みんなあたまがおかしいようです(2/4)

「話を戻しますけど」

 私はそう言った。本当は戻したくなんてなかったけど、そうでもしないとこのお喋りがいつまでも終わりそうになかったから。
 そもそもとして、彼は何の目的があって、私を呼び出してお喋りを続けているのか。自分が自殺の後押しをしたという疑いを、彼女の親友にだけは晴らしておきたかったから?
 
「先輩が言った『別の理由』って、このことなんですか?」

 「知っちゃったんだよね、それらしい別の理由」と言って、彼はこの画像を見せてきた。机の上に置かれたままの、スマホを伏し目で見つめたまま私はそう訊ねる。画面には未だ、あの黒板が映し出されていた。こうやって遠目から見ると、やっぱり卒業式とか誕生日によくやるような黒板アートと同じものに見えてくる。

「うん」
「これが自殺の原因になったと」
「自殺に追い込むほどじゃないって言いたいんだ?」

 先輩がスマホを手に取る。ポケットにはすぐに仕舞わずに、そのまま手の中でもてあそんでいた。

「そりゃ、ブスとか死ねとか、直接的な言葉は書かれてないけどさ」
「……」
「でも、これが原因の一端かもしれないくらいのことは思ってたよね? だってそうじゃなきゃ……先生や警察に事情聴取されてもまだ、この嫌がらせのことを伏せてるんだから」

 先輩が、またスマホを机の上に投げ捨てた。机とスマホがぶつかり合う音が、やけに大きく部屋に響いた。

「なんで黙ってたの?」
「それは……」
「君だけじゃなくて、他にも聞き取りされてたクラスの子たちにも言えるけど」
「蒸し返したくなかったんです」
「起こった当日でさえ知らせてなかったのに、今さら話しても混乱させるだけだって?」
「はい」
「あの嫌がらせの後もクラスで特別いじめが起こることはなかった。だからあの自殺の原因であるとは思えない。後ろめたくはあるけど、これ以上自殺未遂のことで疑いをかけられるのは嫌だった──そんな感じかな?」

 彼の指摘の通りだった。
 私は何となく、あの悪戯が自殺の要因であったかもしれないと思いながらも──結局は大人たちに教えなかった。
 実際のところ、うんざりしていたのだ。今まで普通に生活していたのに、それが一変して短縮授業やらでバタバタして、警察からの聞き取りに応じなければならない。一度呼び出され、自分の知っていることを全部話し終わりホッとしたかと思えば、現場検証した結果別の可能性が浮上したから、とまた別室で聞き取りに応じるように言われる。ほんの数分で終わるような些細な確認についてもだ。
 飛び降りがあった当日は、野次馬根性というべきか、不謹慎だと思いながらもこの異様な状況を楽しんでいるような空気がクラスにはあった。

 今は、違う。
 正直に言ってしまえば、みんなうんざりしていた。早く終わって欲しいと思っていた。他のクラスからの好奇の目、教室に充満する張りつめた空気。今冷静に思い返してみると、当時クラスのみんなは、こんな風に思っていただろう。
「あいつが勝手にやったことなのに」
「野分さやかが、勝手に告白して勝手に傷ついて、勝手に飛び降りただけだ」

◆◆◆

「あいつが勝手にやったことなのに」
「野分さやかが、勝手に告白して勝手に傷ついて、勝手に飛び降りただけだ」

 薄情と思うかもしれないけど、それがクラスの総意だったはずだ。その思いからみんな教師に教えなかったに違いない。もうこれ以上、場を引っ掻きまわされたくなかった。このまま、片思いの相手にふられたことが原因ということにしておけば、あの飛び降りは思春期特有の不安定なメンタルが引き起こしたものということになる。つまり全て、本人のせいになるというわけだ。

 私たちが自殺の片棒を担いだことにはならない。これ以上変な詮索をされることもない。頭のおかしな生徒が一人混じっていただけの、気の毒なクラスとしていずれは認識されるだろう。そうすれば、好奇の目も収まる。
 
