晶は教材を胸に抱いて、人気のない廊下を歩いていた。窓から差し込む夕陽で、廊下の隅々まで赤く染まっている。
赤々と燃える落日は、見ているだけでどこか感傷的な気分になってしまう。それに呼応するように、晶はこの学校に赴任してきたばかりの頃を思い出した。
新任教師として一番最初に勤務するのが県一番の不良校だと分かった時は、あまりの不安に食事も喉を通らない日々が続いたものだ。それでもこの高校に勤めて一年は経とうとしている今、晶は何とか平穏な日々を送ることができている。週に一度は窓ガラスが割れるのが当たり前の高校ではあるものの、生徒は気安い子が多い。不良というものは皆反抗的だが、一度身内認定した者には優しい。生徒達にとっての「身内」に上手く滑り込めたことに、晶は今更ながら安堵する。夕陽をぼんやりと眺めながら、今日は早めに仕事を切り上げてしまおうか、と思ったその時、晶の懐からLINEの通知を知らせる音がした。
晶は廊下の隅に寄り、ポケットからスマホを取り出す。教材を抱え直しながらLINEを開くと、それは教え子であるミスラからのものだった。本来ならば生徒とLINEを交換してはならないのだが、ミスラを含めた三人組に嵌められて、こうして友達登録をしてしまった。三人組とは、この高校でも悪名高いブラッドリー、オーエン、ミスラのことである。ある日、その三人が職員室までやって来て、オーエンが授業で分からなかったところを聞きに来たのだ。晶は感激して丁寧に教えてあげたのだが、その背後でミスラとブラッドリーが机上に置いていた晶のスマホを拝借し、こっそり弄っていたのである。三人とLINEで繋がっていることに晶が気づいたのは、帰りの電車の中だった。
指先を夕陽で染めながら晶がトーク画面を開くと、ミスラからのメッセージが表示される。しかしそのメッセージがどうもおかしい。「あきら」という一言だけが書かれており、それからは画面外にまで伸びるほどに、改行が続いている。晶は首を傾げながら、続きを読むためにひたすらスワイプを繰り返す。どれだけ画面を下りていっても、改行が終わる気配は無い。もしかして、何かのバグなのだろうか、と晶が諦めようとした時、ようやくメッセージの一番下に辿り着いた。目を凝らし、その短い一文を目でなぞる。
「ばーか」
その言葉の意味を考えるのに気を取られて、晶は背後から近づいてくる足音に直前まで気がつかなかった。そして振り返ろうとした矢先に、背中から勢いよく突き飛ばされる。
「ギャッ!?」
晶の手から教材が舞う。バランスを崩した晶の視界に床が迫りくる。痛みを予期してギュッと目をつぶったが、衝撃はいつまで経ってもやって来ず、代わりにふわりとした浮遊感に全身が包まれた。腰には誰かの両腕が回され、背中は椅子の背もたれのようなものに支えられている。背後から誰かに抱きかかえられているのだ、と気が付いたものの、抜け出そうと抵抗する前に手近な教室に連れ込まれた。
周囲に散らばる複数の足音と、ドアが叩きつけるようにスライドされる暴力的な音。激しく回る視界と、バクバクと鳴る自身の心音。夕陽に照らされていた廊下と違い、カーテンを閉め切った教室はひどく暗い。晶の体がぐらりと傾いて、床に叩きつけられる。しかし体を襲う衝撃は、思ったよりも柔い。視界が不自由な中で、手探りで体の下に敷かれたものを確かめると、どうやらそれは体育用のマットのようだった。呆然とする中で、背後から聞き慣れた声が響く。
「ねえすごい暑いんだけど」
「誰かに見られてねえだろうな」
「見られてても良くないですか?」
冷水を被ったかのように、全身から冷や汗が吹き出していく。晶の脳裏に、この高校で日常のように行われる暴力行為が浮かび上がる。硬直していると、肩を掴まれ無理やり振り向かされる。そこに居たのは、こちらに覆い被さるミスラと、教室の入り口近くに立つオーエンとブラッドリーの三人だった。
「なに、なんで……」
「助けを呼ぼうとか、考えないでね」
そう言ったオーエンの声は、氷のような冷たさがあり、それだけで抵抗する気力が削ぎ落とされるのを晶は感じた。その横で、ブラッドリーは教室のドアに嵌め込まれたガラス窓に布を押し当てている。
「おいオーエンそっち押さえろ。ピンで留めるから」
「それ必要?ここの前で僕たちが駄弁ってたら良いでしょ。そしたらみんな避けてくから」
「馬鹿野郎。先公に見られたら終わりじゃねえか」
そんなオーエンとブラッドリーの会話を背後に、ミスラがシャツのボタンを一つずつ外していく。白いシャツから露わになった胸元が、薄く汗ばんでいるのを目にして、晶はぞわりとした悪寒が背中を駆け上がるのを感じた。自分がこれからされるのであろう、明らかに常軌を逸した行為を想像し、興奮するより先に恐怖が胸を迫り上がる。
「なんで……、やだ……」
「なんでって……、好きだからに決まってるでしょう」
ミスラはきょとんとした顔でそう言った。シャツをはだけさせ、ベルトを緩めた姿で浮かべているとは思えない、あどけない表情だった。そして次の瞬間、目元を緩めて憐れむように微笑む。
「あなたって、大人の癖に何も知らないんですから」
覆い被さったミスラの影に、晶の全身が包まれる。捕食対象を見つけた猫のような仕草で、ミスラの両手両足が晶の体を閉じ込める。細められた緑色の目は爛々と光っていて、その言葉通り、晶の知り得ない様々な感情を、ミスラは既に経験し尽くしているのだろうと思った。
「教壇に立つあなたを見るたびに、ずっと思ってたんです。あなたが知らないようなことを、俺が教えてあげようって」
ミスラの薄い唇が開かれて、赤々とした舌が現れる。晶の下半身に固く膨らんだものが押し当てられて、晶は目を向けずともその正体を理解してしまった。晶の体を、甘やかな震えが駆け巡る。それが恐怖によるものか、それとも快感を期待してのものなのか、晶本人でさえ分からなかった。
「オーエン……っ、ブラッドリー……っ!」
震える喉を叱咤し、声を絞り出すも、二人が口にしたのは晶への返答ではなかった。
「お礼、忘れないでよね」
「じゃ、仲良くやれよ」
終わったら呼んで欲しいと言って、二人は教室を後にしようとする。もはや抵抗する気力を無くした晶は、力なくマットに手足を投げ出すしかなかった。その手首の内側を、ミスラの指先がなぞる。その手つきはひどく優しくて、これから強姦しようとする人間のものとは思えなかった。
「あきら、名前を呼んで」
恋人同士の睦言のように、ミスラがそう囁く。彼のいう通りにすれば、おそらくミスラの中でこれが合意だと処理されるのだろうと分かっていたが、晶はその通りにするしかなかった。晶の声を聞いて、ミスラが無邪気に笑う。
「よくできました」
晶の汗ばんだ首筋に、ミスラの冷たい指先が触れる。氷のようなその体温も、おそらく交わりの果てに自分と同じ温度にまでなるのだろうと、晶は遠くなる意識の中でぼんやりと考えていた。