養子を迎えるなら、互いの両親と良好な関係を築いていなければならない____。クレイグの頭の中に、想像したくもない未来が次々と浮かび上がってくる。やっと迎えた養子____息子に対して「パパ達は君を奴隷として売りたいと思ってるんだよ」と吹き込むリチャード、子供服を上から下まで買い揃え定期的に送りつけてくるリチャード、週一の頻度で息子を家に泊まらせようとするリチャード、息子にコーヒーを飲ませようとするリチャード、二世帯同居用の家を勝手に建てるリチャード……クレイグは思わずテーブルに突っ伏したくなった。本当にこのまま、リチャードの介入に耐え続けなければならないのだろうか。
「ねえ、ちゃんと口に出して要求すれば、ミスター・トゥイークだって大人しく手を引いてくれるんじゃないの?」
「じゃあお前のところも、言えばやめてくれるのか?」
「………」
明後日の方向に目を逸らすカイルに、クレイグはため息をついた。実は、カイルが口にした方法は既に実行しているのだ。2人の甘やかな同棲生活をこれ以上邪魔しないで欲しいという要求を、クレイグの乏しい語彙力をもってこれ以上ないほど具体的に口頭で伝えたことが何度もある。しかしそのたびに「遠慮する必要はないよ」「クレイグは謙虚なんだね」とかわされるのだ。あれはクレイグの気持ちを分かったうえでやっているのか、それとも心の底から勘違いをしているのか、クレイグには判断がつかない。だからこそ、リチャードは厄介なのだ。
「最終手段」
カイルが人差し指をぴっと立てた。
「カートマンに相談する」
「…………」
クレイグは思わず黙り込んだ。ここでカイルの指すカートマンとは、レイシストメタボ野郎ではなく、サウスパークの市長としての彼を言っているのだ。そう、恐ろしいことにあの悪名高い油樽は、我らがサウスパークの市長として数年前から君臨しているのだ。
「あいつ、同性愛問題については何故だか過激になるからね。君が本気で訴えかけたなら……きっとどうにかできるんじゃない?」
カイルの提案は確かに、この状況を変えるには最適な方法だった。ただ、その「どうにか」がどういう風に着地していくのか全く分からない恐怖がある。ゲイカップルに対する干渉問題について、クレイグが望むような結果を得られたとしても、おそらくそれ以外の事で大きな被害を受けることが予想できた。
しばらくの間、クレイグはカートマンにこの問題を持ちかけるか真剣に悩んだ。その間、カイルは一言も喋らずに彼の答えを待っていた。クレイグはテーブルに肘をつき、ひどく重たい頭を支えたまま、ようやく口を開いた。
「カートマンにだけは頼らない」
「それがいいと思うよ」
カイルが4杯目のいちごオレを注文するのを視界の端に捉えながら、クレイグは一口も飲んでいない自身のコーヒーの水面をぼんやりと眺めた。鼻をくすぐるコーヒーの香りに、クレイグは恋人の姿を思い浮かべる。今すぐ恋人のもとへ駆けていって、あの温かい体を抱きしめたらどれだけ癒されるだろうとクレイグは思った。
クレイグは退勤後、トゥイークを外食に誘った。今のクレイグは、とにかく何か気晴らしになることをしたかった。
車を走らせ、待ち合わせの駅へと向かう。約束の時間には、30分以上の余裕を持って着くだろう。トゥイークを待つ間、駅ビルにある本屋で特別養子縁組についての書籍を探してみようとクレイグは考えた。
クレイグが駐車場に車を停めると、ちょうどトゥイークから駅に着いたというメールが届いた。クレイグはそれを不思議に思った。トゥイークがコーヒー屋での仕事を終えた足でここに来るには、もっと時間がかかるはずだ。トゥイークは普段、車や自転車のような、自身が加害者になる可能性のある移動手段は全て避けている。だからクレイグが車で片道30分もかからない距離を、トゥイークは2倍の時間をかけて電車とバスを乗り継いでやって来ている。
