多分、前兆はいくらでもあったのだろう。ただ、ここに住む魔法使いの全員が、それを見過ごしていたというだけで。賢者の中で不安の種が徐々に育っていくのを、フィガロを含めた誰もが気付けずにいたのだ。
「きれいな夜だね」
 美しい装飾のされたティーカップを手に、フィガロはそう口にした。深夜、彼の私室の中で、フィガロと賢者はお茶を飲んでいた。フィガロは椅子に、賢者はベッドに腰掛けて。
 カーテンの無い窓からは、海の底のように青い夜空が覗いている。ティーカップの中はあたたかなミルクティーで満たされていて、角砂糖を二つも入れたそれはきっとひどく甘いのだろう。
「朝が来ても、このままずっと二人きりで入れたら、俺はすごく嬉しいんだけど」
 フィガロはにこやかにそう言った。その言葉に嘘はなかった。茶化すような声を意識的に出してはいたが、本当にそうなればいいとさえ思っていた。賢者と二人きりになった世界でなら、自分はもう傷付かずに済む。錯覚だと理解しながらも、そう思ってしまうのを止められなかった。
 空気が歪んだのは、その瞬間だった。耳障りな金属音が、賢者の手の中から上がった。カップとソーサーが擦れ合う音だ。
 賢者がしゃくりあげるのと、フィガロが異変を感じ取るのはほとんど同時だった。賢者の手からカップとソーサーが滑り落ちる。床の上で粉々に砕け散る前に、フィガロの魔法がそれを受け止めた。それらがテーブルの上に運ばれる頃には、賢者は両手の手の甲で盛んに目元を拭っていた。
「賢者様」
 そう呼びかけられ、賢者の肩が大きく跳ねる。お行儀良くベッドに腰掛けていた彼は、今や怯える子供のように、背中を丸めて縮こまっていた。
「ごめんなさい」
 濡れた声で賢者が謝る。なにが、とフィガロが問いかけても「ごめんなさい」と繰り返すだけだった。フィガロが椅子から立ち上がり、賢者のそばへ近づく。
「謝られるようなことはしてないよ」
「違うんです」
 賢者がまたしゃくりあげる。両手で目元を隠してはいたが、そこから零れていくものは隠せていなかった。
「嫌なことがあったわけじゃないんです。本当に。何でもないんです」
「そう」
 分かってるよ、と本当はそう言おうとした。けれどこういう時、理解者らしい振る舞いをされたところでちっとも慰められないのを、フィガロは経験則から知っていた。
 フィガロが賢者の手首を掴む。顔を隠す手を引き剥がそうとしたのだ。賢者が大きくビクついて、より身体をこわばらせる。手に込められた力は、普段のフィガロからは想像もつかないほど強くて乱暴だった。
 手を引き剥がそうとしたのは、賢者を慰めるためではなかった。
(見てみたいな)
この子の、泣いてる顔。フィガロはそう思った。内側から突き上げてくるような衝動と共に。
 性欲。多分言葉で表すなら、それが一番適しているのだろう。彼は興奮していた。形容しがたいものがフィガロの胸に満ちていく。
 賢者の顔を覆う指先や、柔らかそうな髪の隙間から、赤く染まった頬や耳が見える。汗ばんで、見るからに熱く湿った肌。フィガロは、排泄や性交に並ぶ、秘すべき行為を見せつけられているかのような気がした。
 フィガロは自身の乱れていく意思や感情を自覚し、けれどそれをコントロールすることはできないと感じた。手首を掴もうとしていたのをやめて、賢者の頬を包み込む。
「聞きなさい」
 フィガロは言った。静かな声だった。しゃくり上げる賢者の甲高い声とは、明らかに違う種類のものだった。賢者が身を縮こませる。怒られると思ったのかもしれない。いま彼の胸にあるのは「恥ずかしい」という思いと「迷惑をかけたくない」という事ばかりだった。
「恥ずかしがらなくていい。変なことじゃない」
「…………」
「欠伸をするのと一緒だよ。君の体がそうしたいと考えて、実際に欠伸が出ただけだ。それと、何も変わらない」
「…………」
「見せてごらん」
フィガロの目の前で、おそるおそる、両手が膝に下ろされる。幼子のような目と視線がかち合った。涙で濡れて束になったまつ毛や、潤んで輪郭の曖昧になった瞳。手に触れる頬は、驚くほどに熱く湿って上気している。賢者の目から溢れ出す涙が、フィガロの指先を濡らしていった。
「いい子だ」
 それを聞いた途端、賢者の顔がぐしゃりと歪んだ。涙をせき止めていた何かが決壊したのか、きつく閉じられた両目から、さっき以上にぼたぼたと涙が溢れ始める。幼げな輪郭をした頬が、涙の跡を赤くつけていく。
「声を出してもいいよ」
 フィガロはそう言ったが、賢者はどこか頑なな様子で首を左右に振った。口を固く結び、それでも何度かしゃくり上げながら、頬を濡らしていった。誰も口を聞かず、慰めの言葉も無い時間だったが、二人のどちらもそれを気まずいとは思わなかった。
 不思議なことに、賢者はフィガロに「許されている」ように思えていた。泣いた分だけ安堵を得られるような気さえしていた。本当にそうなのかを考えるのは、熱く火照った頭では難しかった。
 フィガロが賢者の頬を拭う。セックスの時、この子はこういう顔をするのかな。そう思いながら。乾いた手のひらの感触は、思いのほか賢者を安心させた。尽きようとしていた涙が、呼び水のようにまた次から次へと溢れ出していく。
 可愛いな、とフィガロは思った。もし今ここで、自分が勃起したペニスを目の前に突きつけたら、この子は悲鳴をあげて逃げるだろうかと考えていた。