トゥイークは前を行く看守の後に続いて、寒々しい廊下を歩いていた。塗装が剥げて鉄が剥き出しになった壁は、それだけでトゥイークに威圧感を与えた。トゥイークは俯いて、オレンジ色の作業服に包まれた、自分の手首を見つめた。
トゥイークは地方都市の端にあるこの刑務所に、6ヶ月の刑期で入れられた。理由は大麻所持だ。この都市では大麻の所持は認められていなかった。トゥイークはそれ知っていながら、大麻の運び人をしていたのだ。自身の両親に嫌気が差して、サウスパークを飛び出したはいいものの、カフェイン中毒のせいもあってまともな職に就くことができなかった。家賃の高いこの都市の中で、まともな生活を送れるほどの金をトゥイークが稼ぐにはこの方法しかなかった。
居住棟に入ると、ある部屋の前で看守が立ち止まった。目の前には鉄格子があり、そこに着けられた南京錠を看守が外しているところだった。鉄格子の外からは部屋の中が丸見えだった。部屋には奥行きがあり、薄暗いために外から部屋の隅々まで見渡せるほどではなかったが、それでもプライバシーが守られている様子はなかった。動物園みたいだな、とトゥイークは思った。
看守に導かれるままに部屋に入った途端、背後で看守が扉を閉めて、この場を去っていった。他の受刑者に紹介してくれたりはしないのか、とトゥイークは思ったが、しかし当然のことだろうとすぐに思い直した。ここは学校ではないのだ。善良な市民の税金によって経営されている、いわば更生施設なのだから。
部屋の中はわりと広く、左右に2段ベッドがいくつも置かれている。ベッドの下に引き出しのようなものがあるものの、鍵をかけられる作りにはなってなさそうだ。テーブルも椅子もなく、受刑者たちは立って壁にもたれたり、鉄が敷かれた床に座ったり、ベッドに腰掛けたりしている。
10名ほどの受刑者たちの視線が一気にこちらに集まる。トゥイークはかすれた声で「どうも」と言った。わずかな沈黙の後、受刑者の1人がこちらに近寄って「よろしく」と言って手を差し出した。トゥイークはその手を握り返す。それに続いて他の受刑者たちも「よろしく」と口にし始める。殆どの受刑者たちと言葉を交わし終わっても、1人だけ自分から声を上げない者がいた。部屋の1番奥、ベッドに座りたばこを吸っている。他の受刑者たちの視線や立ち位置で、その男がこの部屋のリーダー格なのだろうと思った。トゥイークは緊張した足取りで彼に近づく。トゥイークの背中に、彼の挙動を観察しようとする受刑者たちの視線が集まる。ベッドに座る男は、作業服を着崩して、中の黒いタンクトップを露出させていた。指の間にたばこを挟み(たばこなどの嗜好品は禁止されているとさっき看守に説明を受けたのだが)、煙を吐き出しながら上目で睨みつけるようにトゥイークの顔を眺めている。男の顔は随分と美しく、オレンジ色の作業服なんて着ていなければモデルにでも見えただろうにと思った。
トゥイークは額に脂汗が噴き出すのを感じた。どう声をかければいいものか、トゥイークが迷っていると、ふいに男が口を開いた。
「トゥイーク」
「えっ」
男の言葉に、部屋の空気が張り詰めるのを感じた。トゥイークはまだ、誰にも名前を名乗っていない。トゥイークは男の顔をまじまじと見返した。高い鼻や、切り傷のついた唇や、ピアスを着けた耳なんかを凝視する。この男が一体何者なのか、トゥイークが気づいたのは彼の顔立ちでも背格好でもなく、唇の隙間から覗くギザギザとした歯並びのおかげだった。
「……クレイグ?」
トゥイークがそう言うと、男は初めて笑顔を見せた。その笑顔はさっきまでの顔と一変して、子どものような無邪気さがあった。
「最後まで気づかなかったら、殴ってやろうと思った」
クレイグは立ち上がると、片手でトゥイークの両頬を挟み込むようにして顔を掴んだ。そのまま顔を揺さぶられる。押しつぶされた両頬で自然と窄まった唇から、「ウブブブブ」という声が漏れた。脳みそがシェイクされるのを感じながら、知り合いと出会えたことでトゥイークは胸に安堵が広がるのを感じた。
「新入りにしては、君は良い扱いをされてると思うよ」
マイケルと名乗る、同じ居住棟(部屋はトゥイークとは違う)の男はそう言った。トゥイークとマイケルは、中庭に続く石畳の階段に座って話をしていた。空は曇り空で、ぬるい風が2人の額を撫でていた。
