分厚い雲に覆われた薄暗いある日のこと、「魔物を退治して欲しい」という依頼のために南の国へやって来た賢者は、森の出入り口付近を一人でぶらついていた。魔物が住んでいるというその森はひどく鬱蒼としており、いかにも危険そうな見た目をしていた。現地の人間との打ち合わせを終えて、僅かな自由時間を得た賢者は、森の手前にある開けた場所を散歩している最中だった。
木々の間へぼんやりと視線を向けていた賢者は、ふと場違いなほどに鮮やかな赤がひっそりと佇んでいるのに気がついた。木々に紛れるようにして立っていたのは、賢者のよく知る北の魔法使いミスラだった。ミスラは今回の討伐依頼には参加していないはずだったが、賢者はさして驚かなかった。賢者が居ないと眠ることができない彼は、賢者が泊まり込みの依頼で魔法舎を不在にしている日も、場所さえ分かっていればこうして追いかけてくることが多々あったからだ。
寝るにはまだ早い昼間なのに、という点にのみ違和感を抱いたものの、賢者は特に不審に思うことなくミスラの元へ駆け寄った。
「ミスラ」
賢者が目の前までやって来ても、ミスラはゆっくりと瞬きするだけで何も言わなかった。賢者は子供の話を聞き出そうとする親のように、言葉を選んで声をかけた。
「会いに来てくれたんですか?」
「……ええ、まあ」
そう言うと、ミスラは緩慢な動作で賢者の片手に自分の手を絡ませた。体温の低いミスラの指は、この曇り空の下でもひどく冷たく感じられる。くすぐったさに賢者が笑うと、ミスラはじっとこちらを覗き込むような目をしてみせた。
しばらくそうしてじゃれついていたが、ふいにミスラが賢者の手を強く握って引き寄せた。そして、もう片方の手で森の奥を指さす。
「向こうに、二人で行きませんか」
そこには、木々の間から奥を見渡せないほどに暗い森がある。魔物がいるという事前知識を抜きにしても、あまり入りたいと思える場所では無かった。賢者は眉を下げながらそっと首を振った。
「あそこには、ちょっと……」
「あなたと一緒に行きたいんです」
食い下がるミスラに、申し訳なさそうに笑いながら賢者は断った。
「……すみません。人気の無いところに行くのは……」
すると、ミスラがじっと賢者の目を覗き込んだ。圧を感じさせる視線に、怒らせてしまったかな、と賢者は考える。見つめ合ったまま、ミスラは賢者の手を放すと、今度は指を絡め合うようにして繋ぎ直した。掠れた声が、請うように囁く。
「人前では出来ないようなことを、ここであなたとしたいんです」
賢者は小さく息を呑んだ。さっきまで小さな子供のように見えていたミスラが、改めて自身の恋人であるという事実を突きつけられたような気がしたのだ。しかしそれでも賢者の返答は変わらなかった。
「ごめんなさい」
ミスラの目が瞬く。長いまつ毛に囲まれた目を、きちんと見つめ返しながら賢者は言った。
「俺がいなくなったら、みんなが心配すると思うので」
ここは結界が張られているからと、開けた場所で一人で散歩することは許されていたが、森の中に入ってしまえばその安全が保証されないのは賢者にも分かっていた。おそらく、この後の討伐で魔法使いとともに森に入ったら、誰かしらが賢者の側にぴったりと張り付いてくれるのだろう。それが分かっているために、賢者は易々とミスラの誘いには乗れなかった。
賢者は繋がれている手を、空いているもう片方の手でミスラの手ごと包み込んだ。頬が熱くなるのを自覚しながら、賢者は口を開く。
「だから、そういうことは……、その、夜になってから、しませんか」
顔を覆って逃げ出したいくらいに恥ずかしかった。それでも、賢者はミスラの目を見つめ続けた。ふいに、ミスラの瞳が珍しく揺らいだ。まるで、深海にいた生物が、突然光に照らされて逃げ惑うような、そんな揺らぎだった。賢者は違和感を抱いたが、それが明確な形になる前にミスラが目を逸らした。手を振り払い、賢者に背中を向ける。そのまま、森の奥へと歩き出した。