クレイグが待ち合わせ場所に向かうと、そこにはちゃんとトゥイークが居た。クレイグの姿に気づいて駆け寄ってくるトゥイークに「早かったな」と声をかけると、何故か申し訳なさそうな顔をした。
「うん、パパが車で送ってくれたから……」
その時、トゥイークの背後からクラクションが鳴り響いた。目を向けると、道端に停められている車にリチャードが乗っている。リチャードは2人の視線を受けて、満面の笑みでサムズアップしてみせた。そして車を発進し、2人の前から去っていく。リチャードの笑顔を見て、クレイグは自身の顔が困惑で歪んでいくのが分かった。そしておそらく、隣にいるトゥイークも全く同じ表情をしているのだろう。ついこの間、ほとんど怒鳴りつけるような剣幕で電話を切った相手へ、あのような笑顔を見せるリチャードの心が読めなかった。リチャードにしてみれば、クレイグの激昂はトゥイークが奇声を発しているのと同じように、気にするほどでもない日常の一部なのかもしれない。2人の間に落ちた妙な沈黙を断ち切るように、トゥイークは口を開いた。
「今日はクローズ作業がすぐ済みそうだからって、送ってくれたんだ」
言い終わった瞬間、トゥイークは「アッッ!」と叫んで目を左右に泳がせる。
「ぼ、僕がパパに待ち合わせのことを話したんじゃないからね!?僕のスマホの通知をパパが勝手に見たんだ!」
「そうだろうと思ったよ」
クレイグは「ほら」と手を差し出した。トゥイークは周囲を気にしながら、クレイグの手を取る。心配しなくても、この時間は帰宅ラッシュで大勢人がいる。誰も手を繋いでいるゲイカップルに注目する余裕は無いだろう。トゥイークの体温を感じながら、クレイグはその温かさに今日1日分の疲労や困惑が、溶かされていくように感じた。
駅前には、小さな軽食屋がいくつも並んでいる。店をまだ決めていなかった2人は、それらを一つ一つ覗きながらどれにしようかと言葉を交わしていた。すると突然、トゥイークがある店を指して叫んだ。
「見て!」
トゥイークが指差す先には、とあるカフェのテラス席があった。クレイグはそこで、見覚えのある____具体的には7時間ほど前に見かけた気がする____特徴的な赤毛を見つけた。
テラス席に居たのは、あのカイル・ブロフロフスキーだった。奇妙な色のセーターを着てカフェに居るその姿は、まるで昼間の再放送のようだった。ただ一つ違うところは、カイルの頬がこれ以上ないほど紅色し、笑顔で手を振っていることだろうか。もちろんその笑みは、クレイグとトゥイークに向けられているわけではない。
そこに、ブルーグレーのスーツが驚くほど似合っている、ハンサムな男がカイルの元へやって来た。説明するまでもなく、その男はスタン・マーシュだった。スタンを前に、カイルはとろけるような笑みを向ける。昼間見たときは、ゲイ臭いとしか思えなかったカイルのセーターが、今だけは彼の上気した白い肌をよく引き立てているように見えた。
「随分ラブラブなんだな」
クレイグは口笛を吹いて「昼も夜も待ち合わせて食事するなんてさ」と言った。「僕たちも負けてられないね」と微笑ましそうに言ったトゥイークは、ふいに首を傾げた。
「お昼も2人に会ったの?」
「ん、ああ。たまたま外でな」
そういえば、昼間のことについてトゥイークに話していないのに気がついた。不用意にトゥイークを不安がらせるようなことはしたくないため、クレイグは誤魔化そうとした。何かを察したトゥイークが不審な目でクレイグを見る。トゥイークの気をそらせるような話題は無いかと焦るクレイグの前に、ちょうど良く話の種____というより騒動の種が現れた。
クレイグの視線の先で、上機嫌なカイルに対し何故かスタンはひきつった笑顔を浮かべている。その笑みの理由を探す前に、カイルとスタンの間へ人影が割って入った。
