執着と楔

 シルバーアッシュと私は、恋人同士から友人関係に、一度だけ戻ったことがある。私の方から彼を振ったのだ。
 その当時、私たちの間に性的な触れ合いは一切なかった。口づけさえ、片手で済むほどの回数しかしていなかっただろう。もちろんそれが破局の原因というわけではない。ただ、別れを告げようと思い立ったとき、その事実が私の背を押したように思えた。まだ引き返せる。まだやり直せる。今ならまだ友達に戻れる。
「ただの友達に戻りたいんだ」
 まっすぐに、彼の目を見つめてそう言った。二人きりで、間にテーブルを挟んで、向かい合って座りながら。外は雨が降っていて、そのせいか室内は薄暗かった。
「……理由は」
 珍しく、舌をもつれさせるようにして彼はそう尋ねた。おそらく口の中は、ずいぶん渇いていただろう。「うまく言えないけれど、」と前置きをしたうえで、考えていることがきちんと伝わるように、言葉を選びながら私は続けた。
「君にはもっといい人がいると思うんだ。私なんかではなく」
 私なんかではなく、と口にした瞬間に、彼の瞳孔が縮まるのが分かった。
「うまく言えないけれど、君に相応しい人がどこかにいるような気がするんだ。パズルのピースみたいにして、誰が見ても君と結婚するためだけに生まれてきたような、理想的な人が。そして私は、それには当てはまらないと思うんだ」
 馬鹿げた理由だっただろうか。けれど私は、本気でこう思っていたのだ。別れるためにでっち上げた理由なんかではなく、こうすることがシルバーアッシュにとって最善であると思い込んでいた。
「他の誰かのために用意された席を、奪うような真似はしたくないから」
 椅子を勧められて、それが自分のために用意された物ではないと分かったとき、席を譲るのは当然だろう。収まりが悪く、座っていても妙に落ち着かない気持ちにさせるその席は、私以外の誰かのものだ。そしてその誰かは、私よりずっと真摯にシルバーアッシュを愛せると思う。
 シルバーアッシュは一瞬、呆けたように私の目を見つめ──そして何かを諦めたように、やや俯きながらこわばった笑みを浮かべた。ひっそりと、影を抱くようにして。
「お前がそう望むのなら」
「いいの?」
「お前の意思を捻じ曲げてまで、しがみつきたいとも思えない」
 口角がいびつに持ち上げられる。彼は普段からあまり笑顔を見せない人だったけれど、こんな笑みを浮かべさせたのは自分が初めてなんじゃないだろうか。
「そんな風に考えさせてしまった時点で、私はお前の男として相応しくなかったのかもしれないな」
 そう言い放った彼の姿は、この一瞬のうちに十も老け込んでしまったかのように見えた。

 そして、そんな風に別れた後──ご覧の通り、今は元鞘に戻っている。なんて馬鹿げた展開だろうと自分でも分かっていた。
 けれど仕方がないのだ。だって、別れてからの数ヶ月間、彼がロドスを訪れるたびに、私の後をついて回るのだから。飢えた獣みたいな、獰猛な目をして。
 彼からすると、私に気づかれないよう気配を殺しての行動だったのかもしれないが、私だけでなく他のオペレーターたちにまで何事かと思われるような光景だった。だから、仕方なく、そう、仕方なく元鞘に戻った。
「でも、そうなるのも仕方がなかったと思うよ」
「なんで?」
 私は少し声を張り上げながらそう聞き返した。何故ならここは甲板で、普段通りの声量では風にかき消されてしまいそうだったから。発信機に結ばれた青い布が隣ではためく。
「あの時のドクターは言うなれば、お腹を空かせた獣の前で、わざとご馳走を取り上げたようなもんなんだからさ」
「ご馳走」
 私はぼんやりと繰り返した。そう口にしてみても、少しも納得できなかった。
「多分あの社長さんからするとさ、ショートケーキのイチゴみたいにして、大事に大事に、手にとって眺めてみたり、ちょっとだけ舐めたりしてみせながら、一番のタイミングでお腹に入れようとしていたのがドクターなんだよ。どんな味がするんだろうって想像してみたり、イチゴくんからしても綺麗な皿に盛り付けられた方が嬉しいだろうなって考えたり」
