埋葬(鴎司)

アッ

と誰かが叫ぶのが聞こえた。歩道橋を歩いていた私は、思わず立ち止まり、声のした方を見てしまった。
彼らも同じようにつられたのだろう、歩道橋下の道で何人かが同じ方向を向き、硬直していた。その視線の方へ目を向けると、白い塊が道路上に転がっていた。
白い塊から伸びた尻尾と三角の耳を見て、遠目からでもそれが猫だとわかった。
猫は車に轢かれたらしい。猫の近くで赤信号でもないのに止まっていた車は、思い出したかのようにふいに発進し、猫を置き去りにして去っていった。次々にやってくる車が、猫など居ないかのように(実際、猫の存在に気づかずにいた車の方が多かったと思うが)猫を突き飛ばしていく。ドスンドスンと転がされていった猫の死体は、ようやく車に轢かれる可能性の少ない場所に落ち着くことができた。
それを機に、見守っていた通行人は一人また一人と猫から視線を外し、悪い夢を見たとでも言いたげな顔をして去っていった。私は歩道橋の上から動けなかった。歩道橋の手すりを掴み、体ごと猫の死体を向いて、ただじっと立っていた。
猫の死体は横断歩道の近くに横たわっていた。横断歩道を渡る人々は、チラチラと横目で猫を見て、しかし誰一人として猫に近づこうとしなかった。

その日は、ひどい猛暑日だった。
歩道橋に立ち尽くす私の後頭部に、髪が燃えてしまうのではないかと思うような熱さの陽ざしが絶えず降り注いでいた。歩道橋の、ところどころ塗装が落ちて茶色い地肌が見えている手すりも、鉄板のように熱い。服と肌との間に、次々と汗が浮かぶ。喉の渇きを覚えて唇を舐めると、顔に浮かんでいた塩辛い汗が舌に付着した。
私は腕時計を見た。猫が轢かれてから、すでに1時間は経っていた。その間、誰も猫に指一本触れていなかった。
私は歩道橋を降りた。他の歩行者と同じように横断歩道に並び、信号が変わると共に人の波に紛れて猫の方へ向かっていった。猫は腹から出血していたが、臓器が飛び出すほどではないようだった。そばにしゃがみこむと、獣の匂いが生ぬるい微風に乗って私の鼻に届いた。猫を抱きかかえようとした際、猫の体が道路に張り付いているかのような抵抗を感じた。おそらく、流れた血が乾いてそうなったのだろうと思った。
猫を抱える私を、通行人は化け物を見る目で見た。信号待ちをしている車の中の人々も、そのような目で私を見たと思われた。

図書館までの道は長かった。木陰や陽炎の隅に、同じような猫の死体が転がっているような気がした。
途中で、古びた中華屋とスナックの間の路地に、野良猫の溜まり場を見つけた。陽の刺さない地面に、何匹かの薄汚れた猫がぺたりと座り込んでいた。私は腕の中の猫が、この子たちの仲間であった可能性を思いつき、猫の集団に近づいた。猫の集団は、あの横断歩道にいた人間と同じように、化け物を見る目で私を見た。

私は幽霊のような足取りで、図書館の門をくぐった。玄関には入らず、図書館の外をぐるりと周り、猫を埋められそうな場所を探した。本当は、猫の体を洗ってやって、綺麗な布で包んでから埋めてやりたかった。しかし、猫の死体を文豪たちに見せるのは憚られた。もしここに来るまでに会った人々や野良猫のように、文豪にもおぞましいものを見る目をされてしまったら、私は立ち直れないだろうという気持ちがあった。
食堂に面する外壁を通り過ぎ、文豪たちの生活棟のある場所に出た。ここには、外部からの視線を遮るように背の高い木々が植えられていた。陽射しが射さなくなったことで、視界が一気に暗くなる。周りを見渡すと、建物の壁に沿うように細々とした清楚な花が咲いていた。ここには埋められない、と思った。誰も手をつけていないような場所に埋めなければいけないと思った。
ここは文豪の私室に面する外壁近くだったが、こんな暑い日には、ほとんどの文豪は涼むために食堂か談話室にいるだろうと思っていたので、私は人目を気にせずに死体を抱えて窓の並ぶ壁を通り過ぎようとした。老人のように丸められた私の背に声がかけられたのは、その時だった。

