都心のマンションから、のどかな住宅地のアパートに引っ越してきたことについて、特に大きな理由なんてなかった。女の子を連れ込みすぎて、危ない思考回路の子に刺されかけたというのもあるし、ご近所との心温まるやり取りを期待していたというのも勿論ある。けれど、副産物というべきか。予想していなかったことに執着する羽目になるとは、未だに信じられないような気がした。
夜十時。毎晩この時間に外に出て、たばこを吸うことが習慣になっている。夜の外気は昼間のそれより澄んでいて、土や草木の匂いがいっそう濃くなる。その中で吸っていると、より明確に実感できるのだ。たばこの匂いも、煙を吐き出す感覚も。
電柱にもたれかかったまま、ぼんやりとたばこを吸い続ける。そうしていると、不意に向かいの家の玄関が開いた。
「あ」
顔をのぞかせた若い男の子が、俺を見て軽く頭を下げた。真木あきらくん。あきらは確か、水晶の晶。部屋着の上に薄手のパーカーを羽織っただけの姿で、礼儀正しく「こんばんは」とあいさつする。
「夜遊び?」
そう訊ねると、彼ははにかむように笑いながら「違いますよ」と首を振った。
「コンビニに。レポート印刷しようと思って」
「へえ」
また一口たばこを吸う。ここで会話を終わらせても良かったけど、なんとなく彼と離れがたくて、意味のない質問を付け加えた。
「学校にはないの?コピー機」
「あるにはあるんですけど、いつも混んでるし、午前中に提出なので、朝にバタバタしたくなくて」
夜の空気は海のような色をしている。彼の手足まで青く染まっていきそうなほどに。
「何歳だっけ」
「二十一です」
二十一歳。その数字が生々しく頭の中に浮かび上がる。もし自分が「ご近所さん」でなかったら、この子はこんなに軽々しく年齢を教えたりなんてしなかったんだろうな。
「気を付けてね」
「はい」
遠ざかっていく後ろ姿。振り向かないかな、と内心念を送ってみる。
(二十一歳か)
あの子、もうセックスは経験したのかな。自分がそのくらいの時は、もう野外でもしていたと思う。あの子の服の下を想像する。毛も生えていないような気がした。
どんな女性が好みなんですか。そう聞かれるたびに「ちやほやしてくれる子」だと答えていた。嘘ではなかったと思う。顔が整っていることも、人より頭が良いことも自覚していたから。そこを褒められると、自分の価値を認めてもらえたようで気分がよかった。若い女の子に熱い視線を送られるのも楽しかったし。でも、いま俺が気になっている子は、若い女の子ではないし、もっと言えば俺をちやほやしてくれなさそうだった。
お向かいに住む大学生の男の子を好きになるなんて、冗談だと思われるかな。独身で子供がいないから、父親みたいな気持ちで可愛がってるだけだろう。そう言われてしまいそうだ。でも、普通世の中の父親というものは、息子がセックスしている姿を想像しないんじゃないかと俺は思う。
「高校の時って、ブレザーだった?」
助手席に座る彼にそう訊ねた。夕方。車で帰る途中、同じように帰宅途中の彼とばったり会った。せっかくだからと、拾って家まで送り届けている最中のことだ。背負っていたリュックを膝の上に置いて、両手で抱きしめているのがたまらなく可愛かった。
「いえ、学ランでした」
「へええ。いいね。似合ってただろうな」
画像とかあったら今度見せてよ。そう言うと、隣でくすくす笑いだすのが分かった。
「なに?」
「いえ、フィガロさんってちょっと変わってるなって」
「そう?」
「そうですよ。普通そういうのって、きれいな女の人とかに言うことじゃないですか」
その言葉に、なぜか胸がどくりと鳴った。理由もわからないまま、心臓がばくばくと早鐘を打つ。
「……別に、そう変なことでもないと思うよ」
絞り出すようにやっと言えたのがそれだけだった。けれど彼は、特別不審に思った様子もなくこう続ける。
「ああ、でも、そうですよね。今は性別とかあまり関係ありませんし」
俺が言いたかったのは多分そういうことじゃない。世相とか性別とかじゃなく、俺が君を「そういう目」で見ることはそんなに不自然なのかなって、そういうことを聞きたかった。実際は、当たり障りのない冗談を口にして、彼を笑わせるだけだったけど。