 イチゴくん、という奇妙な呼び方は置いといて、私は彼の教鞭に耳を傾け続けた。
「それで、限界までお腹を空かせたオオカミから、目の前でひょいと取り上げたりなんかしちゃったらさ、より一層お腹が空くし、殺気立ってあの獲物を取り返してやるって思うんじゃない?」
「でも、彼はオオカミじゃないし、獣じゃなくて人だよ」
「それは、僕の目から見てもそうだけど」
 エリジウムは少しだけ笑った。
「ねえドクター。付き合ってすぐの頃はね、別れる事になったらどうしようなんて、誰も考えないものなんだよ」
「ふうん」
「何をしてあげたら喜ぶかなとか、これから二人でどんなことをしようとか、一人であれこれ考えて舞い上がっちゃうものなんだ。先行きの心配なんてしない時期なんだよ」
「そのタイミングで、私がシルバーアッシュを振っちゃったってこと?」
「まあそうなるね」
 私は押し黙った。その反応のせいか「やっぱり、僕って説明下手なのかなあ」とエリジウムがぼやく。
「道案内をした時も、みんなそういう反応をするんだよね」
 その言葉に、私はちょっとだけ笑って、それを見たエリジウムも安堵したように笑った。
「でもね、それくらいの目をしてたんだよ。あの人がドクターの周りをうろちょろしてた時は。飢えて死にそうなオオカミみたいにさ」

 飢えて死にそうなオオカミ、という表現は確かに当てはまっているかもしれない。そう思い直したのは、そのやり取りをしたすぐ直後のことだった。
 エリジウムとふたり並んで、甲板からロドス艦内へと向かう。その道中で、シルバーアッシュとばったり鉢合わせた。曲がり角の向こうから姿を現した長身に、ふたりの足が自然と止まる。シルバーアッシュの方もまた同じで、彼の視線がすばやく私たちの間を行き来した。眼球の底に青白い光が走ったような、獣の目を思わせる視線だった。あのつきまとっていた時も、こんな目をしていたのだろうか。
 気まずい、と思いはしたものの、なぜそんな風にビクビクする必要がある、と思い直す。別に不貞の現場を見られたわけでもないのだ。
「じゃあ、また」
 そう言って、エリジウムに片手を上げると、彼もまた「うん、じゃあね」とにこやかに言ってその場を離れる。遠ざかっていく背中が、ちょうどシルバーアッシュとすれ違う。エリジウムは軽く頭を下げた。表情までは見えないものの、おそらくいつものように、人隙のする笑顔を浮かべていたのだろう。その場に残された私は、シルバーアッシュと向かい合って「何しに来たの」と尋ねた。
「お前を迎えに来た」
 そう言って、彼がこちらの手を取る。
「約束してたわけでもないのに」
「迷惑だったか」
「うん」
 そんな風にあっさり頷いてみせても、シルバーアッシュは少しも動揺するそぶりを見せない。
「気を遣うよ。私じゃなくて、他のみんなが」
「そうだろうな」
 するりと指を絡められたので、大人しく手を繋ぐ。そのまま、私の部屋へ二人並んで向かった。
「今日も私の部屋に泊まる?」
「そのつもりだ」
「ふうん」
 私たちの姿は、仲睦まじい恋人同士に果たして見えているのだろうか? ふと、そんなことを考えた。手を繋いでいるからといって、それが仲の良さを証明してくれるわけでもない。
「じゃあ、夜は君の好きなことをすればいい。いつもみたいに」
 そう言ってみせると、シルバーアッシュは俯くようにこちらを見下ろして、わずかに微笑した。下ろした前髪のせいで目元に影のかかったその笑みは、美しいのに妙に胸をざわつかせる。私と一緒にいる時のシルバーアッシュは、ちっとも幸せそうに見えない。あの日別れ話をしてからずっと、私はそう思い続けている。