「司書殿」
久方ぶりに聞いた人の声だった。私は歩道橋で叫び声を聞いた時のように、反射的にそちらを向いてしまった。
開け放された窓から、白いカーテンが風のために溢れていた。さっきまでカーテンなど視界に入らなかったので、私がその部屋を通り過ぎた瞬間に部屋主が窓を開けたのだろうと思った。私に声をかけた人を、すぐに見つけられなかった。その人は白衣を着て、白いカーテンに溶け込んでいたからだ。
医務室の窓から顔を出し私に声をかけたのは、森先生だった。私は白昼夢を見ているような気持ちで、しばし森先生と見つめあった。そうして、彼の視線が、私の腕の中に注がれていることに気付いた時には、死体を彼の目から隠そうとしても無駄だった。
「それは、貴方の飼い猫か」
「いえ」
私は赤い血が付着しているだろう猫の傷口を、今更になって片手で覆い隠した。
「車に轢かれていたのを、見つけたんです。一時間待ったんですけど、飼い主らしい人も来なくて……」
「一時間も、貴方はその場に居たのか」
のろのろと続く私の言葉を遮るように、森先生は言った。私はその言葉を聞いて、ようやく自分が一時間も、猫が殺された現場に居たのだという奇妙な事実に気がついた。
私は私自身に困惑し、何も言えなくなった。ただでさえ、暑さで朦朧としている頭は、より一層夢の中を歩いているかのようになっていった。
「それで貴方は、その猫を埋めるつもりなのか」
「はい」
私は森先生に、猫を埋めることを反対されるだろうと考えていた。彼が泉先生にも劣らない潔癖症なのを知っていた。放置していれば、蛆が湧くようなものをどうして森先生が許容できるだろうと思った。おそらく火葬を提案されるだろうと予想していた。しかし、返ってきた言葉は意外なものだった。
「そこで待っていなさい。俺も手伝おう」
森先生はそう言うと、外へ溢れ出していたカーテンをかき集め、医務室の窓を閉めた。私は一人きりになって、久しぶりの沈黙に耳を傾けて居た。さっきまであったはずの風はいつのまにか止んでいた。カーテンがなびく音も、蝉が鳴く声も、木々が揺れる音もしなかった。私は森先生が来るまでに、足元をじっと眺めていた。

森先生が選んだのは、育ちすぎた木々のせいで巨大な影に覆われている、陰鬱とした場所だった。ここなら踏み荒らされることも無いだろうと森先生は言った。
森先生は、自分の手から肩までがすっぽりと収まるような深い穴を掘った。陽の射さない場所だからか、土は黒く、湿った匂いがした。
森先生が運んできた段ボール箱に白いタオルを敷き、その上へ猫を横たわらせた。今になるまで見もしなかった猫の顔を今初めて知った。ピンク色の鼻をした、整った顔立ちをしていた。
土をかぶせる際、森先生は段ボールの蓋を閉じようとしたが、私は開けたままにして欲しいと言った。猫の姿が見られないのはひどく嫌だった。しかし、いざ土をかぶせてみると、猫の白い毛並みが次々と濡れた土に汚されていく様は、目を背けたくなるようなものだった。
何もかもが終わった後、私はひどく汗をかいていた。土を掘ったのも土をかぶせたのも森先生で、私は何もしていないはずなのに、頭から首筋までじっとりと湿っていた。私の額を森先生の白いハンカチが拭った。
「医務室で休むといい」
「平気です」
「俺にはそう見えない」
森先生は片手でスコップを持ち、もう片方の手で私の手首を掴んだ。久方ぶりに木陰から陽の下へ出た時、ひどい目眩がした。

