風のない、生暖かい土曜日の昼間だった。
僕はケニーと一緒に競馬場に来ていた。ケニーはここの常連で、この前なんか五千円でかなりの大金を当てたらしい。いつものように、偽造した運転免許証で年齢確認をしてもらいながら、ケニーはマークカードと引き換えに窓口で馬券を買っている。16歳になったケニーは、エレメンタリーの頃と違い、まるで彼の父親のような格好をしている。キャップを目深に被り、肉体労働者っぽい上着を着込んでいる。
馬券を買うつもりのない僕は、ケニーから視線を外し周囲をぼおっと眺めた。競馬場は土日のショッピングモールより人が多く、どこを見てもおじさんばかりだ。おじさん達は揃って分厚い上着を着込んでいて、鉛筆を噛んだりしている。みんなケニーとよく似た格好だったけど、ケニーはあのキャップと襟元の隙間から、真っ白くてすべすべとした肌と、綺麗な金髪が覗いているから、一目で若いとわかる。それに比べて、おじさん達のキャップから覗くうなじは、ぽつぽつとした刈り上げ跡がくっきりと残っていた。僕は近くで競馬新聞を熱心に見ているおじさんの、鉛筆のお尻の部分をねっとりとしゃぶっている口元をぼんやりと眺めていた。そうしているうちに、背後から肩を叩かれ、ケニーが馬券の交換を終えたことを知る。
僕らはレースを見るために、外のスタンドへ向かった。途中、レースを観戦するための大量のモニターが備え付けられている場所を通り過ぎる。そこには大勢のおじさん達がたむろしていている。通り過ぎる際に、ケニーは何人かのおじさんと目が合うと、片手を挙げて挨拶する。きっと、僕の知らないケニーの友達なんだろう。そのうちの1人が「今日は彼氏連れか?」と聞く。僕が思わず首を竦めると、ケニーは「残念だけど、彼氏持ちなんだ。この子」と言った。おじさんは「そうかい」と興味なさげに返して、またモニターを真剣に見始めた。
僕らはレースを間近に見れるスタンドにやって来た。あたり一面に青々とした芝生が敷かれていて、なんだか公園みたいにのどかだ。そこら中にぽつぽつと人がいて、モニター前にいたおじさん達と違って、2人以上で来ている人が多い。僕らはゴール手前の人混みから少し離れたところに、持参したブルーシートを敷いた。そして、僕が持ってきたお弁当なんかもそこに置いて、2人でシートの上に座る。僕がケニーと一緒に競馬場に来る際は、こういう風にお弁当を作ってきて一緒に食べるのがお決まりになっていた。僕は競馬に興味がないし、お金をかける勇気も無いけど、こうやってケニーと一緒にお弁当を食べるのは好きだった。つまり、お金儲けのために来ているケニーと違って、僕はピクニック感覚で来ているようなものだった。
ずっと遠くの方で、出場する馬が待機しているのが見える。鮮やかなレース場の中で黒や茶色をした馬は目立つ。そのうちに、観客が増え始めて、どこか張り詰めた空気がスタンド内に満ち始めた。風がない日なのもあって、僕はシャツの内側にじっとりとした汗をかき始めた。
ファンファーレが鳴って、レースが始まった。けれど、それは大抵一瞬で終わる。少し離れた場所にいる僕からは、そこら中にいる観客でレースの途中経過がちゃんとわからないし、ゴールをしてもどの馬がどれなのか覚えていないので、馬がゴールした瞬間の湧き立つ歓声や空気にノリ切れた試しがない。隣に座るケニーも、ゴールの瞬間を見ても特別声を上げたり立ち上がったりはしない。以前大穴を当てた時は、身を乗り出して「おっ」と声を漏らしてはいたけど、そのくらいだ。今日も、頬杖をついたまま無言でレース終了までを眺めていた。
「どうだった?」
「あんまり良くなかった。半分くらいは戻ってくるけど」
「そっか」
ケニーは落ち着いた声で「払い戻ししてくる」と言って、屋内の方へ行った。僕はその間に、バッグから水筒や作ってきたサンドイッチを取り出して準備する。スタンドの中は日差しのおかげで作り物みたいに明るく、写真を撮られている馬たちの姿が、まるで映画の中の光景のように見える。
