この歳に至るまで、性行為の経験が無かった。理由は明白で、他人に失望されたくなかったからだ。
「そういう行為」をしようとした時、ある種の「役目」を自分は課せられるだろう。ほとんどの女性が相手の男に求めるだろう振る舞い――最中のあれこれや、ことが終わり並んで横たわっている時にするべきトークまで――それらを完璧にこなせる自信がなかった。きっと落胆させるだろう。それならまだ良い方で、彼女たちの自尊心を傷つけるかもしれない。他人を傷つけること、失望させること。過去の自分が、一番に恐れていたのがそれだった。
性欲はたしかにあった。ただ、生身の人間にぶつけたいとも思えなかった。だから一人で発散することを好んでいた。
こういうことを考えている時に、いつも思い出すのはアルハイゼンのことだった。今現在の彼ではない。一番、友人として適切な立ち位置にいた時の――共同研究をする直前の頃だっただろうか? あの頃の自分は、彼によく見られたいと思っていた。知性的で、はつらつとしていて、聡明な人間だと思われていたかった。今思うと、愚かだとしか思えない。それでも病的な必死さで、当時はそう考えていたのだ。
もし、自分に行為の経験がないと彼が知ったら、どう思うだろう? 失望するだろうか。内心馬鹿にするかもしれない。彼の性格を思うと、経験の有無についてさしたる興味もなさそうだった。それでも、他人を見定める時の時の指標のひとつである可能性は、決してゼロではないのだ。
「昔の君は可愛らしかった」
そう言うと、アルハイゼンは本から顔を上げてこちらを見た。昼間で、彼の家に二人きりだった。
「あの頃の僕は、君に心から尊敬されていたのかと思うと、当時に戻りたくなるよ」
自分が言っているのは、アルハイゼンが教令院に入学して、そう長く経っていない頃のことだ。当時の彼は、それはそれは可愛らしい姿をしていた。まだ子供で、「少年」という言葉さえ似合いそうになかった。色白の肌に、まつ毛の長い大きな目。女の子だと言っても皆騙されただろう。髪型は今とそう変わりはない。普通のショートカットだった。けれどもそれが、植物の茎のように華奢な首を際立たせていたし、着飾ることを知らない無垢さを表しているようにも見えた。それが今やどうだろう。どうやったって見間違えようもない男の体格をしている。めったに笑わない顔も、昔ならば思慮深く見えただろうが、大人になった今じゃ不愛想という言葉の方が先に思い浮かびそうだ。
対して自分の方は、あの頃とさして変わっていない。背丈は確かに伸びているが、顔のつくりなんかは、アルハイゼンの変化に比べるとほとんど無いようなものだ。当時の自分は、同世代に比べるとはるかに早熟だった。成長期の訪れが他人より早く、同じ学年の中でも頭一つ分背が高かった。早いというだけで、それから数年後には身長を追い抜かれることもままあったが、それでも、周囲よりも頼りがいのある、大人びた人間として見られるには十分すぎる要素だっただろう。
当時のアルハイゼンからすれば、自分は尊敬に値する人間だったはずだ。子供にとっての二歳差は大きい。自分よりも知性的で、思慮深く、洗練された存在としてきっと見えていた。幼少期の彼がいつかの僕のように、僕からよく見られたいと思ってくれていたらどんなに良かっただろう。僕との会話の中で、気の利いた返答ができるようにと頭を悩ませたり、理知的に見られようと必死になっていた時期があって欲しい。そうすれば、今の自分が報われるような気がした。
実際のところ、彼がそういった「妄執」を抱いていたとしても、それはすぐに醒めていたはずだ。自分の方は、共同研究の前後あたりまで、その執着に悩まされていたけれど、現実を捉える正確さは彼の方がずっと長けている。
「君はあんなに僕のことを慕ってくれていたのに、今はこんな風になってしまったし」
「俺のせいだと言いたいのか?」
その返答に、言葉が詰まる。彼のせいではない。結局、お互いが見ていた虚構によって、尊敬しあえる先輩と後輩になれていただけだ。その虚構が剥がれて残った本来の自分は、彼にとって慕うに値しない人間だった。その事実を噛みしめると、胸に苦いものが広がっていく。