冷房のついた医務室は涼しかった。冷房と一緒に扇風機も回し、私に直接冷風が当たらないように調節してくれた。
無機質な灰色の机に、森先生はこちらに背を向けて座っている。一度外に出たからか、新しいものに替えられた手袋が、何かを書きつけている。具合が良くなるまでここに居なさいと言われたが、正直なところ、今すぐにでも出て行きたかった。私は来客用のテーブルにつき、冷えた紅茶を飲んでいた。森先生が淹れてくれたものだ。塩飴も一緒に貰ったのだが、食べる気がせず、テーブルの上に転がっている。
ひどく居心地が悪かった。森先生がこちらに背を向けて作業しながらも、私の様子を伺っているのを理解していた。私はここを出るためのうまい口実が見つからず、紅茶を舌の上で転がしながら、鍵のかかった薬品棚の中の、陰鬱な瓶たちや、ベッドの周りを囲むカーテンの影を眺めていた。
私は心臓の上を羽虫が這っているような、ぞわぞわとした気持ち悪さを感じていた。それは吐き気に似ていた。今まで感じたことのないような悪寒にも襲われていた。喉に何かがせり上がってくる感覚とともに、まぶたの裏にさまざまな映像が浮かび上がった。それは猫の死体を埋めるまでに、私が見ていた景色だった。白い陽射しに照らされた猫の死体と、カラー風船のように色とりどりの車が猫を弾き飛ばしていく光景と、私を見る人間や猫たちの目だった。それらが万華鏡を覗いた時のように、分裂し、バラバラに組み合わさって、私のまぶたの裏でぐるぐると映し出されていた。
私は何度も瞬きをし、目の前の秩序じみた部屋を必死に目に焼き付けようとした。白い壁に白い天井と、白いカーテンに縁取られた窓は、確かに医務室で、猫が殺された「外」と切り離された世界なのだ。
私は森先生に助けを求めたかった。しかし出来なかった。私が異常者だと知れば、森先生はどんな目で私を見るだろう。もしかしたらもうすでに異常者だと気づかれているのかも知れない。私は自分の頭がおかしいと思いたくなかった。
私は胸からせり上がってくるものを飲み込もうとした。しかし、それらを抑えていた壁は容易く決壊した。私がしゃくりあげ、顔を手で覆うと、森先生がこちらを振り向く気配を手のひら越しに感じ取った。
「森先生、ごめんなさい」
指の股を涙がこぼれ落ちていくのがわかった。
「あの猫を、掘り出してもいいですか」
「何をする気だ」
キィキィと椅子が鳴る。森先生が席を立ち、こちらへ近づいてくる足音が、嗚咽の合間に聞こえる。
「猫を、元いた場所に戻しに行きたいんです」
「元いた場所というのは」
「死んだ場所です。車に轢かれた場所です。またあそこに寝かしてあげたいんです」
私は自分の体を支えきれなくなり、椅子の上で芋虫のように体を縮こませた。すぐそばで衣擦れの音がする。森先生がそばに立っている。
「私は何もしない方が良かったんです。あのまま道路にいた方が、もっと優しい人に拾われて埋葬されたはずなんです。そうでなくても、保健所か何かのひとがきっとあの猫を私より良い方法で処理してあげていたと思います。私を見る人たちは何も言いはしなかったけど私が間違っていると目で教えてくれていたんです。それなのに私は他人からよく見られたいからとか自分のエゴのために可哀想な猫を利用したんです。猫は私に埋められたくないと思っているし今も土の中で泣いているはずなんです。だからもう一度取り出して道に寝かせてあげて最初から元どおりやり直せるようにしてあげてください。多分優しいひとが猫を拾ってくれるし、もしくはカラスか何かが猫を食べてくれます。私が埋めるよりずっといいです」
「落ち着きなさい」
顔を覆う私の手を、森先生の手が引き剥がそうとする。私は首を振ってそれを振り払おうとする。
「また元いた場所に猫を戻して、何になる。周囲の人間が、君が猫を殺したと誤解する可能性もあるんだぞ」
「ごめんなさい」
「手を離しなさい」
「森先生に、手伝ってもらったのに」
「手を離しなさい。貴方は何も間違っていない」
私はそれでも手を離さないつもりでいたのだが、私を上回る力強さで森先生は手を引き剥がした。だらだらと流れる涙を、手袋に包まれた手が拭おうとする。
「その行為が何になる。貴方が猫を埋めたことがエゴなら、今から猫を元いた場所に戻そうとするのもエゴだ」
私は白痴のように「ごめんなさい」を繰り返していた。もう、館長でも、文豪でも、誰でもいいから、私が森先生の目の前から逃げ出せる機会を与えて欲しいと思った。
口が何かで覆われる。殺される、と思ったのだが、それはよく見ると白い軍服で、私は森先生に抱かれていた。猫なんか助けなければよかった、と口にしたら、森先生は私の頬を張ってくれるだろうかと考えた。