 そう思っていた。そう思いながら、こんなに冷徹なことを考えているのは私だけなんだろうとも考えていた。

「だから、君にとっては割と意外だったんじゃない?」
「何がですか?」
「君以外の子たちも、先生に告げ口というか、証言しなかったことについてさ」
「そう思ってるように見えますか」
「自分は言うつもりはないけど、どうせ他の子が警察に話してしまったんだろうな、って当時は思ってたんでしょ」

 先輩の指摘通りだった。
 私たちは、生徒同士お互いに把握できないようにか、バラバラな時間にそれぞれ一人ずつ聞き取りが行われていた。登校してすぐとか、昼休み中とか、部活中に先生に呼び出されて、という風だ。だから私は、クラス全員に聞き取りしたのか、一人何回されたのか、ということさえも知らない。

「だから、大多数は口をつぐんだとしても、罪悪感に負けた数人が、打ち明けちゃうだろうなと思ってた。でも、先生は未だに言及してこないし、捜査は落ち着き始めている。予想に反して、誰もあのことを話さなかったんだ。口裏を合わせていたわけでもないのに」

 先輩が心を読んだように言う。

「分かりやすいよ、君」

 私の目を見つめて、彼が言う。その視線を受けて、私は無意識のうちに自分の顔を触っていた。

「無口だけど、顔に出るね」
「はじめて言われました」
「菜乃ちゃん」
「はい」
「ほら、嫌そうな顔!」

 先輩は笑った。どうやら私は、この人に名前を呼ばれるだけで嫌そうな顔になっていたらしい。

「菜乃ちゃん菜乃ちゃん菜乃ちゃん」
「……」
「あはははは」
 
 楽しそうにしているのは気に食わなかったが、好きにさせることにした。機嫌良さそうにしていてくれる方が、私としてもありがたかった。私はこの場についてから、「早くこの場から解放されたい」という思いからやり過ごしていた。けれどそこに、「貌鳥先輩を怒らせたくない」という気持ちが無意識のうちに加わっている。
 早くここからいなくなりたい。そしてできれば、この男を刺激せずに事を終わらせたい。私の頭にはそればかりあった。

◆◆◆

「ていうか、また横道に逸れちゃった」
「横道?」
「なんであの黒板が自殺の後押しになったかって話」
「ああ」

「いや、変な勘繰りをしなくても、あれはそのまんまあの子にとって屈辱だったと思うよ? こういう言葉は使いたくないんだけど、カースト高かったらしいし。中学時代はいじめまがいのことも女子にしてたらしいじゃん」
「そうみたいですね。私は違う中学なので事実かは知りませんけど」
「へえ、知ってて仲良くしてたの?気が知れないなあ」

 この人にこういう常識的な突っ込みをされると反論したくなる。お前が言えた義理じゃないだろう、みたいに。

「ただそれでも、自殺までするか?って君は考えてる」
「はい」
「いや、そこに関して俺は同意見だよ。俺も昔似たようなことされたし」
「されたんですか?」
「え、知らない?」

 先輩は言った。
 あれは中学三年生の頃だった。登校して教室のドアを開けると、黒板に相合傘が描かれていた。黄色いチョークで、丸々一本使い切ったんじゃないかというほど面積いっぱいに。先輩の名前と、現国を担当していた女教師の名前があったのだと。先輩はその女性教師と、教師と生徒以上の接点はなかったのだが何故か彼女が選ばれていた。既婚の、四十代の子持ちの先生だった。

「やっぱりショックでしたか?」
「いや、全然」
「はあ」
「そこはすごいですねとか言うもんじゃない?」

 すごいと言うべきなのかな。称賛するべきものではないような気がするけど。

「俺が別に気にしなかったのはさ、クラスメイトから嫌われてるって理解してたから」

 先輩が事もなげに言う。この人は徹底して、他人からの敵意を気にしていない。

「でも、さやかちゃんはどうだろうねえ? カーストが高くて、気が強くて、まあ割とグループ問わず女子とお喋りしてたみたいだけど。自分が嫌われてたなんて──」
「思ってなかったと思います」
「やっぱり」
 