 性交は、ジェットコースターによく似ている。あっちに揺さぶられたりこっちに傾いたり、息つく暇もない状態にまでなる時もあるけど、目をつむってじっとしていれば、いつの間にか終わっているものだ。全部終わる頃には、奇妙な達成感さえある。私にとって気が滅入るのは、むしろ終わった後の方だ。生ぬるいプールから上がった直後のような、形容しがたい倦怠感に全身が包まれる。今もそうだ。水をたっぷり飲んだかのように、体が重い。どうにかベッドから這い出して、上体を起こす。
「まだ横になっていればいい」
 横からそう声をかけられて、無言で首を振った。声を出すのも今は怠かった。うつむいた視界に映る、しわくちゃになったシーツ。そのまま視線を横にスライドさせたら、彫像のような裸体が横たわっているのだろう。
 ふと思い立ち、自分の首筋の斜め後ろに触れる。自分では見えないけれど、そこには赤黒い痣があるはずだ。「ブラッドブルードにでも襲われたの?」とエクシアに訊ねられるほどの噛み痕。歯型の形に皮膚がへこんだままなのが触っていて分かる。
 これは、シルバーアッシュがつけたものだ。彼が首筋に噛みつき、痕を残す。しかも、傷が治りきる前に同じ場所に同じ傷を重ねるものだから、痣が体から消えそうにもない。へこんだ肌により深く歯を沈み込ませるので、いつか肌も血管も突き破って、私の核に辿り着きそうだとつい思ってしまう。核。それが一体なんであるのか、私にもよく分からないけど。彼の牙がそこに到達してしまえば、取り返しのつかないことが起こってしまいそうな気がした。
「痛むか?」
「ううん」
「お前の体に障るなら、さすがに控えるが」
「ケルシーが何も言わないから、大丈夫だと思う」
「あの医者が?」
 その声に、面白がっているような響きを感じて、私は彼に視線をやった。シーツに横たわり、こちらを見上げる白い顔。吊り上がった唇の端。肩も胸も分厚く、まるで別の生き物のようだと思った。実際、体格の違いを考えると、ワニや恐竜と添い寝してるのとほとんど変わらないだろうと正直思っている。
「彼女は、私の主治医だから」
 そう答えながら、へこんだ噛み痕を指でなぞり続ける。どれだけ形を確かめても、これをつけるに思い至った彼の真意は読み取れない。
「見せたのか? それを」
「嫌だった?」
「いいや」
 そして「私が犬猫なら、部屋中走り回って喜んでいたかもしれないな」と彼が付け加える。私はケルシーの顔を思い出していた。定期健診でこの傷跡を目にするたびに、彼女は不快そうに眉間に浅く皺を寄せるのだ。「私は君の人間関係にまで介入するつもりはない」と言った手前、仕方なく口をつぐんでいるんだと言いたげな顔をして。
「ねえ、シルバーアッシュ」
 灰色の目と、視線が絡み合う。
「別に無理しなくてもいいんだよ」
「……何がだ?」
「もう、別れる気はないから」
 室温が、二度も三度も下がったような気がした。失敗したかもしれない。そう思いながらも、私は続きを口にした。
「君のことは、ちゃんと好きなままだからさ」
 そこまで聞いても、シルバーアッシュは表情を変えなかった。吊り上がった口の端も、愉快そうに細められた目も、違和感を抱くほどにそのままだった。ただ、こわばったようなぎこちなさが、その目元や口元に表れていた。
 噛み痕も性交も、元鞘に戻ってから行われるようになった。別れを告げる前は、こんなこと一度としてされなかったのに。私は彼を追い詰め、何かしらを歪めたのだろうか? そう不思議に思うのは自然な流れだろう。
 しばらくの間、無言で彼と見つめ合った。先に変化を見せたのは彼の方からで、両眼がゆっくりと細められる。色の濃くなったように思える瞳に、なぜだか目を逸らしたくなる。彼が手を伸ばした。慈しむように、私の頬に添えられた。
「ドクター」
 意外にも優しげな声で、彼はそう言った。
「お前に一つ、教えてやろう」
「何を?」
 赤子をあやすような声に、足先からぞわぞわとした寒気が上ってくる。シルバーアッシュはいっそう笑みを深くした。そして、頬に触れていた手が、不意に乱暴な手つきで、こちらの顔を掴んだ。顔全体を手で覆うようにして。視界が、彼の手のひらで塞がれている。何も見えない。まるで猛禽類の爪に捕らえられた、小動物のような気分だ。顎と口元はかろうじて拘束を逃れているものの、悲鳴を聞くためにわざと自由にしたと言われても信じられそうな気がした。