「君のせいじゃない」
絞り出すようにして、なんとかそう答える。
「ただ、あの頃が一番、僕にとって理想的な関係だっただけで……」
「今は違うのか?」
「いま?」
「今の俺は」
こちらをまっすぐに見つめる彼の瞳に、はたと目が吸い寄せられる。何の感情も浮かんでいないように思えた。しかしそれは、自分にだけそう見えているだけで、想像もつかないような嘲りや侮蔑が、今この瞬間に向けられているとしたら? 他の誰でもない、この男に。そう思うとあまりに怖かった。アルハイゼンの言葉の意図が、分からなかったせいもあるのかもしれない。頭が痛い。俯いて、額を手で支えた。
「寝る」
そう言い残して、彼に背を向けて自室に向かった。こういう時、議論を強引に断ち切って部屋に逃げ帰るのはよくあることだった。だから彼の方も、さして違和感を抱かずに済んだんじゃないかと思う。もしかしたら自分は、いつもみたいに意地の悪い言葉で彼にからかわれたかったのかもしれない。自分の発言を、馬鹿馬鹿しいことのように扱われたかった。そうすれば、悪い夢みたいだった過去の執着や自意識を、自分でも笑い飛ばせるような気がしたのに。
自室のベッドで、枕に突っ伏して死体みたいに寝転がる。今すぐに寝るつもりはなかった。軽くシャワーを浴びて、部屋着に着替えてから、夕方くらいまでひと眠りしようと思っていた。起きたら自室で模型をいじるか、本を読むかしていよう。そうすればアルハイゼンと顔を合わせずに済む。部屋の外から話しかけられても、まだ寝ているふりをして無視すればいい。
枕に顔をうずめたまま、耳を澄まして家の中の様子をうかがう。バスルームに行くには、居間を通らなきゃいけないから、どうしてもアルハイゼンと鉢合わせる。彼が部屋を移動するか外に出た時にシャワーを浴びに行けばいいと思った。けど、そうこうしているうちに睡魔がやって来て、いつの間にか眠ってしまっていた。
「カーヴェ」
そう呼びかける声を聞いて、自分は目を覚ました。正確には、その少し前、近づいてくる足音によって意識が覚醒していた。ノックの音がして、ほとんど無意識に返事をしていた。「ああ」だか「うう」といった声をあげて。彼が部屋に入ってくるのと、ベッドから身を起こすのはたぶん同時だった。
「寝ていたのか」
思っていたよりも長く、寝ていたらしい。部屋は薄暗く、窓の外は藍色に染まっていた。もう夜なのだろう。彼がベッド脇まで近づいてくる。それを視界の隅に捉えたまま、目にかかる前髪をかき上げた。寝汗のせいで、体中がべたついて気持ち悪い。うなじに髪が張りついているのが不快だった。
「俺は外に食べに行くが、君は?」
「え?」
「夕食のことだと言っただろう」
アルハイゼンの言葉を聞き逃していたらしい。部屋の隅々まで、夜の気配で満たされている。壁も机も薄青く染まっていて、なんとはなしにそれを眺めていたせいだ。
「ああ……」
適当に相槌をうつ。寝起き特有の不快感が自分にそうさせた。寝つく前に、彼と喧嘩じみた言い合いをしたせいもある。彼の目が、こちらの顔にじっと注がれているのが分かり、その視線にも苛立っていた。はやくどこかに行ってしまえばいい。アルハイゼン以外の誰であろうと、口をききたくないし目も合わせたくなかった。
不意に、アルハイゼンの手がすくい上げるようにして僕の頬に触れた。驚いて、俯いていた顔を上げる。いつの間にか目の前にいた彼と、視線が交わった。静かな目だ。白い顔が、薄闇の中でぼんやりと浮かび上がっている。
ずいぶん変わってしまった、と、幼少期の彼を思い出して、自分はそう思っていた。けれどこうして見ると、薄い唇や下まつ毛に、面影がたしかに残っている。指先から、ぞわぞわと這い上がってくるものがある。アルハイゼンの手は、頬に触れたままだ。何かしらの言葉を、彼が求めているように感じた。未だ触れ続けている手がそれを表している。けれど、それがなんであるかなんて、僕に分かるわけもなかった。だから、頭に思い浮かんだことをそのまま口にした。