 先輩は笑みを濃くする。嫌な男だ。わざと言葉を切って、私が断言するのを待ってたくせに。

じっさい
「ねえ、じゃあ君に置き換えてたとえ話をしてみようか」
「はあ」
「君はある日、自分の内履きに画鋲が入れられてるのに気づく。君は画鋲を取り除いた後──きっと誰にも言わないまま、何事もなかったかのように過ごすよね?信頼できる友達には打ち明けるかもしれないけど、特別騒ぎ立てたりはしない」
「まあ、そうすると思います」
「それが何日、何週間も続いてとして、君は少し憂鬱になるくらいで、不登校になったりはしない。あの画鋲を入れてるのは誰だろう?あの子か、それともあの子か……みたいに疑いを持ちはするけどね」
「そうでしょうね」
「でも、それがさ、君がいる教室のど真ん中で『今度は誰が巣守の靴に画鋲入れるんだよ』って、堂々と話してるグループが突然現れたら、どう?」
「……それは、少し」
「傷つくよね~~~~」

 妙に楽しげな口調で、先輩は断言した。

「結局、いやがらせで一番人を追い詰めるのはさ、その被害の大小よりも『こいつをいじめてもいい』っていう共通認識が出来上がってるかどうかだよね。コソコソやってたらまだマシで、座ってる子の背中に消しゴムを投げつけるのも、悪口を書いた紙を授業中にみんなで回すのも。そういう種類のものでしょ。いじめてるのを他のクラスメイトに見られても構わないって扱いにまでなってる。嫌がらせ自体は軽いものでもさ、お前に味方は居ないって思い知らされるのはきついものがあると思うよ」

 先輩がよどみなく話す。実体験ですか?と茶化す隙さえ与えないくらいに。

「で、話を戻すけどさ、朝教室について、黒板に悪意のありそうな落書きが、名指しで書かれてたとする。それを見つけてさ、見てみぬふりするのって普通はしないよね。だって名指しされた子がいずれはやって来て、それを見るわけだ。いたたまれないし、可哀想って思わない? #ふつう__・__#は」
「その子と特別仲が良いとか、好きとか嫌いとか関係なくさ、同じクラスなわけなんだから。自分への悪意を知った子が傷ついてさ、その子と一緒に自分も一日同じ教室で過ごさなきゃならないわけだ。その空気を考えるとさあ、何度も言うけど、友達じゃなかったとしても消してあげようって、ふつうは思うよね? もし自分が知らされてないドッキリの可能性を考えても、今はスマホがあるんだから、クラスの誰かにでも確認を取ればいい」

 先輩は話し続ける。その場に書かれている文を読み上げるみたいに。見てきたかのように。その顔は変に楽しげで、皮一枚の下には若干の興奮さえあるように思えた。自分とは無関係な、対岸の火事を指さすような、そういうエンターテイメントのように、悪意の輪郭をはっきりさせていく。

「でも、そうはしなかった。最初に教室に着いた一人はね。で、二人目、三人目と登校してきて、その人たちも悪意のある文章を消さずにいた。ねえ、そんなことってありえるかな?俺みたいな嫌われ者が相手ならまだしも。そんで四人目五人目。最終的には、二十人前後。クラスの過半数が揃っても誰もその子のために動いてくれなかったんだね。そのうえ、面白がってスマホで撮る子までいた」

 先輩が愉快そうに手の中で投げては受け止めた。
 ここまで丁寧に説明されると、彼が言おうとしてることが、私にも推測できる。
 あの子が自殺をするまでに追い詰められた原因は、黒板に書かれた嫌がらせそのものや、先輩にふられたことではなく──

