明日は久しぶりの休みだから、とトーマを寝所に招き入れた。静かな夜だった。トーマは望む通りのことをしてくれた。着物の合わせ目から潜り込んで、少しずつ体を暴いていく手の感触。
終わる頃には、心地よい疲れが全身を満たしていた。水をたらふく飲んだ後のように、体の芯がずっしりと重い。それでいて、手足はひどく敏感になっていた。指先を口に含まれただけで、絶頂してしまうんじゃないかと思うくらいに。
ことが終わっても、トーマはずっと布団の中にいてくれた。抱きしめられたまま、そっと頭を撫でられる。
「好きなだけお寝坊してもいいんですからね」
そう囁く声を聞きながら、眠りたくない、と強く思った。ずっとこうしていたいのに、眠ってしまえば何も分からなくなってしまう。髪をかき混ぜる指の感触がひどく心地良い。小さな子供になって、彼にあやされているような気分だった。しばらくの間、うとうとしながらも意識を保っていたのだが、やはり睡魔には勝てなかったらしい。体の内側に積み重なっていたものが、シーツの上にゆっくりと溶け出していくのを感じた。
次に目を覚ました時、夜は一層静けさを増していた。耳を澄ましても、風の音さえ聞こえない。視界の端に、力なく投げ出されたトーマの手が映っている。彼は深く眠っているらしい。あどけない寝顔だった。
彼が起きないよう注意しながら、布団の中で身を起こす。体はまだ重かった。けれど、妙にそれが心地よかった。立ち上がり、障子を開ける。廊下を挟んですぐ目の前に中庭がある。ずいぶん長く眠っていたような気がするけれど、実際はそう経っていないのかもしれない。外の様子を見てそう思った。空は塗りつぶされたかのように暗い。明かりらしい明かりは月光のみであったが、周囲を見渡すのに十分なほどの明るさはあった。池を囲う石が、濡れたように光っている。
不意に、言いようのない息苦しさが胸にこみあげてくるのを感じた。恐怖、もしくは強迫観念に似た何か。息が出来ない。とっさにそう思った。実際は、ちゃんと呼吸もできているし、酸素も取り込めているはずなのに。肺が潰れてしまったかのように、苦しくてたまらなかった。安息を求めて、眠る直前までトーマとしていたことを咄嗟に思い出そうとする。優しく触れる指先や、穏やかな視線や、あたたかい肌の感触なんかを。けれどそれは、息苦しさをより増していっただけだった。
(彼と、あんなことをしたから)
苦痛に喘ぐようにしてそう考える。あんな夜を過ごしたから。トーマに抱かれて、あたたかくて気持ちよくて、怖いくらい幸せだと思った。こんな風に幸せでいられる資格が、自分にはあると思い込んでしまった。そんな筈はないのに。
息継ぎがしたい。痛みでも何でもいいから、不釣り合いな夢から目を覚ますためのきっかけが欲しい。こんな考え方はおかしいと、頭の片隅で理解しながらも、部屋から抜け出そうとする足を止められなかった。
裸足のまま、中庭へ降りる。湿った土の匂い。足指が汚れるのも構わず、池の前に向かった。そして、そのまま、水の中へ足を沈める。
躊躇は無かった。冷えた水が、肌にまとわりついてくる。けれど、もう初夏を迎える時期だからか、肌を裂くような冷たさは感じられなかった。二本の足で立った時、水面は膝の少し上にまであった。膝を折り、身をかがめる。着物の裾が、花弁のように一瞬だけ水面に浮いて広がった。しかしそれらはすぐに水を吸って、水底へ重く沈んでいく。
鼻先が水に触れる。つぷん、と音を立てて池に顔を沈めた。水流に従って髪がなびき、頭皮にまで水が触れる。息を吐く。上へ昇っていく泡。口の中に流れ込んできた水は、肌に触れるよりもずっと冷たく感じられて、芯まで凍っていくような気がした。耳の中にまで水が入る。全身が、水圧によってやわく締め付けられていた。あと少し。あと少しで楽になれる。そう思った瞬間に、勢いよく体を引き上げられた。
ぽた、と毛先から雫が落ちる音。静まり返った中庭で、背後に立つ彼の気配だけが怖いほどに鮮明だ。見たくない、と思いながら、私は背後を振り返った。
こわばった、白い顔。こちらの襟を掴んだまま立ち尽くす彼は、ひどく痛ましいものを見たかのように、怒りと怯えがないまぜになった表情をしていた。私は自分の顔が自然と微笑を浮かべるのを感じた。その場しのぎの作り笑いではない。彼の顔を見れたことが純粋に嬉しかったのだ。こんな、馬鹿みたいな状況ではあったが。
「早起きだね、トーマ」
もっと寝ていても良かったんだよ、と穏やかな声が口から出る。皮肉でも何でもない本心からの言葉として。
「寝れませんよ……。あなたが、こんなことをするなら……」
私はそれを聞いて笑ってしまった。だって、トーマが頭に思い浮かべているような心配事は、まるっきり見当違いだからだ。私が入水自殺なんてしないことを、彼も理解しているだろうに。神里家の責務を放棄して、私が逃げ出すことなんてない。そのうえ、綾華という存在だっているのだ。
「なんでこんなことしてたんですか」
泣きそうな顔で彼が言う。悲しむべきことなんてないのに、トーマは優しい。こういう時でさえ、私を責めるような言葉を使わない。自分がこの事態を招いたのだから変な考え方だろうけど、彼を安心させてあげたい、と思った。だからこう答えてあげたのだ。
「なんにもしてないよ。ただ遊んでただけ」
そう言ってもやっぱり彼は痛ましいものを見る目をするばかりで、どうしようかと悩んでいると彼が私の手を取った。
「体を拭きましょう。風邪をひきます」
「面倒くさい」
「オレがやりますから」
それならいいか。そう考えているうちに、まるでお人形を拾い上げるかのように、軽々と彼に抱き上げられてしまう。歩くたびに、私の髪や服から滴る水が彼の肌を濡らしていく。
「濡れるよ」
「承知の上です」
静々と運ばれていく途中で、彼もまた裸足で庭に降りているのに気付く。それから、開け放された障子の向こうに見える、跳ね退けられて乱れたままの布団も。
「若」
「なあに」
「差し出がましいことだとは分かっているんですが」
「うん」
「オレのこと、どう扱ってもいいですから」
「うん?」
「若の慰めになるなら、あなたにどんな物言いをされてもいいし、殴られても、腹を抉られても構いません」
「傲慢だね、君は」
「そう思うなら、仕置きでも何でもしてください」
あはは、と思わず笑ってしまった。笑い事じゃない。でも、笑って流す以外に何があるだろう。多分私は、彼が本当に望むものをくれてやることはできない。お仕置きだって、彼のなりたい関係性にだって。
「ありがとう。でも、私は一人で遊んでる方が好きなんだ」
そう言って、彼のこめかみに唇を押し当てた。きっと今の言葉が、彼をひどく傷つけただろうと思いながら。