「ほとんどの新入りはさ、入った次の日には汚い仕事をさせられるんだ。排水溝の掃除とかね。ゴギブリとか固まったザーメンが浮いてるようなところを掃除するんだよ。新入りが掃除してる目の前で、わざと残飯を排水溝に捨てる奴もいる。それに比べたら君は……」
マイケルはそこで口を閉ざすと、声を出さずに笑った。親しみを感じさせるような無邪気な笑顔だったが、目尻に寄った皺がどこか不気味に感じられた。目の前のマイケルも、新入り時代に同じことをしたのだろうとトゥイークは思った。
「なんで僕はさせられないのかな……」
トゥイークはそう言うと、俯きがちになりながら目だけ動かして周囲を窺った。こうして話しているだけでも、周囲で壁にもたれたり地べたに座っている受刑者たちの視線が集まっているのがわかる。
「そりゃ、クレイグの恋人だったからさ」
「知ってるの!?」
トゥイークは思わず声を上げた。慌てて口を開こうとするマイケルを遮って、トゥイークは続ける。
「クレイグが話したんだろ!」
「いや!違うよ!大丈夫!」
マイケルはトゥイークの眼前で手のひらを振って、引きつった笑顔で宥めようとする。
「彼は……何も言ってないよ。ただ、君たちが話してる様子を見るとさ、何となく分かるんだ。ここにはゲイの受刑者も沢山いるし」
マイケルは咳のような笑い声を上げながら、トゥイークの肩を親しげに叩いた。嘘くさい触り方だった。
トゥイークは陰鬱とした気持ちになった。ここには入ったばかりだというのに、既に自分のセクシャルな情報が出回っているという事実が、彼に恐怖を抱かせた。
「アイザック!」
突然、背後から声をかけられた。振り返ると、髪を緑に染めた男が立っていた。男はトゥイークとマイケルの視線を受けると片手を上げて見せた。見覚えの無い顔をしていたため、他の部屋の受刑者だろうと思った。
「配食の時間だ。行こう」
それを聞いて、マイケルは_トゥイークにマイケルと名乗ったはずの男は、困ったような笑顔を浮かべて片眉を持ち上げると、緑の髪の男について行った。彼らの姿が見えなくなってやっと、トゥイークはマイケルと名乗った男が偽名を使っていたのだと気がついた。おそらく、トゥイークの口から他の受刑者に対して、自分の名前を出されたくなかったのだろう。1人になったトゥイークは、しばらく階段に座り込んだままじっとしていた。言いようのない悲しみが胸に満ちている気がした。けれど、周囲の視線に耐えきれなくなり、すぐに居住部屋に戻った。
数日暮らしてみて分かったのは、トゥイーク以外の受刑者がクレイグの名前を口にすることが無いということだ。彼らはクレイグを「彼」と呼んだり、「B棟のリーダー」という風に役職で呼ぶ。おそらく、馴れ馴れしく名前を読んではいけないというような暗黙のルールがあるのだと思った。そのために、ここ数日間他の受刑者の前で軽々しくクレイグの名前を口にしていたトゥイークは、周囲に対して自分の特別な_ネガティブに表すなら異質な立場を吹聴していたようなものだ。それに気づき、トゥイークはより一層陰鬱な気持ちになった。
しかし、クレイグは一体何の罪で入ったのだろう。クレイグがわりと攻撃的な性格をしているのはエレメンタリー時代から知っていたが、まさか殺人ではないだろう。おそらく自分のような軽い罪、例えば窃盗なんかで入っているのだろうとトゥイークは勝手に思い込んでいた。しかしここでリーダー格にまで上り詰めたというのなら、それなりに長くいることになる。クレイグの口から聞き出したいと思ったものの、居住部屋には四六時中トゥイークとクレイグ以外の受刑者がいる。2人きりでない場所で聞くのはトゥイークには躊躇われた。こうして、クレイグの犯した罪を知らないまま、トゥイークは刑務所で7回目の朝を迎えた。
トゥイークは看守に呼び出され、刑務所の厨房で軽作業を勤めるように言いつけられた。
飲食店で勤務していた経験と、ここ数日間反抗的な態度を見せなかったこと、他の囚人から頼まれて大麻やタバコの運搬をしていないのを看守に買われたのだ。どうやら厨房は慢性的な人手不足らしい。
以前から厨房に勤めていたサイモンという男に案内されて、トゥイークは厨房内を見て回った。初めてサイモンと対面したトゥイークは、思わず彼の作業服の胸に刺繍された名前を確認した。そこにはちゃんとサイモンという名前があった。
初日である今日は、仕事の説明や案内だけで終わるらしい。トゥイークはサイモンと同じように、白いネットで頭を覆い、半袖の白い作業服を着て、厨房用の白い靴を履き彼の後をついて行った。