夜、いつものように外でたばこを吸っていると、この前みたいにあの子がお向かいから出てきた。
「家出?」
「おつかいですよ。お父さんのビールが切れてたので」
からかってみても、最近はあまりうろたえてくれなくなった。寂しいなあ、と思うのと同時に、ふつふつと興奮している自分に気がつく。俺と関わっていく中で、彼の振る舞い方が少しづつ変わっていったのだとすれば、それはひどくたまらない気がした。
「お供しようか」
「いいんですか?」
「君は可愛いから、襲われないか心配になっちゃうよ」
「あはは」
夏が近い。あと一か月もしないうちに、蒸し暑い夜を迎えることになるのだろう。隣を歩く彼は、ゆったりとしたTシャツとズボンを身に着けている。汗をかいたこの子が、肌にTシャツを張り付けさせてる姿を想像した。
ぽつぽつとお喋りしながら夜の住宅街を歩く。ふと、彼の視線がこちらに注がれていることに気が付いた。
「どうしたの」
聞くと、彼はにっこりと笑った。びっくりするほど愛くるしい顔で。
「きれいですね、それ」
視線の先には、たばこの先端があった。青い空気の中でぽつりと赤い。ぼんやりと、小さな火の玉のように光っている。彼の顔を見ているだけで、喉が急速に渇いていくのを覚えた。指で挟んだたばこを、彼の方へ差し出す。
「吸ってみなよ」
彼は少し寄り目になって、目の前の吸い口をきょとんと見た。さっきまで俺が咥えていたそこを。
たどたどしい手つきでたばこを受け取る。薄い唇が、吸い口を咥えた。す、と音も無く彼の胸が浅く上下する。むせこむだろうな、と正直俺は思っていた。しかし意外なことに、彼はせき込むことすらしなかった。ゆったりと、煙が口から吐き出される。肺まで吸い込まず、きちんと口内に溜めたのだろう。俺はなんだか、打ちのめされたような気持ちでそれを見ていた。
「……慣れてるんだね」
視線に気が付いた彼が、照れ臭そうに笑う。
「全然ですよ。久しぶりなのでドキドキしました」
「誰かに教えてもらったりとかした?」
「まさか!」
慌てて首を振る姿に、見慣れたいつもの彼だと安堵する。
「……吸ったことないのかと思ってたよ」
たばこを受け取りながらそう言うと、彼は一瞬だけ誤魔化すように視線をななめ上に向けた。そして一瞬のまの後に、少し声を潜めて、内緒話をするように、どこか楽し気な顔でこう言った。
「高校の卒業式の日、はじめてたばこを吸ったんです」
「そつぎょうしき」
「はい。友達が、箱ごとたばこを持ってきて、ふたりで一人一本ずつ吸いました。化学準備室にこもって。友達も初めて吸うんだって言ってて、二人ですごくドキドキしてました。結局、俺はあれっきりたばこを吸わずにいたんですけど」
一つずつ思い出しては、噛みしめるようにして、彼はそれらの記憶を口にしていった。どこか夢見るような、高揚した表情で。俺は喜ぶべきだったんだろう。秘密を共有してもらえたことを。彼の両親ですら知らないようなことを。俺に教えてくれたのだから。
でも、いま俺の胸を満たしているのは、目をそらしたくなるほどみじめな気持ちだけだった。例えば、俺はその卒業式の日が、どんな天気をしていたのかも、彼らの間にあった空気がどれだけ親密だったのかも知らない。相手の子の顔も名前も。俺はこれから先知ることはないのだ。彼らが制服の胸ポケットに着けていただろう、卒業生のコサージュがどんな色をしていたのかも、俺は想像すらできない。
隔たりを、見せつけられたような気がした。胸が押しつぶされたかのように苦しい。長くなっていくたばこの灰が、視界の端に映る。それを他人事のように思いながら、自分の口が勝手に動き出すのを感じた。
「ねえ、晶くん」
「はい」
「セックスはもうしたことある?」
丸い目が、俺をひたと見つめたまま固まった。透き通った目だ。そこに感情の波は見当たらない。何を言われたのか、まだ呑み込めていないのかもしれない。
「俺はね、中学の頃にはもうはじめては済ませてたんだけど」
