ホログラムの海を泳ぐ

夜の八時、俺はフォルモーント・ラボラトリーのホールに座り込んで、カインが来るのを待っていた。
あの衝撃的な一日からしばらく経った今現在、俺はこのラボの一職員として働き、寝泊まりをしている。何故かというと、あの騒動の後に識別番号からオーナーを探し出したけれど、何かしらのトラブルがあったのか数年前には既に死亡していた人だった。行く当てを失くした俺は、フィガロ博士の善意によって引き取られて、ここで暮らすことを許されている。忙しくて大変な毎日だけど、生き甲斐になるような楽しいこともたくさんあるので、何とかやっていけている。その生き甲斐になる事というのは例えば、俺が今待ちきれなくてソワソワしているような……。
そこまで考えた時、不意に外から軽いクラクションの音がした。俺は勢いよく立ち上がると、ラボの外に駆け出していった。そこには、私服姿のカインがエアバイクに跨っていた。俺を見ると、ニッと笑って片手を挙げる。たったそれだけの仕草がすごくかっこよく見えて、頬が熱くなるのを感じた。
「こんばんは。カイン」
「ああ。こんばんは」
そばまで寄ると、カインは自然な仕草で指を絡ませてきた。温かい指の感触に、体の芯まで溶けていくような感覚になる。
「今日は結構寒いけど、上着とか羽織らなくて大丈夫か?多分かなり冷えると思うぞ」
「あ……いえ、このままで大丈夫です。それに、少し寒い方が夜って感じがして良いと思って」
「夜って感じか。確かにちょっといいな」
そう言いながら、カインが俺をエアバイクの後ろに促す。それに従って、カインの背中にくっつくようにして後ろに跨る。腕を回してもいいものかと悩んでいると、カインの手に腕を引き寄せられてそのまま抱きつく姿勢になった。密着した部分から、カインの体温とか、匂いとかが感じられて、俺は体温が上がっていくのを感じた。こうなると分かっていたから、わざと上着は羽織らずに来たのだ。
「しっかり掴まっててくれよ」
その声と同時に、エアバイクのエンジンが鳴る。一瞬の浮遊感の後にバイクが発進し、横髪が夜風を受けて舞い上がった。夜の空気は心地よい冷たさで、けれど触れているカインの体温があたたかくてどこかくすぐったい。髪や頬や、服の内側に流れ込んでくる風を感じながら、俺は改めて、ずっと前から約束していた夜のドライブが始まった嬉しさを噛み締めていた。

夜の道路を走り続ける俺たちの横を、いくつものホログラムが溢れては散っていく。街の中心部からは少し遠いので、そこに比べるとまだ閑散としている方なのだろう。けれど、そこら中に溢れる広告たちに俺とカインのお喋りはいつも以上に盛り上がった。カインは普段より饒舌で、そして俺も同じくらい、いつもよりお喋りになっていた。大好きな人と会って、夜の町をドライブして、お喋りをする。そんな状況がすごく楽しくて、カインも同じくらい楽しいって思ってくれているのが伝わってきて、それを受けてもっともっと楽しい気持ちになる。胸がドキドキして、次々と喋りたい事で胸がいっぱいになって、口が足りないくらいになる。溢れ返りそうなくらいの多幸感に包まれて、俺はお酒を飲んだみたいにクラクラしていた。
広告の数が少なくなると、今度は桜を模したホログラムが現れる。月明かりに似た淡い光を帯びながら、作り物の花びらが周囲に散っては消えていく。俺たちはほんの一瞬、その花びらに見惚れて口を閉ざした。静寂の中で、冷たい夜風が火照った頬を撫でていく。俺は目を閉じて、まぶたでもその風を感じながら、あくびをするような心地よさで言った。
「涼しくて、気持ちいい」
「ああ、そうだな」
吹き抜けていく風に、時折柑橘系の爽やかな香りが混じる。それは、俺の目の前にあるカインのうなじからしている匂いだろう。おそらく制汗剤か何かの香りだ。それが夜風とともに、俺の鼻をくすぐっている。