「きれいだな、君」
影が、体を覆っていた。気がついた時には、彼の唇が押しつけられていた。アルハイゼンから与えられたものとは思えないくらい、甘やかな電流が体の芯を走る。もつれ合うようにベッドに押し倒された。
互いの手足が触れ合う。行為は、思っていたよりもずっと、奇妙で反理性的だった。挿入はしなかった。それでも十分すぎた。開かれていくのに、閉じていく。収束しているのに、広がっていくような心地がして、その核に、快感と呼ぶべきものがあった。
彼に執着し始めたのがいつからなのか、あまり覚えていない。肩の上でやわらかく揺れる金の髪は、ずいぶん早いうちから目で追っていた。彼の髪には、スメールの陽射しが良く似合う。風が吹くと、いっそう光を含んでなびいていた。
知り合ってすぐの頃から、彼はこちらに笑いかけてきた。ただ目が合っただけの時でもだ。目を細めると、あの赤い瞳が、輪郭を失ったように笑み蕩ける。その目に見つめられただけで、人は皆自分が特別であるように錯覚した。自分もそのうちの一人だった。気難しい子供だと思われていたこともあって、自分に笑顔を向けてくれる人間は、祖母のような家族ばかりだった。
「アルハイゼン」
教令院内で、自分を見かけるたびに、カーヴェはそうやって笑いかけてきた。遠くから手を振ったり、こちらに駆け寄ってくることもあった。
「きみ、きれいな手をしてるんだな」
図書館で、開いた本のそばに置いた自分の手に、彼がそう言って手を重ねてくることもあった。そういうことがあるたびに、自分はその笑みを向けられるのにふさわしい、価値のある人間のように思えてきた。カーヴェ自身に輝かしい価値があり、そのお眼鏡に適った人間もまた、選ばれた存在であるかのように。実際にはそうではなかった。自分がそれに気がつくのは早かっただろう。彼の周囲をよく観察していたからだ。
カーヴェは誰にでもそうしていた。そして、彼に声をかけられた人間は皆、恍惚とした表情を浮かべて彼の言葉に聞き入っている。「信奉者」はすぐに増えていった。彼は求められたらすぐ応えていた。話しかけて欲しそうにしている学生には、率先して声をかけていた。彼の中で、自分は特別な人間ではないのだろう。そう気がつく頃には、陶酔じみた想いは完全に鳴りを潜めていた。
カーヴェの成長期は早かった。背の高さだけでもそれが見て取れた。けれど、「男」になるのは自分の方が早かったんじゃないかと今でも内心そう思っている。本のページをめくっている時、ふと視界に映る自分の手の、骨ばった手の甲に戸惑ったこともある。ほんの数週間前まで、こんな風ではなかった。指は長くなり、関節が目立つようになって、肉が削げ落ちて柔らかさとは程遠い体になっていく。背が伸びるほどに骨がきしみ、その体の痛みとは別に、むず痒いような、皮膚の下を何かが駆け抜けていくような、奇妙な感覚まで当時はあった。
そういう時に必ず思い浮かべるのは、カーヴェのことだった。妄想の中で、自分は彼をベッドに組み伏せるか、手にした刃物で脅すかして、彼に言うことを聞かせようとするのだ。刃物をちらつかせた段階で、彼の目には明らかな怯えの色が走っていた。目の前の光景を受け入れられないという風に、カーヴェは蒼ざめた顔で咄嗟に目を逸らす。その隙に押さえつけてしまえば、あとはもう簡単だった。自分の体の下で縮こまり、怯えた目でこちらを見上げる彼の姿。一度つけた傷の上を、何度も何度も刃物でえぐるようにして、その光景を幾度も思い描いていた。
妄想の中で、服を脱げと命令したこともある。彼は組み敷いた時よりも、むしろ怯えているような、異様なものを見るような目をした。逡巡の後に、彼は制服のボタンに手をかけた。絶望しきったような、それでいてほんのわずかな期待もある目をしていた。次の瞬間にはこの悪い夢から目を覚ますことが出来るんじゃないか、という期待だ。我ながら、本物の彼のように精工な出来栄えだったと思っている。ただ、制服の下にある素肌だけは、無から創り出した故に自信が持てなかった。
