同棲クレトゥイ(1/3)

食品の買い出しから帰宅したトゥイークは、いつものように「ただいま」と口にしようとして、あることに気がつき声を引っ込めた。ドアに遮られた向こう側で、リビングの方からクレイグの声が聞こえる。どうやら誰かと話をしているらしい。玄関にクレイグとトゥイーク以外の靴が無いのを見ると、来客を相手にしているのではなく、電話をしているのだろう。
トゥイークが気にかかったのは、クレイグが電話しているという事実ではなく、その声だ。ただの会話にしては、随分と剣呑さを帯びている。怒鳴りつけているというほどではないにしても、普段より声が張られているのは確かだ。電話の向こうの誰かと、言い合いでもしているのだろうか?トゥイークは買い物袋を手にしたまま、このままリビングへ入っても良いのだろうかと玄関で右往左往した。そうしている間に、クレイグの声がぴたりと止んだ。シンと静まり返る室内に、トゥイークはこれ以上無いほど緊張しながら、足音をできるだけ抑えて、リビングをそおっと覗き込んだ。
リビングの中で、クレイグはソファーに座り目を瞑っていた。寝ているのかと思ったのだが、遠くからでも彼の目頭に力が込められているのが見て取れる。まるで、目からビームが放たれるのを堪えているようにも見えた。そして片手には、携帯電話が握られている。
どこか異様な空気に、トゥイークは話しかけていいものかと逡巡する。すると、クレイグの体が大きく揺れた。その動作が、肺の奥まで息を吸い込んだことによるものだと気がついたのは、クレイグが宙に向けて罵倒を口にしてからだった。
「Son of a bitch !!!」
「ヒィッッ!」
トゥイークが悲鳴を上げると、クレイグが目を開けた。ようやく恋人の帰宅を知ったらしい。目が合ったトゥイークはまたもや「ヒッ」と声を上げた。クレイグの方は不機嫌そうな表情を残しながらも、声だけは穏やかに「おかえり、ハニー」とトゥイークに言った。その後、クレイグは両目に不穏な光を宿したまま、宙に向かって行き場の無い怒りを吐き出した。
「一体何なんだ、あの尻穴野郎は」
「クレイグ、落ち着いて。ストライプのことを考えよう?3号でも11号でもいいからさ」
「俺は落ち着いてる」
クレイグの言葉通り、彼は実際落ち着いていた。今現在も彼は仏頂面のままで、両手の中で忙しなく携帯電話をもてあそんでいたが、自身の怒りを一時的にでも抑えつけることに成功していた。クレイグの長所は、このように感情を爆発させることはあっても、すぐさま自身の手でコントロールできるところにあった。
「誰と話してたの」
「お前の父親」
「アー……」
トゥイークは力無く声を漏らした。不機嫌なクレイグの姿を見た瞬間から、何となく予想は出来ていたのだ。いつだって平穏な生活を脅かすのは、トゥイークの父親か、カートマンを筆頭としたあの4人組と決まっている。
トゥイークはクレイグを慰めようとして、けれどもうまい言葉が見つからないまま、クレイグの背中をさすってやろうと手を伸ばした。クレイグはその手を掴むと、自身の頬に擦り付けた。トゥイークの手の甲に、吸い付くような肌の感触が伝わる。

トゥイークの父親____リチャードの手によって2人が被害をこうむった出来事は、数え出したらキリがない。特に、2人がこうして同棲を始める前後の期間は、今までにないほど悲惨なお節介ばかり起こしていた。まず1番に挙げられるのが、彼らの同棲生活の第一歩である新居探しを、リチャードが勝手に押し進めていたことだろうか。
クレイグとトゥイークが、同棲する意思を互いの両親に伝え、数日経った頃の事だった。2人はトゥイークの部屋のカーペットに寝転がり、同棲生活を送る上でかかせない2人だけの愛の城について、ああでもないこうでもないと甘やかな議論を交わしていた。「ストライプの私室は絶対に欲しい」「ベランダには望遠鏡を置けるだけのスペースを確保したい」といった、明らかに夢物語に思える意見も時折交えながら、2人はくすくすと笑い合っていた。その甘やかな空間に、突然リチャードが乗り込んできた。手にはタウンページのように分厚い紙束が握られている。リチャードはそれを2人に手渡すと、こう言った。
「君たちの愛の巣にぴったりな物件を探してきたんだ。この中から選びなさい。なに、お金の心配はいらないからね」
不気味なウインクを残して、リチャードは階下へと戻っていった。
