ミスラが魔法舎の2階を歩いていると、賢者の部屋のドアに、見慣れぬものが掛かっているのに気づいた。
それは、猫の顔の形にくり抜かれた、木製のプレートだった。顔一面がクリーム色に塗られ、真ん中にはデフォルメされた目と口が描かれている。猫を模したそれに、いかにも賢者らしいと思うのと同時に、あの人らしくないなと思う気持ちもあった。
賢者は私物を増やしたがらない。前の賢者が残した物ばかりな部屋の中で、彼が新しく手に入れたものといえば賢者の書とクロエが作った服くらいではないだろうか。それが、いつ異界に帰るか分からないから、という考えに基づいているのは魔法使い全員がそれとなく察していた。ミスラもまた、賢者のそういった思考を理解していた。
だからこそ、賢者の部屋に新しく飾り付けられたこのプレートに、あの人らしくないという印象をミスラが持ったのだ。賢者が自分の意思で買った物なのか、それとも魔法使いの誰かがプレゼントしたものなのかは知るよしも無いが、もし前者だとしたらひどく不愉快だとミスラは思った。この間の抜けたドアプレートが、長らく守ってきた信条に反してまで彼が手に入れたいと思った物なのかと思うと、胸がムカムカとするのを感じた。見せつけるようにドアの前にかかっていることにも苛立ちを覚え、今すぐにこれを粉々に砕いてしまいたいとさえ思った。
その自己中心的な怒りから目を背けるように、ミスラは早足に賢者の部屋の前から立ち去った。ここで賢者の私物を破壊してしまえば、あの双子やオズに教育という名の暴力を振るわれるのは分かりきっていたからだ。しかしその後、怒りの収まらないミスラがオーエンを死体にし、結局双子に怒られることになった。
「ああ、あの猫のプレートのことですか?」
その日の晩、添い寝のために部屋にやって来た賢者へ、ミスラは話題に出してみた。あのドアプレートに対して賢者がどれくらいの執着を持っているのか確かめたかったのだ。ベッドにごろりと横たわるミスラのそばで、賢者はぺたりとシーツの上に座っている。まだ寝付くには少し早い時間だ。賢者は何がおかしいのか、ふふふと吐息を漏らして笑った。
「実はですね、あのプレートの裏には、文字が書かれてるんですよ」
「文字ですか」
「はい。”ミスラのへやにいます”って書かれてるんです」
その言葉を聞いて数秒後、ミスラはようやく意味を理解した。なるほど、アレは不在を示すために必要に駆られて手に入れた物なのか、とミスラは納得した。猫を模したデザインなこともあって、ただの装飾目的かと思い込んでいた。
「じゃあ、今は昼と違ってひっくり返ってるんですね」
「そうですね。だからミスラは裏面を見る機会がないかもしれません」
ミスラは、ずっと胸でくすぶっていた苛立ちが消えていくのを感じた。今頃、賢者の部屋の前を通りかかった魔法使いは、あのドアプレートを見て賢者がミスラの部屋に居ることを嫌でも知らされるのかと思うと、ミスラは強い興奮を覚えた。まるで二人の関係を見せつけてるみたいだ、と思った。
「この部屋のドアにも、同じようなものをかけましょうか。賢者様がいますって」
「あはは。ミスラの不在じゃなくて、俺が居ることを知らせるんですか?」
「そうですよ。良いと思いません?」
「ううん……。ああ、でも、ミスラと二人きりになりたい人にとっては、いいかもしれませんね。俺が居るかもしれないって思うと、来づらいでしょうし」
「はあ……そんな人居ませんけど」
そもそもとして、ミスラの部屋に訪ねてくる者自体が少ない。双子とルチルくらいだ。ここ最近は、朝食の時間までミスラと寝てる賢者を起こしに訪ねてくる者もいたが、それらはミスラではなく賢者目当てだ。
「そんなことありませんよ。ミスラのことが好きで、二人で話したいって人も居ると思います」
「それ、多分あなたのことでしょう?」
「それは……、まあ、はい、そうですね……」
賢者は俯いてはにかんだ。濃いミルクティー色をした肌が、頬紅をはたいたように薄赤く染まる。
(この人は、本当に俺のことが好きなんだな)
そう思ったミスラは、自分の体がグラスか器のように、手足の先まで何かで満たされていくのを感じた。それは、うっとりとするような、陶酔するような痺れを含んでいた。ミスラは、賢者の素肌を見たいと思った。目の前に座る賢者を眺めながら、彼が着ている寝巻きを一枚ずつ脱がせていくのを頭の中で想像する。一度も目にしたことのない彼の性器や排泄するための部分が、どんな色をしているのかまで思い描く。ミスラの口の中に唾が溜まる。
ミスラはゆっくりとした動きで、賢者の寝巻きのボタンに手を伸ばした。一番上のボタンから、片手のみで外そうとする。寝転がったままの不自然な姿勢で行ったため、それだけの動作に妙に手間取る。そのもどかしささえ、自分をわざと焦らしているようでミスラには心地よかった。
それを見下ろしている賢者は「くすぐったいです」と笑うだけだった。まるで、手遊びをしている子供を見守るような目だ。時折、寝巻きの合わせ目から覗く素肌にミスラの爪先が触れると、頬を赤くして身をよじる。そういった行為を全く知らないわけではないだろうに、賢者の視線は奇妙なほどに無邪気だ。もしかしたら、ミスラのことを無垢だとでも思っているのかもしれない。そう思うと、ミスラは興奮が急激に萎えていくのを感じた。ボタンを外していた手を下ろして、賢者の膝の上にぼすりと落とす。
もし性的な行為をするならば、賢者の方からも、ミスラと同じくらいそういった欲求を持っていて欲しかった。ミスラはシーツの上を這うようにして賢者に近づき、彼の膝の上に頭を乗せた。賢者に膝枕をされている格好になる。
「何か話してください」
賢者は寝巻きのボタンを留め直しながら「どんな話がいいですか?」と聞いた。
「俺の話です」
「ええと、ミスラの話ですか」
「あなたから見た、俺のことが聞きたいです」
賢者は、仕方がないという風に眉を下げて笑った。気恥ずかしい要求に、賢者は顔をうっすらと赤くしながらぎこちなく笑ってみせる。細められた目の奥には、確かにミスラへの愛情が滲んでいて、ミスラはその奥にあるものをもっと知りたいと思った。
「じゃあ、頑張って話すので、ちゃんと聞いててくださいね」
「お安い御用ですよ」
賢者の手が、ミスラの髪を撫でる。賢者の口から、ぽつりぽつりと少しずつ語られていく内容は、寝物語と表すにはミスラの体を火照らせるものばかりだった。