付け加えると、当時の自分に性的な知識など無いに等しかった。ベッドに組み敷いたのも、押さえつけるなら寝台の上が楽だろうと思っただけであるし、服を脱がせたからといって、「その先」まで想像が行きつくことはなかった。ただ、そうした方が彼に屈辱を与えられるだろうと思ってのことだった。それから歳を重ねて、それらのことを学んだ時、自分が今までしてきたことは、本能に基づいたものであったのだろうという確証を得た。
どうして傷つけたいと思ったか。それもまた明白で、優しくするよりもずっと、傷つける方が彼の核に残り続けると思ったからだ。病人の肺に巣食う病のようにして、自分は彼の中に居続けることが出来る。彼の父親のことや、卒業後に母親がした再婚のこと、その後の彼の様子について知っている今現在の自分からすると、やはり正しい推測だったのだろうと思う。
現実世界で彼の身長に追いついた時、妄想の中で刃物はもう必要としていなかった。「その先」の行為については、明確過ぎるほどの像をもって脳裏で繰り返し続けた。
そこまでしても尚、本物のカーヴェにそれをしようとは思わなかったのは、恐れがあったのかもしれない。鏡は一度壊してしまえば、もう元には戻らないだろうから。
カーヴェの自室を訪れるのは、あまり好きではなかった。部屋中に満ちた彼の気配や呼気に、心がざわめくから。ちょうどベッドから身を起こしたらしい彼の、寝乱れたシャツや、目元にかかる髪を見る。月明かりの中で、剥き出しになった足首が、夢のように白い。汚されるためにあるように思えた。
「寝ていたのか」
そう尋ねても、だるそうに首を左右に振るだけだった。返事のつもりなのか、そうでないのかもよく分からない。彼の伏せたまつ毛や、乱雑にかき上げられた前髪の一本一本にまで、疲労が滲んでいるように見えた。きれいだと思った。
もしかしたら、と良くない想像が頭に思い浮かぶ。もしかしたら、これから続く人生の中で、今日が一番、彼を傷つけられる日であるような気がした。昼間、彼にかけられた言葉を思い出す。
「昔の君は可愛らしかった」
「君はあんなに僕のことを慕ってくれていたのに、今はこんな風になってしまった」
あの頃の自分と、今の自分とでは、何一つ変わっていないと言えば驚くだろうか? 少なくとも、妄想の中で彼を相手にし続けてきた遊びは、ずっと同じままだ。今ここで、無理やりにでも組み敷いて、体を暴いてやりながら「子供の頃からずっと、君にこういうことをしたいと思っていた」と告げたら、どれほどまで傷つく? 一生治ることのない傷跡のように、芯まで腐らせて、彼を犯せる気がした。
「カーヴェ」
頬に触れた。ためらいはなかった。すぐにでも引き返せることだと分かっていたから。大きな瞳と視線が交わる。潤んだ赤い目は、池に落とした宝石のように輪郭が蕩けていた。見つめ合った瞳から、透明なものが流れ込んでくるように感じる。抜けるように白い肌と、整った鼻梁と唇とが、呪いのように身を蝕んでいくのが分かった。
今すぐ、ここから立ち去るべきだ。冷静な頭がそう言っていた。今の自分たちは、当時の二人ではない。どちらも子供ではなかった。頭の中で散々弄り返してきたあのカーヴェとも違うのだ。そう反芻しようとした途端に、「アルハイゼン」と彼が言った。
「きれいだな、君」
頭が焼き切れるような心地がした。「きみ、きれいな手をしてるんだな」そう言って、白い手を重ねられた時のことが瞬時によみがえる。あの時、頬を寄せ合った二人の間で、彼の髪がカーテンのように零れ落ちていた。
唇を奪った。乱暴に彼を引き寄せて。そこから覆いかぶさるまではあっけなかった。それは頭の中で何度も繰り返してきた行為と同じだったからだ。抵抗されていれば、まだ引き返せた。それなのに、彼が確かに脚を絡めてきたのがいけなかった。
妄想の中で思い描いてきたものと、何も変わらない。すべてが期待通りだった。暴けば暴くほどに、自分の形が、明確になっていくような興奮を覚える。開いては収束していく、引き絞られていく何かを感じた。カーヴェもまた、同じものを感じてくれているのかは、知るすべが無かったけれど。