失敗した、と思った。多分本当は「彼女はできた?」とか「好きな子はいる?」とかそういう聞き方をするべきだったのだろう。そもそもとして、俺は彼から何を引き出したくてこんなことを口走ったのだろう。
彼は未だに、静かな、穏やかな目で俺を見ている。嫌悪さえ微塵も見せないまま、彼はゆっくりと口を開いた。
「どうしてそんなこと聞くんですか?」
「どうしてって」
そんな、理由なんて要らないだろう。それとも、三十二歳の男が大学生に貞操を聞くのは、理由がなきゃ駄目だっていうのだろうか。こんな、子供の癖に。なにか、言いようのない苛立ちが胸に積もっていった。灰皿に溜まる灰みたいに。あと数秒でも遅ければ、こわい言葉を口走っていたかもしれなかった。それを、この子の声が遮った。
「……もしかしなくても、俺のこと、困らせたかったんでしょう?」
それは、小さい子供を諭すような、ひどく優しい声だった。
「……そうかも」
「やっぱり」
そう言って彼は一気に表情を崩した。眉が八の字になって、困ったような笑顔になる。普段は幼く見えるこの子が、どうしてか今この時だけは俺よりずっと大人びているように見えた。
「フィガロさん、いつもは優しいのに」
「それは、優しく見せてるだけだから」
「知ってますよ」
「え」
「本当はちょっと意地悪で、よくばりな人なんだろうなって、何となく分かっちゃいますもん」
「……ひどいなあ」
本当にひどい。だって、ちょっと意地悪でよくばりだなんて、可愛い言い方をするのはひどいよ。いや、ずるいと言うべきなのかな。小さな笑みを描いた彼のくちびるに、自分の指をねじ込みたくて仕方がなかった。
「すみません、でも、ええと」
「なに?」
「聞いても変に思いませんか?」
律儀なのか焦らし屋なのか、生真面目にそう聞く彼に「教えて」と促した。
「俺、そんなフィガロさんに優しくされるのが、けっこう好きなんです」
「…………」
多分、俺が反応するまでに一瞬のまがあった。
「ねえ、もしかして、期待しちゃってもいいってこと?」
「何がですか?」
不思議そうに目を瞬かせる。その質問には答えないまま、彼の手に指を絡めた。あたたかい手だった。彼は特に抵抗することなく、弱い力で指を絡め返す。傍目からは、手を繋いでるというより、繋いでた手が解けかかっているような感じになった。
「あの、俺、そんなに子供じゃないですよ」
「知ってるよ。二十一歳でしょ」
「あと、さっき言ってた期待って……」
「着いたよ。コンビニ」
ほら、と俺が指し示した先で、コンビニが静かに佇んでいた。夜の中で、ぼんやりと白く光りながら。深夜だというのに駐車場にはいくらか車が停まっていて、客がちらほらと店内に入っていく姿も見える。
「行ってきなよ。俺は外で待ってるから」
手を離す。あっさりと解けた指先には、彼の体温が残っている。
「戻ってきたら、さっきの続きを話してくれますか?」
「あはは。こだわるね」
「だって、大事なことみたいにずっとはぐらかしてるから……」
大事なこと。確かにそうだね。君の裸体を想像してるよなんて言わなければ、俺は君の中で「ちょっと意地悪でよくばりで、でも優しくしてくれるご近所さん」としてずっと好きでいてもらえるわけだ。生ぬるい安全圏で。
「……聞いても変に思わない?」
「ふふ、俺の真似ですか?」
「うん」
「変に思いませんよ」
「じゃあ、帰る時に教えてあげる」
ほら、おつかい早く済ませなきゃ。そう言って彼をコンビニの中に急かした。
どうしよう。教えようかなはぐらかそうかな。もしあの子に引かれたとして、あそこに住み続けていられる図太さなんて無い。そうなったら会社近くのマンションに出戻りしちゃおうか。片思いで玉砕して都心のマンションに引き返す。安っぽいJ POPの歌詞みたいでいいかもしれない。もしくはストーカーにでも転身するか。男子大学生、商社勤めの男にストーカー行為受ける。ネットニュースになって特定されて、あの子に一生恋人ができなくなればいい。
馬鹿馬鹿しい。長く伸びたたばこの灰を、コンクリートにはたき落とす。靴裏で灰を擦り広げた。もうすぐあの子が帰ってくる。自分を性的な目で見てる男のところに。