残された2人の、これ以上無いほどに白けた空気が想像できるだろうか。2人は真顔で紙束をペラペラとめくり始めた。そこにはサウスパークの中、もしくは周辺のアパートについて、間取り図や家賃額、築年数などの細かい情報がずらずらと印刷されていた。しかも、リチャードによるカラフルな色鉛筆を用いた”アドバイス”付きである。2人は一言も発しないまま、最後のページまで読み終えた後、トゥイークがぽつりと言った。
「アパートは僕たちで探そう」
「ああ、そうするべきだな」
しかしこの決意は達成されなかった。サウスパーク近辺のアパートをどれだけ探しても、信用に足りるような物件はすべて、リチャードのリストに載っているものばかりだった。結局、互いの通勤時間や治安の良さ、交通の便を考慮した上で最終的に決まった物件は、物件リストの一番上に載っていた、リチャード曰く「パパイチオシ」のアパートとなった。
その次に思い浮かぶ騒動としては、入居初日のことだろうか。新居に荷物を運び終えて、段ボール箱ばかり積まれた清潔な部屋の中で、2人が微笑み合いこれからの生活についての恍惚とした空想を浮かべているところに、無遠慮なインターホンの音が鳴り響いた。クレイグが舌打ちと共に出迎えると、運び込まれたのは巨大なソファーだった。見覚えの無いうえにセンスの悪いソファーを前にして2人が困惑していると、監視カメラを仕掛けているのかと思うくらいのタイミングで電話が鳴った。電話をかけてきたのは勿論リチャードで、このソファは2人への新居祝いだという。2人は部屋を圧迫するただデカいだけの____カートマンの巨尻を思わせるソファーと、自分たちが店をはしごして選んだ瀟洒なソファーとを見比べて、溜息を漏らしたのは言うまでもない。今現在、リチャードのソファーは部屋の隅に追いやられ、洗濯物置き場として活用されている。
これら一つ一つは、ひどく小さな出来事に過ぎない。しかしこれが定期的に、まるでジョギングの最中に一定の距離をおいて配置されている小石のようにして、2人の日常に放り込まれるのだ。その度に彼らが、将来に向けた期待や夢を消耗させられたのは言うまでもない。そして今、次なるリチャードの介入が起ころうとしている。

「……それで、今度はなにをしようとしているの?僕のパパは」
その言葉にクレイグの唇が歪むのを、トゥイークは手の甲越しに感じ取った。クレイグはトゥイークの手を力無く離すと、苦々しげに眉根を寄せた表情で、口を開いた。
「養子を引き取るつもりは無いのか、って言われたんだ」
「……ワオ」
「おかしいだろ!」
それを機に、まるで栓が抜けたようにクレイグは一気に捲し立て始めた。
「そりゃ俺たちだっていつかは子供を欲しいと思ってるさ!でも当人以外が口出しし始めるのは明らかに変だろ!なんでこういうデリケートな話題にもお前の父親はズカズカと踏み込んで来るんだ!それに俺にだけこそこそ聞こうとするのも馬鹿だろ!そもそも俺たちはまだ結婚すらしてないんだ!俺はトゥイークと2人できちんと話し合って、そして出た結論を、俺たちのタイミングでカミングアウトしたいんだよ!」
クレイグにしては珍しい、長々とした感情の発散だった。それに対してトゥイークは、未だにスーパーの袋を足元に置いて立ち竦んだまま、クレイグの姿を困惑気味に見つめていた。
トゥイークからすると、クレイグはリチャードの言動に対して、全て諦めの形で受け入れているのだろうと勝手に思い込んでいた。そしてそれはトゥイークにとって、理想的なリチャードへの対応だった。この世に生を受けた瞬間から、リチャードという存在に振り回されてきたトゥイークの出した理想的な対応が、前述のそれなのである。しかし実際には、クレイグはリチャードのやり方にこうしてふつふつと消えない不満を抱いていたことが判明した。やや唖然とするトゥイークの耳に、未だ途切れないクレイグの声が響く。
「もううんざりなんだよ!お前の父親の……」
クレイグはそこで口を噤んだ。こみ上げてくるものを抑え込むようにして、肩で大きく息をする。
「侵略行為は!」
それはクレイグの中で、かなり譲歩した表現だった。
