいか白々とした明るさがあった。まるで映画館のスクリーンのようであり、彼らの居るこの部屋は観客席のようにも見える。
「やっぱり、雪国の寒さは違うね」
 肉や付け合わせを、ナイフとフォークで丁寧に切り分けながらドクターが言う。シルバーアッシュは、小ぶりな唇がこまやかに動くさまを、じっと観察していた。
「部屋は暖房で暖かいんだけどね、外からいったん帰ってくると、手指がまだかじかんでるような気がしてくる。私がまだ慣れてないだけかな」
 皿にうすく脂が残っている。淡い色をした大きな目が、その油膜をじっと見つめていた。自分には感じ取ることのできない何かを、その目が覗き込んでいるような気がして、シルバーアッシュは焦燥感を覚える。
「寝る時も冷えるか」
「少し」
 シルバーアッシュも、幼少の頃にその覚えがある。ベッドにもぐりこんでしばらくすると、毛布の中で手足がすうすうしてくるのだ。その頃は暖房機器なんてものはなく、けれど彼が寝る直前まで、使用人が暖炉に火を焚いて部屋を暖めてくれていた。当時の彼は華奢で、指先はマッチ棒のようだった。寒さを覚えるのはきまってそういう体の末端で、ドクターの痩せた体はあの頃の自分と似ている。そのせいかもしれない。シルバーアッシュはそう考えた。
「あとでお前の部屋に行って、手足をさすってやろうか」
 親にしてもらっていたことを思い出しながら、シルバーアッシュは言った。口にした直後に、メイドにやらせると言った方が他意なく思えたかもしれないと気づいた。
 ドクターの返答を待つ。しかし彼は何も言わなかった。彼はちょうど料理を口に運んだばかりだったようで、頬が咀嚼のために動いていた。返事が無いのはそのためだ、と分かっているのに、この静寂の長さが異様なものに思えてくる。食べている間、ドクターの目はシルバーアッシュのことを凝視していた。まるでこちらを捕食しようとしている者の様子を、慎重に窺っている小動物のように。シルバーアッシュは妙な汗をかいた。長い沈黙が部屋に落ちていた。ドクターは食べ物を嚥下した後に、ようやく言葉を返した。
「必要ないよ」
 そうして、何事もなかったかのように食事を再開する。ナイフとフォークを手繰る動きに、少しも動揺が見られないのを見て、シルバーアッシュは内心安堵していた。

 その日の晩、シルバーアッシュはドクターを組み敷く妄想をした。特に艶かしい意味合いではない。最初に、あの細い腕を乱暴に掴んでシーツに縫いつけた。ドクターが息を呑む。抵抗のために、腕に力が込められる。それでもシルバーアッシュにとって押さえつけるのは容易かった。自由な足をばたつかせたり、身をよじったりするドクターの、呼吸が徐々に荒くなり、肌に汗が浮かんでいくのが見て分かる。それを見下ろしながら、シルバーアッシュは異様な興奮を覚えていた。その興奮も全て、妄想の中にあるかりそめのものであったが。

 翌日、昨日の吹雪が嘘だったかのように外は晴れていた。ひと晩かけて積もった雪も、この天気でいくらか溶けるだろう。ドクターを連れて車でイェラグ中を観て回ったあと、屋敷に戻ってくる頃にも、まだ日は照っていた。車から降りたドクターの、細い指先にも日差しが吸い付いている。
 部下に車を片付けさせている間、ドクターが屋敷の外玄関にぼんやりと立っているのをシルバーアッシュは目にした。こちらに背中を向けて立つ彼の、ちょうど真上に巨大なつららがある。それを見上げているらしい。明らかに危険だった。いつ下に落ちてくるかも分からない。特にこんな暖かい気候の日には。
「ドクター」
 そう呼びかけながら近づくも、本人は微動だにせずつららを見上げている。
「頭から貫かれたいのか?」
「危ないのは分かってるよ」
 そう言いながらも、ドクターはやはりそこから移動するそぶりを見せない。つららはいくらか溶けかかっているようで、沁みだした氷水が先端に向かって、緩慢な動作で表面を伝っていく最中だった。それを熱心に観察する姿は、どこか子供じみている。
「中に入っていろ」
 そう背を押してやると、ドクターはしぶしぶ屋敷の中に入っていった。シルバーアッシュの片目に冷たいものが走る。つららの先端から垂れた雫が、まぶたに落ちたようであった。