「自分がクラス中から嫌われてることに、ショックを受けたんだろうねえ」

「それで、徹底的に落ちてしまった自分のカーストを引き上げる、というか周りに認めてもらうために最後の手段が、俺と付き合うことだったんじゃないの?」

◆◆◆

「それで、徹底的に落ちてしまった自分のカーストを引き上げる、というか周りに認めてもらうために最後の手段が、俺と付き合うことだったんじゃないの?」

 先輩は言う。「でも、そうはならなかった。自分を見下してる集団の中に、自分の尊厳を取り戻す手段もないまま戻りたくはなかった。それで思い詰められて──自殺を選んだって感じ?」と。

「みんな待ち構えてた、というか楽しみにしてたんじゃない?誰かあいつに嫌がらせして欲しい。自分が最初にこぶしを振り上げるのは嫌だけど、誰かがそれをしたら、喜んで後に続こうって」
「そんなに大勢から嫌われるなんて、あり得ますかね。先輩みたいな問題児ならともかく」
「実際、嫌われてたじゃん」

 先輩は、飄々と言ってのけた。そこに悪意や嫌味はなく、ただ書かれている数字の羅列を読み上げたみたいな軽さで。

「『わー様』だっけ。陰でそう呼ばれてたらしいね。『朝から数学って怠いわ』とか『普通に死んでほしいわ』みたいに話すから」
「そういえばそんな風に言われてましたね」
「驚かないんだ?」
「そのあだ名は前から知ってました」
「へえー。さっきまで、あの子がみんなから嫌われてるなんて知りませんでしたって言い方してたのに」
「知らないふりをしてたんじゃなくて、庇ってあげてたんですよ。一応、好きだった先輩にみんなから嫌われてたことを知られるなんてしたら、あの子が可哀想じゃないですか」
「話しててずっと不思議だったんだけどさ」
「はい」
「どうやって仲良くやれてたの?君たち」

 興味津々と言った風に先輩が聞いてくる。好奇の目を隠しもせずにこちらを見ていた。

「君ってすぐ顔に出るし、その子のこと、別に好きじゃなかったんだろうなあって、知り合ってすぐの俺でも分かるくらいなんだけど。それでも仲良し二人組としてやれてたんだ?」
「誰でも良かったんじゃないですか?あの子からすると」

 私はそう答えた。なげやりな返答に聞こえたかもしれない。でも、私からすると、あの子と同じクラスになってからずっと考えていた仮定だった。

「先輩、さっきから私のこと、顔にすぐ出るって言ってるじゃないですか」
「うん」
「でも私はさっき、それについて『はじめて言われました』って答えました」
「それがなに?」
「だから、すぐ顔に出る奴だって気づかれないほどに、誰も私に興味なんて持ってなかったんですよ」

 あの子もみんなも、多分そんな風だった。
 それに、落胆を覚えるつもりはない。だいたい私だって、他人に興味なんて持ってないのだ。こんなに長い時間、他人の顔を見つめてお喋りするのはいつぶりだろう。私が人と話すとき、たいていがスマホをいじりながらとかノートの隅を見ながらとか、どこか別の場所に視線をやりながらで、人目を合わせて喋る機会なんてあっただろうか?
 今の時代、スマホさえあれば色んなプラットフォームで沢山の人と関わりを持てる。趣味嗜好が自分と完全に一致してる人もいるし、絵でも音楽でもダンスでもプロレベルに極めた人は数えきれないほどいる。芸能人みたいにきれいな顔をした人も。同世代で絞り込んでも、前述したような人たちは両手に収まり切れないほどいるのだ。クラスで一番かわいい子、クラスで一番運動ができる子がクラス中の羨望を集めるのはもう昔の話だ。
 私たちは上ばかり見慣れ過ぎて、同じクラスの子なんかに興味を持つことなんてそうそう無くなってしまった。