戻ってきたケニーと一緒に、僕はお弁当を食べた。競馬場で食べるサンドイッチは、何だか紙のような味がする。サンドイッチを咀嚼しながら、合間にぽつぽつとお喋りをする。ケニーは最近母親が老人ホームで夜勤の仕事を始めたこと、妹が絵画コンテストで銅賞を取ったことを話した。僕はそれに頷きながら、この前の休みにクレイグと海に行ったことを話した。海は生温い空気が漂っていて、あまり暑い日でもなかったからか、人は少なかった。靴に纏わり付く砂を蹴って払いながら、僕たちはぼんやりと歩き続けた。途中、灯台があって、僕らはその中に入って天辺まで登ってみた。灯台の中は昼間なのに暗く、上に行くにつれて閉塞感があった。一番上にたどり着いて、外に開けた場所へ出たクレイグは「海を見よう」と言ったけど、僕は怖かったので断った。そこは転落防止用の腰まである柵でぐるりと囲まれていたけど、僕が手を置いた瞬間に崩れそうな気がした。クレイグはしばらくその柵に寄りかかって、海鳥や、はるか下の海をじっと眺めていた。そのあと、灯台の中に戻ったクレイグは「ここでセックスしよう」と言ったけど、僕は拒絶した。不衛生だし、そんな気分にはなれなかった。帰りは、来た時と同じようにクレイグの運転する車でサウスパークへと戻った。クレイグは、ケニーに作ってもらった偽造の運転免許証を持っているので、実質無免許運転だった。あの後、クレイグが黙ってお父さんの車を借りたことが、バレてなければいいなと思った。
ケニーはそのあと、一度も馬券を買わなかった。「今日はついてない気がする」と言っていた。それから1時間くらい芝生の上でケニーと駄弁っていた。
シートやお弁当を片付けて、馬券を買った場所まで戻ると、驚いたことに人混みの中にクレイグがいた。どぶみたいな色の服を着込んだおじさん達の中で、青いジャケットを着ているクレイグの姿は、顔立ちの綺麗さも相まってひどく浮いていた。クレイグは無言で立ち尽くしたまま、僕とケニーをじっと見つめてこちらを待ち構えていた。どうしてクレイグが、と驚いて立ち尽くす僕に、ケニーが耳元に唇を寄せて、ぬるい息とともに僕に囁いた。
「僕が呼び出したんだ」
ケニーの息に撫でられて、耳たぶのうぶ毛がぞわりと逆立つのを感じる。僕はクレイグと見つめあったまま、ケニーの言葉を聞き続けた。
「ちょっと前から、クレイグが僕に聞いてきたんだ。時々トゥイークがどこかに居なくなるのはお前のせいかって。だから別にやましいことはしてないよって証明したくて、内緒で呼んじゃった」
ごめんね、と言ってキュートな笑顔を浮かべたケニーは、僕の手を取ってクレイグの方へ向かった。確かに、後ろ暗いことなんかしてないけど、クレイグが僕に対してそういった疑惑を抱えていた事実は、僕を不穏にさせた。だって、こうして僕がケニーと競馬場に来ている時、クレイグから僕に直接居場所を聞いてきたことなんか無かったから。僕に聞かなかったという事実が、ますますクレイグの疑いの強さを表しているようで、僕はひどく悲しい気持ちになった。
「奇遇だね」
ケニーはついさっき僕に教えたのが無かったかのように、クレイグにそう話しかけた。僕はクレイグの目の前に立つと、目を合わせたく無くてひたすら自分の足元を見つめ続けた。
「うん」
クレイグが低い声で、ぼんやりとした相槌をうつ。そして僕の手を取って、「行こう、ハニー」と言った。ケニーが手を振って「楽しい週末を」と僕とクレイグに声をかける。そうされるとその場に立ち尽くすわけにもいかなくて、僕は黙ってクレイグに競馬場を連れ出された。
無言で歩き続ける間、僕はさっきまでの悲しみが少しずつ怒りに変わっていくのを感じた。依然として足元を睨みつけたまま、僕は口を開いた。
「浮気なんてしてないよ」
「知ってる。さっき見てたから」
見てたって言うのは、どこからどこまでだろう。芝生でお弁当を食べていたのも、見ていたんだろうか。
「なんで直接僕に聞かなかったの」
そう聞くと、返事の代わりに「はぁ」というため息が返ってきた。思わず顔を上げてクレイグを見ると、彼は空を仰いでいた。
「みんながハニーみたいにできるわけじゃないんだよ」
「なに?どういう意味?」
僕の言葉は、クレイグの「アイス食って帰ろう」という言葉でまたもや返事をされずに終わった。
クレイグに手を引かれ続けながら「クレイグは卑怯だ」と思った。僕だって、なんの不安もないまま、クレイグに「今何してるの」ってメッセージを送ってるわけじゃないのに。今すぐにでもクレイグの手を払い除けて、彼を置いて家へ駆け出していきたかったけど、それをしたらきっと明日からは恋人でいられなくなるだろうから、僕はただ黙って彼の手を受け入れ続けた。