実はバイクの後ろに跨った瞬間から、すぐそばにあるうなじにドキドキしてしまいあまりそこを直視できないでいた。髪を結っているために無防備に晒されているそこは、うぶ毛の処理もきちんとされているようだ。それを前にすると、なんだか見てはいけないものを見ているような、普段は服の内側に隠されている部分を盗み見てしまったような気持ちになる。同性に対しこんなことを思う俺がおかしいのだろうけど、でもやっぱりドキドキしてしまうのだ。制汗剤とカインの体臭が混じり合った、どこか甘酸っぱい匂いをそっと嗅いでいると、不意にカインが声を上げた。
「なあ、俺、汗臭くないかな」
「えっ!いや、そんなことないですけど……」
まさか匂いを嗅いでいたのがバレたのかと慌てながら答えると、カインは朗らかに笑ってこう返した。
「いやー、今日はちょっと激務でさ。仕事中に結構汗をかいたんだよ。シャワー浴びる時間も無かったから服だけ着替えて来たんだど、それならいいんだ」
「そうだったんですね……。あの、少し遅れてきても俺は大丈夫ですよ」
「そうはいかないよ。晶に悪いし、俺も晶に早く会いたくて仕方がなかったから。それに、俺が来るまでわざわざ玄関でずっと待っててくれてたんじゃないか?」
言い当てられて、俺は言葉に詰まってしまった。カインが気にしないように何か気の利いた嘘を言おうとするけど、うまく思いつかない。何も返せずにいる俺に、カインは悪戯が成功した子供のような声を上げて笑った。
「やっぱり!クラクションを鳴らしたら秒で出てきたから、そうなのかなって思ってたんだ」
「わ、分かってたんですね……」
「まあな。晶ならそうしそうだなって思ってたし、だから絶対待ち合わせには遅れられないって考えたんだ」
俺はただ顔を赤くして、カインにしがみついてるしか出来なかった。何となく、こんな風にカインへの好意を本人に言い当てられると、俺は時々逃げ出したいくらい恥ずかしくなってしまう。好意を知られても恥ずかしくないしむしろ嬉しい時もあるけれど、そう言う時は多分、友情としての好意を向けているからだろう。今みたいに、俺が友情と呼ぶには行き過ぎてる好意を知られると、どう繕うべきかわからなくなる。
街を抜けると、長く広い道路橋に出る。俺たち以外の車やバイクは見当たらない。ここをすごいスピードで駆け抜けて行ったら気持ちいいだろう。そしてカインも同じことを考えたのかもしれない。
「ちょっとスピード出していいか?」
「はい」
その言葉通り、徐々にスピードが上がっていく。叩きつけるように風が吹き抜けていって、耳のすぐそばで風を切る音が聞こえる。ホログラムが一つもない、車も人も通らない。俺とカインだけがこの橋を駆け抜けていく。まるで俺たちだけが世界に二人きりになってしまったような、そんな錯覚さえしてしまいそうだ。
そのせいだろうか。俺は普段なら感じないような、奇妙な高揚感を覚えてしまった。カインの背から僅かに体を離し、広い背中にそっと指を押し当てる。きっとスピードを出すのに集中していて、気づかれないだろうからと言い聞かせる。夜風に髪をなぶられながら、温かい背中にゆっくりと指を這わせた。
「す」「き」
バイクのスピードが、僅かに緩んだ。見ると、橋を抜けようとしているところだった。遠くには鮮やかなホログラムが見えて、またさっきのように賑やかな場所に出るのだと分かった。
風を切る音が小さくなり、それと入れ違うように、遠くから小さな音で広告のミュージックが聞こえてきた。またカインの背に縋りつくようにくっついて、その音に耳を澄ませる。たしかこれは、以前カインが教えてくれた曲の……。そう思った瞬間に、囁くようなカインの声が耳に飛び込んできた。
「俺も好きだよ」
全身が一気に熱くなる。聞き間違いだ、と思い直そうとしても、それを邪魔するように心臓の鼓動がバクバクと響いて頭をぐちゃぐちゃにする。ホログラムの群れの中にバイクが突っ込んで、おびただしい色彩が目の前を横切っていく。このドライブが終わった時、俺はどう振舞って、どんな答えを返すべきなのだろう。この模範解答を導き出せるプログラムを、あの博士に組み込んでもらっていれば良かったのにと、オーバーヒートをしそうな高熱の中で俺はそう後悔した。