倫理形成

あたたかい春の昼下がり、俺はフォルモーント・ラボラトリーの外玄関にしゃがみ込んで、野良猫達と戯れていた。
フィガロの善意によってこのラボで働けるようになった俺は、時々遊びに来る野良猫達との触れ合いが毎日の楽しみになっていた。そんな俺の後ろで、フィガロとカインがベンチに腰掛けてお喋りをしている。俺がここで働くようになってから、こうしてカインが時々顔を見に来てくれる。それも俺にとって楽しみの一つだった。
フィガロは最初、あの人見知りを発揮してカインとは目も合わせられなかったのに、何度も顔を合わせる内にお喋りを楽しめるくらいにまで親しくなった。けれど、やっぱりどこかよそよそしくて、ブラッドリーやアシストロイドを相手にしている時みたいなちょっとブラックなジョークを言い合えるくらいの仲にはまだなっていない。
一匹の猫がごろりと仰向けに寝転がってみせたので、俺はふわふわとしたお腹の毛並みを撫で回す。そうしていると、不意に背後でフィガロが俺の名前を口にするのを聞いた。俺は猫と戯れながら、何となく耳を澄ませてみた。のんびりとしたフィガロの声が「不思議だよねえ」と言っている。
「あの子の初期設定には、猫が好きっていう指定は無かったのにさ、今じゃああやってじゃれ合うくらいにまでなってる。起動後の学習機能によって猫を好ましいと思う価値観が形成されていったんだろう」
「へえ、初期設定って元の制作者じゃなくても確認できるのか?」
「うん。識別番号とかブランド名を確認するのと一緒さ。技術さえあればすぐに見れるよ」
猫が足先で俺の手のひらをパンチする。少しの沈黙の後、カインがこう聞くのが耳に届いた。
「……じゃあさ、どんな人間を好きだと感じるのか、っていうのも最初に設定されてるのかな」
「ああ、してると思うよ。変な趣味のオーナーだと特殊な趣味嗜好にしてることが多いけど……あの子なら一般に普及してるアシストロイドと同じく、至って普通の好みをしてるんじゃないかな」
「普通って、例えばどんな?」
「それは……、約束を反故にしないとか、言葉を返してくれるとか、暴力を振るわないとか、そういう人を好きになると思う」
「ああ……」
ため息のような相槌が聞こえて、俺は反射的にカインを振り返りそうになった。風の音に紛れながら、カインが少しだけ小さい声でフィガロに聞く。
「あの、悪いんだけどさ、俺が聞いてる”好き”はそういうのじゃなくて……」
カインには珍しい、絞り出すような声だった。天の悪戯なのか、ちょうど風が止んだタイミングで、カインの話す言葉が全て俺の耳に届いた。
「好きなタイプっていうか……晶なら、どんな奴を恋人にしたいと思うのかなって……そういう意味で、聞いたんだ」
その言葉を聞いた瞬間、俺は自分の体が一気に熱くなるのを感じた。熱を帯びた頭の中で、カインの言葉の意味を何度も考えようとする。俺の頭は、馬鹿みたいに一つの仮定を繰り返した。違う。そんなはずが無い。カインは明るくて優しい人だから、単純に俺と仲良くなりたくてそう聞いただけなんだ、と自分に言い聞かせる。それでも俺の頭は「もしかしたら」を捨てきれていない。もしかしたら、カインは、俺のことを。
そう思った瞬間に、足元で「にゃあ」と声がした。はっとして視線を向けると、足元で寝転がっていた猫が不満そうな顔をしている。俺は慌てて猫のお腹を撫でるのを再開した。そうしながら、背後で聞こえるカインとフィガロの声へ耳を澄ませる。けれど、さっきより強くなった風の音に紛れて、俺の聴覚機能では少しも聞き取ることができなかった。

その日以来、俺に対するフィガロの接し方が少し変わった。カインと一緒に出かけていた俺が帰宅すると、必ず「カインに何かされた?」と聞くようになった。そういった質問をされるのは以前から良くあったけれど、それとは少し違った意味合いを含んでいるように思えた。例えるなら、親が子供に学校であったことを尋ねるような響きを持っていたのが、今ではなんだかフィガロが俺を怖がっているような、暗闇の中にそっと足を踏み入れるような気持ちが含まれている。その度に、俺は多分困った顔をしてこんな風に聞き返している。
「何かって、例えばどんなことですか?」
「ええと、例えば、カインに触られるとか」
「ハイタッチとか、ハグとかはしましたよ」
「そう」
それを聞いたフィガロは、少しだけ困ったような顔をする。まるで俺の表情が移ってしまったように。