「散歩に行って来ます」
その背中が見えなくなるまで、賢者はそこに立ち尽くしたまま、やや呆然と見つめていた。ミスラが気まぐれであるのは分かっていたが、それでも少し傷ついたのだ。ほっと息をついた後、自分もそろそろ拠点に戻ろうとした時、背後から声をかけられた。
「賢者様」
ゆったりとした男の声だった。振り返った先に居たのは、共に南の国を訪れていたフィガロだった。
夜、討伐を終えた賢者が、用意された宿の中でベッドに横たわっていると、ふいにドアが軋む音がした。身を起こして見ると、ミスラが部屋の入り口に立っていた。灯をつけていないために視界は悪かったが、それでも抜けるように白い肌は暗闇の中でもよく見えた。昼間に見かけたきりだったが、その時と全く同じ格好をしている。どうやら、転移魔法は使わずに直接部屋に入って来たらしい。ドアを後ろ手に閉めながら、ミスラはゆっくりとした足取りでベッドへ近づいていった。賢者は上体を起こしたまま、黙ってそれを待ち続けた。
ふいに、ミスラの足が、躊躇うようにして途中で止まる。しかし賢者がそっと腕を伸ばすと、また近づき始め、その手を取った。静かな部屋の中で、ミスラの息遣いがやけに耳についた。
「ミスラ」
賢者がそう囁くと、ミスラは苦痛に耐えるように顔を歪めた。賢者が初めて目にするような表情だった。賢者をベッドに押し倒しながら、ミスラは言った。
「名前を、呼ばないでください」
そして、ミスラの両手が、寝巻き越しに賢者の体を撫で始めた。薄い布地の奥にある体を、確かめるように、五指をしっかりと押し当てながら、賢者の体をまさぐった。
「…………」
「賢者様……」
賢者が堪らないという風に身を捩って息を吐く。それを追うようにしてミスラが囁いた。両手が、賢者の顔を包み込む。賢者の目を覗き込むその瞳は、腹をすかせた獣のような渇きを持っていた。本物のミスラみたいだ、と賢者は思った。そう思った瞬間に、気怠げな声が囁くようにしてこう言った。
「アルシム」
それはミスラの声だった。けれど、賢者の目の前にいるミスラの口は、微動だにしなかった。一泊置いて、ミスラの唇が震えたかと思うと、口端からわずかに血がこぼれた。
賢者が見上げる前で、ミスラの胸は背後から刃のような物で貫かれていた。その刃の元を視線で辿ると、ミスラの背後に佇んでいる、全く同じ見た目をしたもう一人のミスラがそこに居た。
血を流している方のミスラが、視線だけ振り返るように背後に向けながら、震える唇を僅かに動かす。ひどく意識的なその動作は、おそらく「彼」の呪文を唱えようとしたのだろう。しかしそれより先に、胸元の刃が勢いよく引き抜かれて、またミスラの胸を背後から抉った。苦痛に歪むミスラの顔に、ガラスのようなひび割れが浮かぶ。賢者は咄嗟に目を瞑ったが、予想していた断末魔は訪れず、代わりに柔い竜巻のようなものが目の前で起こった。
恐る恐る賢者が目を開けると、そこには魔道具を手にしてこちらを見下ろすミスラのみが居て、血を流していた方の「ミスラ」は何処にも見当たらなかった。混乱する賢者の元に、穏やかな声がかかる。
「お前は本当に、気遣いというものを知らないね」
見ると、部屋の入り口にもたれかかるようにしてフィガロがそこに立っていた。
「あの男は……」
「外に飛ばしたよ。そう遠くにはいない筈だ」
「余計なことを……」
ミスラのその言葉に、フィガロは吐息だけで笑ってみせた。
「お前、自分と同じ顔が苦しむのを、賢者様に見せたいの?」
それを受けて、ミスラは初めて賢者と目を合わせた。殺気立っていた目に見つめられ、賢者は自然と肩がすくんだが、ふっと目元が和らいだのを見て(いつものミスラだ)と安堵した。
ミスラはベッドの中で縮こまっている賢者を見下ろしながら「良かった」と息を吐くように言った。
翌日、賢者はフィガロと共に森の近くを散歩していた。もう討伐はあらかた終わり、このままいけば予定より早く帰れるだろうということだった。