クレイグだって、心の底からリチャードを嫌っているわけではない。彼は2人の生活に介入する邪魔者ではあるけれど、それ以前に彼はトゥイークを____クレイグの愛しい恋人を育てた父親であり、クレイグと同じくトゥイークを愛する仲間の1人なのだ。前述したリチャードの行動も、すべて全くの善意から行ったものばかりなのだと、クレイグは理解している。あのデカっ尻のようなソファは一目見ただけで高級品だと分かったし、アパートのリストを作るために、リチャードが仕事の合間を縫ってどれだけの時間を消費したか考えるだけの想像力がクレイグにはあった。
それに____あのリストに載っていたアパートは、ペット可の物件ばかりだったのだ。それでも、トゥイークとの生活に、訳の分からない方向から介入されることのストレスは途方もないものだった。
「クレイグ……」
トゥイークは今度こそ、かける言葉が見つからなかった。トゥイークとて、リチャードのお節介が無くなればいいとは思っているし、その方が穏やかな生活を送れるだろうと自信を持って言える。それでも、リチャード本人に消えて欲しいとまで思ったことは無い。カートマンのように、生かすか殺すかの両極端な判断はできないのだ。クレイグと父親を天秤にかけて、迷いなく恋人を選ぶことができない自分自身に、トゥイークは胸が重くなるのを感じた。そしてトゥイークを一番動揺させたのが、自身がクレイグの本心を理解できていなかったことや、クレイグが傷ついていることに気付けなかったという事実だった。
クレイグは大声を出したせいか、それとも怒りからか、息を切らせながら言葉を絞り出した。

「なあ、俺たちはいつになったら、他人の介入無く暮らせるんだ?」
クレイグの言葉に、トゥイークは「それは……」と言ったきり口を噤んだ。「そんな日は一生こないと思うよ」とはさすがのトゥイークも言えなかった。
そもそもとして、2人は他者の醜悪な介入によって始まった関係なのだ。トゥイークはそれを呪いのように感じていて、自分たちは一生他者の存在に脅かされながら生きていくのだろうと思っていた。そしてクレイグも同じように思っているのだろうと決め付けていた。だが、目の前で感情を発露するクレイグの姿に、トゥイークは一つの可能性を思い浮かべた。「もしクレイグが、自分たちの馴れ初めを運命のように感じていて、外野からの横やりを2人で乗り越えるべき試練のように感じていたとしたら?」それはトゥイークにとって、ひどくグロテスクな思想に思えた。
だが一方で、トゥイークはその発想によって、クレイグという人物の一部分をまた一つ理解することができた。
トゥイークの頭の中に、幼少期の思い出が蘇る。エレメンタリースクール時代の2人が、クレイグの部屋で月面を表紙にした図鑑を前に、顔を寄せ合っている。図鑑には、ここ数十年間で行われた宇宙開発についてが書かれていた。そしてそれを元にして、今から10年以内には民間で月面旅行ができるまで技術が進歩しているだろうとの文で締められている。クレイグはそれを読み上げた後、キラキラと輝く目でトゥイークに言った。
「新婚旅行は、月に行くぞ」
色気もなにもない、あばただらけの月面写真を指で撫でて、クレイグは言う。
「月に降り立って月面の石を拾って、それを俺たちの結婚指輪に加工するんだ」
頬を紅色させ語るクレイグに、トゥイークは微笑ましい気持ちで相槌を打っていた。クレイグは普段、皮肉屋で冷淡なリアリストなのに、こうしてロマンチックで壮大なシチュエーションについて語ることが多々あった。トゥイークはそれを、子供特有の夢見がちな思考によるものだと思っていた。しかしそれは、トゥイークの思い違いだったのかもしれない。
クレイグのリアリストな部分と、ロマンチストな部分はおそらく共存しているのだ。彼は人生に絶望し、ただ過ぎていくものだと諦観しながらも、だからこそどこかで理想を完成させたいという気持ちがあるのではないだろうか。クレイグという人物の中には、確かに人生に対する情熱が存在し、人生のたった一部分だけでもいいから、華々しく飾りたいという欲求がある。それが冷め切った彼にとっての唯一の望みなのかもしれない。その唯一叶えたい理想というのが、トゥイークとの生活だとしたら?
トゥイークは項垂れるクレイグの手を取り、さすり続けた。クレイグにとって、月面旅行は何年経っても出来そうになく、自分たちは新婚旅行を延期したまま(そもそも結婚すらしていない)成人した今でも他者の介入によってめちゃくちゃにされるこの生活はどれほど醜悪なのだろう。トゥイークの足元には、スーパーの袋から溢れたじゃが芋が転がっていて、トゥイークの目にはそれがひどく下品に見えた。