「アッッ!」
トゥイークが思わず声を上げる。クレイグは声こそ上げなかったが、おそらくトゥイークと同じくらいの驚きを感じていた。
愛らしいゲイカップルのテーブル席に現れたのは、ランディ・マーシュ____スタンの父親だった。カフェのエプロンを身につけ、慣れた手つきでトレイを片手で支えている。そういえばこの男は、スタンが小学生の頃から本業以外に細々とした仕事を転々としていたはずだ。それが金策のためなのか、それともランディの好奇心を満たすためのものなのかは部外者のクレイグには想像もつかない。
さっきまで幸福そのものといった笑みを浮かべていたカイルは、目を見開き口を開けた表情のまま、微動だにしない。あの様子だと、ランディがここで働いていることを知らなかったのだろう。
ランディはカイルの反応を気にせず、テーブルにコーヒーを置いた。そして、仕事場に来た息子たちを歓迎するような仕草を見せる。ランディの顔には、自信作を親に披露する子供のような笑みが浮かんでおり、それだけで嫌な予感がした。ランディは手品のように懐から様々な小道具を取り出す。まずコーヒーカップに橋をかけるようにしてティースプーンを置くと、その先端に角砂糖を載せた。ランディはカフェの看板の印刷がされたマッチ箱を取り出すと、勿体ぶるようにマッチをつまんで左右に振る。
クレイグはランディが何をしようとしているのか気がついた。おそらくカフェ・ロワイヤルを見せようとしているのだろう。ブランデーを染み込ませた角砂糖に火をつけて、溶けかけたそれをコーヒーに落とす飲み方だ。トゥイークに見せてもらったことがある。角砂糖に青い炎が灯される光景は、この薄暗い時間帯なら、ひどく幻想的に見えるだろう。
しかし、ランディがマッチで火をつけた瞬間、人ひとり分ほどの大きな豪炎が、テーブル上に吹きあがった。おそらく、必要以上の細工を角砂糖にしたのだろう。火は一瞬で収まったものの、カイルの前髪の一部が炎で焼き切れている。一瞬の静寂が3人を包み込んだ後、カイルが椅子を蹴飛ばしながら立ち上がった。そしてランディに掴みかかる。離れた場所にいるクレイグとトゥイークにも、カイルの「サノバビッチ!」と叫ぶ声が十分な音量で耳に届いた。何故カイルが怒っているのか理解していない様子のランディと、カイルを抑えようとするスタンといった面子の中に、飛んできた店員が加わる。カフェの中は随分と騒がしいことになった。テラス席にいた他の客が、散り散りになってカイルたちから遠ざかろうとする。
「俺たちも負けてられないな」
クレイグは笑いを噛み殺しながら、トゥイークの言葉を真似て口にした。トゥイークはそれを、何か言いたげな目をして見上げる。クレイグがカイルに対して声援代わりに中指を立ててやると、遠くからパトカーの音が聞こえてきた。カフェ内の狂乱も絶好調になっているのを見て、クレイグは何故か自身が高揚していくのを感じた。クレイグはトゥイークの耳元に口を寄せ、こう囁いた。
「今度、ハニーのパパに中指を立てていいかい?」
「僕は構わないけど、クレイグはそれだけで気が済むの?」
「いいや全然」
2人は笑い合いながら、集まってきた野次馬をかき分けて、店を後にした。
クレイグにとって問題は何一つ解決しておらず、トゥイークとの子供のためにリチャードを許容するのか、それともどうにかしてリチャードと絶縁し養子については諦めるのか、別の方法を探すのか______クレイグはまだ決断できずにいる。けれど、例えリチャードに振り回されていたとしても、先ほどのスタンとカイルのように、幸せそうなゲイカップルとして自分たちが他者から見られているのならば、リチャードについてはこの先10年くらいは我慢できそうな気がしてきた。