「今日、君の寝室に行ってもいい?」
 夕食後、ドクターのその言葉を聞いて、シルバーアッシュは自分の耳を疑った。だからこそ、続きを聞いて、安堵すると同時に落胆もした。
「手が冷たくて、やっぱり温めてもらいたくなったから」
「ああ」
 平静を装いながら頷いても、動揺はまだ胸に残っていた。夜になって、ドクターが部屋にやって来た時、胸中のざわめきはより強くなった。
 ドクターはまるで子供が着るようなパジャマを身に着けていた。細い手足と薄い胸にすんなりと馴染んでいて、しかしそれが余計に痛々しく、同時に艶めかしくもあった。手首の内側に走った静脈が、残像のようにシルバーアッシュの目に焼き付く。
「どこが冷えている?」
「あれは嘘」
 予想外の返答に、シルバーアッシュは目を瞬かせた。呆けたような顔をする家主を気にせず、ドクターはさっさとベッドに腰を下ろした。
「一緒に寝ていい?」
 それは質問というより、確認に思えた。買い物かごにお菓子を放り込みながら、「買っていい?」と親に尋ねる子供に似ている。心持ち上目づかいになりながら、こちらを見上げる様子に「魔性」の文字が頭に浮かびそうになる。「なぜ最初からそう誘わなかった?」「嫌がるかと思って」嫌がるわけがない。そう返しそうになるのを飲み込む。
「くっつかせて」
 シルバーアッシュがベッドに入ると、ドクターはすぐさま近寄ってきた。ちょうどシルバーアッシュの胸に横から頭を押し付けるようにして、ぴったりとくっついてくる。毛布が完全にドクターの頭を覆ってしまうため、息苦しいだろうと思いずり下げようとすると、逆に嫌がられた。胎児のように身を丸めて、体の横に張り付いているがために、猫と添い寝しているような絵面だった。しかしこれが猫ではなく、人間であることをシルバーアッシュは理解している。自分が毎晩のように殺している相手であるということも。
 ほどなくして、ドクターが寝息を立て始める。その呼吸は宙に霧散せず、閉じられた毛布の中を滞留して、シルバーアッシュの体に絡みついているような気がした。彼がベッドを見下ろすと、毛布越しのドクターの体が、呼吸に合わせてゆるく上下している。その毛布の揺らぎは、妄想の中には存在していなかった。ベッドの中でドクターを殺したことなど、何度もあったはずなのに。ドクターの寝息も、くっついた時の体温も、シルバーアッシュは知らずにいたのだ。
 その日、妄想の中でシルバーアッシュはドクターを殺さなかった。

 今日もまた、イェラグは晴天だった。靴裏に、シャーベット状に溶けた雪の感触が伝わってくる。ドクターさまがお日さまを連れてきてくださってるんですよ、と部下の誰かが言う。そうかもしれない、とシルバーアッシュは思った。そういえば、と思い立つ。あのつららを、ドクターが外に出る前に落としておかなければならない。それを部下に伝えようとして、玄関を振り返った彼の目に、既視感のある光景が飛び込んできた。
 ドクターが立っていた。あの、大きなつららの真下に。昨日は、こちらに背中を向けて立っていたのに対し、今は真正面からシルバーアッシュを見つめている。シールド越しに、その表情は分からない。けれど彼は、わざとそこにいるように思えた。シルバーアッシュをからかうために。向こうから声をかけられるのを待っているように思えた。
 シルバーアッシュは口の端をわずかに吊り上げながら、ドクターのもとへと近寄る。
「ドクター」
 そう声をかけたが、ドクターは微動だにせず立っている。ほんのわずかに、首をかしげたように見えた。
「昨日も、」
 そこまで口にして、手を伸ばした瞬間だった。透明な矢が視界を裂いた。鼻筋の真横、目元の近くに火のような熱を残して、何かが足元へ落下した。つららが落ちたのだ。そう理解したのは、地面に散らばる氷の残骸を見てからだった。
 ガラス片のように光るそれが、革靴の上に散っている。ドクターも同じようなもので、防護服の裾から足先まで氷の粒が付着して、そこに日差しが張りついている。氷のふちに虹が溶けだして、ぞっとするほどきれいに見えた。
 鼻先をつららが掠めたというのに、どうやら無傷らしい。自分の頭上に刺さっていたかもしれないのに、声ひとつあげずにこちらをじっと見つめている。色の薄い目には、何の感情も浮かんでいない。
「痛そうだね」
 読み上げるようにそう言われて、なにが、と返そうとしたシルバーアッシュは、濃い鉄錆のにおいを感じ取った。それと同時に、鼻の真横を生温かい液体が垂れていく。手の甲で拭うと、泥水のようにぬるついていた。赤く汚れた手を見て、それが血だと理解する。つららの切っ先が、浅く傷をつけたらしい。拭っても、また溢れ出した血が顔を伝って、口の中へ流れ込んでくる。
 ドクターが、つま先立ちをして、その手をシルバーアッシュに伸ばす。白い指が、血を拭った。その指を舐め取る。小さな舌の上に、血の色が移った。
「気をつけなきゃね」
 子供に言い聞かせるような声で言った後、彼はシルバーアッシュを通り過ぎ、ゆるやかな足取りで彼の背後へと向かう。音を聞いて駆けつけてきた使用人に、シルバーアッシュの手当てを頼んでいるらしい。
 天罰、という単語が彼の頭に浮かんだ。つららが落ちてから状況を理解するまでの、シルバーアッシュの表情の変化を、どんな気持ちで彼は観察していたのだろう。頭の中で何度も殺してきたことを、見抜かれていたような気がした。
 口の中で血の味がする。ドクターの舌の上にも、同じ味が張りついているのかと思うと、シルバーアッシュの中に異様な興奮が生まれていた。