暖かな日差しを浴びながら、こうして散歩していると、賢者は昨日のことが夢の中の出来事のように感じられた。「賢者を狙う魔法使いが、ミスラのフリをして賢者に近づいた」という真相は、一晩明けた今になっても実感を抱かせるには至らなかった。
「でも、賢者様が無事で本当に良かったよ」
薄青の髪を風になびかせながら、フィガロがそう言った。あの日、偽物のミスラと森の入り口で別れた後、現れたフィガロは既に全てを見抜いていた。賢者を狙う者が近づいてきたということで、魔法の鳥で魔法舎に速達を出し、賢者の身を守るための援軍を要望したのだ。それを受けて、ミスラがこちらへやって来た。
「俺は、ミスラじゃない方がいいって伝えたんだけどね。偽物と同じ見た目だからややこしいし」
そのミスラは今、他に怪しいやつがいないかと周辺を探っている最中だった。
しばらくの間、フィガロと賢者は互いに口を閉ざしたまま散歩を続けた。沈黙を破ったのは、賢者の方だった。
「……本当に、ありがとうございました。フィガロが気づいてくれなかったら、何もできなかったと思います」
足を止め、俯きながらそう口にした賢者は、いつまで経ってもフィガロの返答が無いことを不審に思い顔を上げた。フィガロは薄く微笑んだまま、じっと賢者を見つめていた。たじろぐ賢者に、フィガロが囁く。
「バレちゃってたね」
「え?」
「賢者様とミスラが、そういう仲だってこと」
賢者の顔が一気に赤くなる。フィガロの言う通りだった。ミスラに扮していたあの敵は、最初から最後まで一貫して賢者がミスラと「そういう仲」であることを理解して振る舞っていた。敵にそれを知られていることと、それを利用して近づいてきた事実に、改めて賢者の胸が一層重くなる。これからもそれを利用して賢者を狙おうとする魔法使いが現れるのだろうと思うと、賢者は何もかもが耐えられないような気がした。そんな空気を打ち消すように、フィガロが明るい声をあげる。
「まあ、ミスラはみんなに見せつけるのが好きだからね。イチャイチャしていたあいつの自業自得だよ」
こちらを気遣っているのだと気づいていても、賢者は表面だけでも明るく振る舞う気になれなかった。すると、不意にフィガロが賢者へ手を差し伸べた。まるで、出会ったばかりの頃の、パーティの時のように。
「ねえ、俺に乗り換えない?」
「え……」
「俺なら、絶対にうまくやれるよ。誰にもバレないようにしてみせる」
薄く微笑むその顔は、さっきの明るい声と違い、本心なのか演技なのか見抜けないものだった。賢者は正体の分からない生き物を目の前にしたような、胸のざわめきを感じながらも、何とか作り笑いを浮かべてみせた。
「いえ……。遠慮します……」
「えー、どうして」
「……俺の”恋人”が、すごく怖い顔でこっちを見てるので」
フィガロが振り返った先で、ミスラが殺気立った目で髑髏を構えていた。フィガロが何やら声を上げて静止するのを眺めながら、賢者は昨晩のことを思い出していた。
これがミスラではない別人だと知りながら、覆い被さられていたあの時、賢者が感じていたのは、命の危機に対する恐怖や嫌悪感なとではなく、ただ「本物のミスラに早く抱きしめられたい」ということだった。あの状況に対して自信がどんな感情を抱いていたのか、賢者は明確には言葉にできないものの、何を望んでいたのかについてははっきりと自覚していた。ミスラに抱きしめてもらえたら、不安も恐怖も全て和らぐような気がした。そうすれば、何も考えずにいられるだろうと思えた。そこまで思い返して、賢者は自分がひどく愚かしい生き物であるように思えた。
生ぬるい風に頬を撫でられながら、今夜は自分から添い寝をねだってみよう、と賢者は思った。「くっついて眠りたいです」と言えば、ミスラはどんな顔をするだろうかと想像する。その想像に胸を高鳴らせながら、早く夜が来ればいいと、厄災の見当たらない空を見上げてそう思った。