「お前は気づいていないだろうが──」
 低い声が、そう囁いた。当然ながら、彼がどんな表情をしているのかも私には分からない。
「あの日、別れ話を持ち掛けてきた時と、今のお前は、全く同じ声をしている」
 私は目を塞がれたまま瞬きをした。まつ毛に手のひらをくすぐられたせいか、喉奥で笑う気配がした。
「声だけではない、その顔も目も、幼子に言い聞かせるような口調まで一緒だ」
「それがなんなの」
 暗闇に向かってそう言った。私の言動が、別れを切り出された日を想起させた? それで気分を害したならば、私は謝るべきなのだろうか。
「お前にとってはどうでもいいことだろうな」
 シルバーアッシュは、彼にしては珍しく投げやりな口調でそう言った。彼の手が顔から引き剥がされる。解放された視界で彼の表情を確かめる。さっきと大して変わらない、不敵な笑みがあるだけだった。傲慢で皮肉げで、私がどんな言葉を吐いたって傷つきもしないし、満たされもしないだろうと思わせるような。

 自分のために用意された椅子なのだと、どうして勘違いしてしまったのか。そのきっかけは今でも思い出せる。オリジニウム氷晶だ。
 シルバーアッシュの名に恥じない品を、選んで贈ったつもりだった。しかし運送の手配をした途端に、その自信が揺るぎ始めた。金に物を言わせた、下品な品だと思いはしないだろうか。まさか、あのドクターに限ってそんな風に考えたりはしないだろう。けれども、もっとさりげない物を贈るべきだったのかもしれない。もっとささやかで、ドクターの内面が揺り動かされるような。そう考えはしても、全ては後の祭りで、ロドスへ送り届けるよう任せた後だった。
 その一か月後に、ロドスを訪れた。ドクターの執務室へ向かう。ノックの後に中に踏み入った。
「シルバーアッシュ」
 甲板のオペレーターから連絡が届いていたのか、アポ無しの来訪にさして驚いた風もなかった。その声に、こちらへの態度が変わっていないことを感じて胸をなでおろす。
 彼の元へ距離を詰めるうちに、デスクの端に飾られた、あるものに目が吸い寄せられた。黒い台座と、透明なガラスケース。飾り気のないそれに閉じ込められていたのは、自身が先月贈った、あのオリジニウム氷晶だった。
「ああ、これ?」
 ドクターが目でそれを指し示す。
「君からもらったけど、使い道が分からなかったからさ、飾っておくことにした。高価なものらしいから盗まれないように台座に固定しちゃったんだけど、それくらいいいよね?」
 返事をするのも忘れて、机上に見入っていた。照明の光を受けて、それはどこか誇らしげに鎮座している。おそらく執務室を訪れたオペレーターの全員が、この氷晶を目にしたのだろう。部屋の中に、ドクターの内面を知らしめるような物は他に見当たらない。これだけだ。彼の私物と言えるものは。それが、堂々とデスクの上に居座っている。
「どうしたの」
 ドクターの声で、我に返る。フェイスシールドの奥を覗き込んだ。大きな、透き通った目がこちらを見つめている。
「楽しいことでもあった?」
 その言葉で、自分が笑っていることに初めて気がついた。
「たった今な」
「ふうん」
 よく分からないけど良かったね、とドクターが返す。
 そばにいることを許された。そんな風に思ってしまった。彼のすぐ隣に、私のための席を用意されたかのように思ったのだ。他の誰かには許されなかった場所を、自分は与えられたのだと。
 今思うと、自分がそんなにも舞い上がってしまったのは、彼の淡白さを見抜いていたからこそなのだろう。彼は誰に対しても親しげに見えて、その実誰のことも求めていないのだ。そう思い込んでいた矢先でこのことだ。彼は誰も求めていない。けれど、自分だけは例外だ。そんな見当違いな幻想をどうして抱いてしまったのだろうか。

 薄暗闇の中で、身を起こした背中を眺める。白く、ゆるやかな曲線を描いていた。