◆◆◆

「私のクラスに限らず、他の高校生だってみんなそういうもんなんじゃないですか?みんな何となく『普段一緒にいても嫌な思いをしそうにない子』とくっつきあってるだけで。本当に仲良くしたいと思える子が校内にいる人ってそうそういますかね。通話でもSNSでも、外に『友達』を作りに行ける手段はいっぱいあるんですから」
「えー、怖いなあ。現代っ子。ジェネレーションギャップだよ」
「一つしか違わないでしょう、先輩は」
「俺たちの年代で一年差は遠いよ」

 でも、と、口元にうっすらと笑みを浮かべたまま彼が続ける。

「俺が今までの学校生活で浮いてた意味、分かっちゃったかも」
「そりゃ、先輩は暴行事件まで起こしたんですから」
「いや、それ以前の問題として」
 
 それ以前の問題? 私は頭に疑問符を浮かべながら先輩を見た。

「俺はさ、中学時代からそうなんだけど、陰でひそひそ言われるとか、こいつ本当は俺のことが好きじゃないのに無理してまとわりついてるんだろうなって分かると、すぐに口に出してたんだよね。俺のこと変な風に触れ回ってるよねとか、無理してくっついてこなくていいよとか。俺からすると何であんな風に、楽しくもなさそうなのにモダモダくっつきあって興味もなさそうな俺のことについてお喋りしてるんだろうってずっと不思議だったんだけど、それもあいつらにとってはさ」
「ただの社交だったんですよ」

 言い切って欲しそうだったので、私が言葉尻を受け継いであげた。

「はあーーー」

 先輩が自身の腕の中に顔をうずめる。その仕草で、彼の茶髪のてっぺんにある、つむじが私の視界に入った。
 他人のつむじを見たのって、かなり久しぶりかもしれない。頭の片隅でそう思った。

「先輩は求めすぎだったんじゃないですか? 今の高校生で、『かけがえのない仲間』みたいなのを校内のおともだちに求めてる人なんていませんよ」
「うん……」
「みんなどうでもいいことをその場しのぎに口にして、何となく学校生活をやり過ごせたら満足なんです」
「それ分かってたら、停学にならなかったと思う?」
「いや、どうでしょうねそれは」

 日々のフラストレーションが、そのまま暴行や非行に走る先輩には無理なんじゃないだろうか。人としてのストッパーが外れてるんだから。
 ただ、彼に対して、というよりも彼と同じ種類の人間には少し同情してしまう。今の時代の学校生活の送り方が、性に合っていない人は彼以外にも大勢いるだろう。平成で高校生をやっていたらもう少し違った青春を送れていたのかもしれない。

◆◆◆

「先輩、さやかと相性良かったんじゃないですか?」
「なんで」
「だって、あの子もある意味みんなに求めすぎな人種だったし、馴染めてなかったから」

 あの子は、とにかく愚痴と悪口が会話のレパートリーだった。人の好き嫌いも激しいし、気に食わないことがあればすぐに私を捕まえてその愚痴をぶちまけて、それでも収まらなければ他の女子数人にも悪口を吹き込んだりしていた。
 ただ、それは先輩と同じように、ある種周囲に「期待してた」からこその振る舞いだったのだろう。私は、愚痴も悪口も、わざわざ口にするほどまで思いつかない。少し不愉快な、肌がべたつくほどの空気が触れてはすぐに離れていったくらいの不快感しか覚えない。
 クラスの大多数もそうだったはずだ。ある教師の奇妙な癖について、もしくは時間割の順番や、テストの日程なんかでも。わめきたてたり面白がったりする熱量を今の高校生は持っていないだろう。

「菜乃ちゃんって性格悪いね」
「そう思いますか」
「一回ふって、自殺未遂までさせた子について相性良かったんじゃないですかって」
「たしかに不謹慎かもしれませんね」
「さっきも言ったけど社交性を身に着けたら?」
「でも、学校で浮いてるのは私より先輩の方ですよ」