変わったのはフィガロだけではない。カインも、俺に対する接し方が変わったように思える。いや、変わったのは俺の方なのかもしれない。
俺は最近、カインの前だと動きがギクシャクするようになってしまった。並んで歩いたり、一緒にご飯を食べたり、お喋りしているだけなのに、自分の手足をどう扱うべきなのか分からなくなってしまう。指先をちょっと動かすだけでも、カインにどんな風に見られてるんだろう、どう思われているんだろう、と変な心配をしてしまう。もし、そんなギクシャクした動きに気づかれて、カインに少しでも「変」だと思われたら、ってそんな想像をするだけでじんわり涙が滲むようにまでなった。
俺は、あの会話を聞く前の自分に戻りたかった。カインのことを何の心配もなく好きでいられて、純粋にカインとのお喋りを楽しめるあの頃に戻りたくて仕方がなかった。
その日、俺は仕事中のカインにばったり会った。業務を終えて、後は警察署に戻るだけだと言ったカインは、俺をラボまで送ってくれると言った。
「でも、仕事中なのにいいんですか?」
「大丈夫だよ。市民を安全な場所まで送り届けるのも、俺たちの仕事なんだから。というか、うちのボスはこれ以上のことを勤務中にしてるぞ」
そんな軽口を叩きながら、カインはエアバイクを走らせる。カインの髪が風になびくたびに、柑橘系の制汗剤の香りがして、俺はすごくドキドキしてしまう。カインの背に掴まったまま、俺はこの心臓の音が聞こえてないといいなと思った。
エアバイクを走らせたまま、カインが遠くのビルを指さした。
「あの辺り、この時間帯に走ってると、夕日が反射してすごく綺麗なんだ。ここからだと着く頃には夜になってるから、今は見れないんだけどさ」
「じゃあ、今度カインと見に行きたいです」
すごく自然な風に、俺の口からそんな言葉が出た。言った後で少し恥ずかしくなるけれど、カインを前にすると、俺はこんな風に好意を示すことに抵抗感が無くなってしまう。それが良いことだと、あの会話を聞くまでは思っていた。
「ああ、今度行こう。絶対にな」
カインの声は、それを楽しみにしてくれてる気持ちがいっぱい詰まってて、約束しなくてもいつか絶対に叶えてくれるんだろうなと分かった。なんだか俺は堪らなくなって、カインにぎゅっと抱きついたまま変なことを言ってしまった。
「俺、カインとしたいこと、他にもいっぱいあります」
カインとしたいこと。手を繋ぎたい。お喋りをしたい。夕日を見たい。海を見たい。ご飯を食べたい。笑い合いたい。歌を歌いたい。抱き合いたい。ぴったりくっついていたい。数えきれないくらいあるそれらが、一瞬にして俺の頭に浮かび上がり、甘やかな余韻を残していく。
しがみついている腕の中で、カインの体が一瞬、硬く強ばったような気がした。その直後に、穏やかでどこか熱っぽい声が風に紛れて囁かれる。
「俺も、いっぱいあるよ。晶としたいこと」
俺は自分の体が一気に熱くなるのが分かった。頭がぼーっとして、でも体の細部は奇妙に敏感になっていく。カインの髪の匂いや、あたたかい体温を感じながら、俺の頭はぼんやりと考え事をする。
カインはどんなことをしたいと思ってるんだろう。俺が考えてるのと同じことかな。カインの頭の中で、それをしてる時の俺はどんな風に笑ってるんだろう。そう考えるだけで、頬が熱くなって後頭部が痺れるみたいな感じになる。カインとこのままでいたい、と思うのと同じくらい強く、これ以上の関係になりたいとも思ってしまう。冷えた風が、千年樹の花びらを乗せて頬を撫でていく。いつのまにか、世界はあの時と同じ、桜の咲く季節へと移り変わっていた。