 部屋の暗さに反して、ドクターの体は淡く光を帯びているかのように生白い。折れそうに細い首が傾いて、そこにある傷跡を指先で撫でた。慰撫するような手つきだった。その光景に、思わず笑みを浮かべそうになる。たった今、自分がつけた傷だ。何ヶ月も前から、傷が消えそうになるたびにまた同じ傷を上から付け直している。赤黒く変色し、元の肌に戻ることは不可能だろう。
「痛むか?」
 そう尋ねてみたが、ドクターは首を振るだけだった。
「ケルシーが何も言わないから、大丈夫だと思う」
「……見せたのか? あの医者に」
「嫌だった?」
 嫌なわけがない。むしろ、込み上げる歓喜を抑えつけるのに必死だった。それは二人の関係性を、あの医者に見せつけているのと同じだろう。彼女に限らず、フードを外した時にギリギリ外から見える位置に付けられたそれを、多くのオペレーターが目にしているはずだ。その事実に、甘やかな興奮が胸を這い上がっていく。
 「ねえ、シルバーアッシュ」と呼びかけられて、目を向ける。白い、魔性じみた肌をしたドクターは、こちらの視線を捉えてからこう言った。
「別に無理しなくてもいいんだよ」
 何を指しているのかほとんど分かっていたのに、何がだ、という言葉が口を出た。
「もう、別れる気はないから」
「…………」
「君のことは、ちゃんと好きなままだからさ」
「…………」
 自分がさして表情豊かでないことに、今初めて感謝したかもしれない。随分と残酷なことを言われたように思えた。その言葉は、「あなたのことは特別好きでもない」と言っているのと同じじゃないだろうか。
 別に、分かってはいた。彼が誰に対しても執着を抱かない性質であるのは。最初に恋人同士になった時点で、淡白な男だとは思っていた。その頃は、誠意を持って接していればいつかは彼の方からも想いを寄せてくるだろうと、馬鹿げた誤算をしていた気がする。
 結局のところ──。
 もう何度も頭の中で反芻したことを思い返す。結局のところ、ドクターが他人に特別な好意を覚えない性質であることはさして問題ではないのだ。自分にとって重要なのは、恋人という地位を死守することだけだった。あの、一度は与えられた特別な椅子に収まり続けるのを許されたかった。
「………」
 ドクターが、不思議そうな目をしてこちらを見つめている。透明な目をしていた。悪意も嫌悪も感じられない。別れ話を切り出された時も、彼はこんな目をしていた。僅かながらにでもこちらを傷つけてやろうという意図を感じられたら、自分はあの日、ああも傷つきはしなかっただろう。
「誰かのために用意された席を、奪うような真似はしたくないから」
 この言葉をかけられてから数日経って、自分はむしろ理解した。
 ドクターが、誰に対しても執着も好意も抱かないというのなら、周囲を牽制すればいい。
 誰もその椅子に座りたがらないようにすればいいのだと。周囲に見せつけていけばいい。どんな言葉をドクターに囁いて、どんな行為をしているのか。あの椅子は奪えないと思わせてしまえば、自分の望みは達成される。
「君にはもっといい人がいると思うんだ」
 あの日、そう言われたことを思い出しては、今ならこう反論できるだろうと思う。「お前は誰を相手にしてもそう言ってみせるだろうな」と。
 誰のことも特別に想えない人間のことを、一種の病気だと断言する者もいるが、それならある一人にだけ執着し続ける自分もおそらく病気なのだろう。
「ドクター」
 できるだけ優しげな声を作り、呼びかける。彼の頬に手を伸ばした。ぞっとするほどに柔い肌。どうしてこんなにも、彼はこちらを魅了してやまないのだろう。触れた指先から、痺れを覚えそうなほどだった。
「お前に一つ、教えてやろう」
 そう口にした。今から言うことを聞いたとして、彼は微塵も傷つかないだろう。むしろ、苦痛を得るのはこちらの方だ。そう分かっていても尚、口にするのを止められない。打ち明けている最中の自分は、きっと醜いほどに顔を歪めるだろうと思いながら。