サイモンは細身でありながら、鍛えられた体をしている。特に二の腕から手先にかけてそれが見て取れた。おそらく、日常的に食材を持ち運んでいるからだろう。600人前後の食事を作るとなれば、40キロ分の人参を上げ下げするなんてよくあるはずだ。その前腕に、刺青が彫られていることにトゥイークは気がついた。女が2人、正常位でセックスをしている絵だ。2人とも豊満な体つきをしており、顔は描かれていない。サイモンが厨房内の設備を指し示すたびに、腕に描かれた女の体に皺が寄ってぐにゃりと歪む。
「厨房に入って最低1ヶ月は、食材の盛り付けとか、あとポテトをマッシュするような仕事を任される」
そう言うと、サイモンはマッシュ用の道具をトゥイークに手渡した。トゥイークの家でよく見かけたものと同じだ。手の中でくるくると動かしてみたが、特別汚れたり錆びたりしている様子はない。こんな刑務所なので、厨房の中も衛生環境が悪いだろうと思っていたのだが、トゥイークの予想を外れていた。厨房の中も、手が届くところは清潔に保たれているように見える。しかし、調理台の下のわずかな隙間などは、ここから見るだけでも黒カビが染みついてるのが見えた。
「ああ、飲食店のバイトと同じだよね。最初は簡単な仕事を慣れるまでするんだろう?」
トゥイークはそう口にしたが、サイモンは無表情のまま黙ってトゥイークの顔を見返すばかりだった。何か妙なことを言っただろうかとトゥイークが焦り始めたところで、サイモンが言葉を返す。
「そういう意味もある。けど、第一に信用できない受刑者には刃物を持たせられないルールがある。持ち出して居住棟に横流しするやつがいるからだ。刃物の破片を食事に混ぜ込むやつも前はいた。調味係に傷を負わせたり、受刑者に刃物を食べさせて、他の盛り付け係なんかに罪を着せようとする奴も出てくる」
それを聞いて、トゥイークは大きく身震いをした。トゥイークの意思に反して体が震えて、指先が独特なリズムを刻んで揺れ始めるのを感じる。チックが再発したのだ。サイモンはその様子を見ても、特別反応しなかった。それよりもっとひどいチック症の人間を見たことがあるのかもしれないし、元々の彼の性格なのかもしれない。サイモンはトゥイークに対して一度も笑顔を見せていない。
「あと、ポテトをマッシュするのは、実際にはあまりしないかもしれない。ああいう形状の食事は、中に何かを混ぜ込むことができるからな。だから模範囚しかいないA棟くらいしかマッシュポテトは出ない。他の棟はベーコンポテトみたいに、固形のままで提供するはずだ」
「僕……、僕……」
トゥイークは震えながら声を絞り出す。この仕事を辞退しようとしたのだ。
「この仕事はやっておいた方がいいぞ。小遣い稼ぎができるし、他の奴らから頼み事をされて信用を稼げる」
「ア゛ッ!?僕に犯罪に加担しろって言ってるの!?」
「違う。こっちの作業棟に出入りする受刑者は自販機で合法的に物を買える。それを買ってこいって金を渡されて、まあお使いみたいなことをさせられるくらいだ。何か混入してくれって頼みは普通に断れ。刃物を運び出せって言われても断ればいい。断るより頼みを受けた方が後々酷いことになる」
「ヴヴ……」
トゥイークはサイモンから作業服を受け取った。そこにはサイモンのような名前の刺繍はされていなかった。おそらく、正式配属されるまでの間だけ着続けるのだろう。
厨房を見て回るのが終わると、トゥイークは最後にその日作った昼食を、厨房職員が使う試食スペースで食べることになった。自分たちが作ったものの味付けや柔らかさが適正か、又は異物混入を防ぐ意味でも、作業員は食べる必要があるらしい。
試食スペースは長テーブルと椅子が等間隔で置かれており、全体が淡いグレーで塗られた部屋だ。20名あまりの作業員が食事していたが、会話をしているものは殆どいなかった。全員、間を開けながらテーブルにつき、無言で食事をしている。唯一、先ほど案内してくれたサイモンと、見知らぬ黒髪の男だけは、トゥイークと離れたところで隣り合って座っていた。こちらに背を向けている彼らは、食事をしながら互いの耳元に唇を寄せて小声で話をしている。時折楽しげに肩を震わせる姿を、トゥイークはもそもそと咀嚼しながらぼんやりと眺めた。昼食は、エレメンタリー時代のランチを薄めたような味がした。