 先輩は、授業中に居眠りするみたいに腕に埋めていた頭を、少しだけ持ち上げて私を見上げた。上目遣いで、「こいつ、うざいな」って思ってるのがその視線から分かった。

「ねえ先輩」
「うん?」
「せっかくなので、先輩の気持ちが軽くなるようなことを教えましょうか」
「俺は浮いてないってこと?」
「そうじゃなくて、自殺未遂した時のあの子は、随分取り乱してたって話です」

 何でこんなことを話し始めたのか。自分でも分からないうちに、私はこの人に同情しつつあったのかもしれない。

「先輩にふられた後のあの子は、泣きながらトイレにこもったんです。教室に近い、普段私たちが使ってる方のトイレじゃなくて、化学実験室近くのトイレです」
「知ってるよ。そこから飛び降りたんでしょ」
「ええまあ。そして昼休み中に、私は一度そのトイレに呼び出されてたんですよ」

 もう告白は終わったかな。そんな風に私が考えていた頃に、さやかからLINEが来たのだ。「実験室横のトイレに来て」
 私はそれだけで、ああ、ふられたんだな、と内心思った。もし付き合えたのなら、クラス中に響き渡るような声で私に報告しに来ただろうから。

「だから、慰めてもらいたいんだろうな、って思いながらあの子のところに行きました。結果はその通りでした。でも、私が想像してたのよりずっとあの子は取り乱してたんです。なのでこの後に、突発的に何かし出してもおかしくはないなって思いました。何かって言っても、それは学校を抜け出すとか、貌鳥先輩のクラスに行って変なこと言いだすんじゃないかなとか、それくらいのものでした」

 だから、自殺したと聞いた時、私は本当に驚いたのだ。

◆◆◆

 学校という空間は、他の建物よりずっと奇妙なつくりをしていると思う。その「つくり」とは、材質とか建築方法を指しているのではなく、数百人もの人間が押し込まれて日々を過ごさなくてはならないその活用方法のことだ。

 「実験室横のトイレに来て」

 あの子からそんなLINEが送られてきて、そこに向かっている間、私はそんなことを考えていた。内履きが床とこすれ合う感触。私たちの学年は、一クラス三十人弱で、それが五クラス分あるので、単純計算で百五十人がこの廊下と教室に閉じ込められているわけだ。
 百五十人分の呼気。それが周囲を満たしているのかと思うと不快になる。
 空気はなまあたたかい。昼休みという時間のためか、奇妙な熱気が折り重なった膜のように体を包んでいる気がした。もし私がいま声を発しても、すべてその膜に吸い込まれて、吐き出されたものは意味を持たない音として反響するように思える。

 教室棟を離れるようにして、実験室や家庭科室が立ち並ぶ場所に着く。喧騒や熱気は、もうずっと遠くまで離れていた。すれ違う人は一人もいない。室温が二度ほど下がったような気がした。

 トイレのドアを開けた。廊下よりも一気に薄暗く、狭められた空間になる。向かって右側に個室が並んでいた。
 正面には、あの子がいた。こちらに背中を向けて、窓に寄りかかるようにしている。頭はうなだれていた。
 女子トイレの窓は、普通の教室のものと同じで、胸辺りの高さにあるものだ。そこに手を置いている。窓は、開けられていた。普段は閉められている(女子トイレの窓なんて、いくら個室が外から見えないとはいえ誰も開けておきたくないだろう)のに。
 窓の向こうは、夏みたいな晴天だった。トイレの中が薄暗いせいで、外の明るさがやけに目立つ。まるで窓自体が映画のスクリーンのようだった。
 吹奏楽部の昼練の音がここまで届いていて、トランペットの音が、低く長く伸びていた。
 
「さやか」

 私はそう言って彼女に近づいた。彼女は背を向けたまま、何故か首を左右に振るような仕草をしてうつむいた。彼女の上半身が、窓の外へわずかに傾く。

「危ないよ」

 そう続けて言った。この時の私は、彼女が本当にそこから飛び降りるだなんて少しも想像していなかった。彼女はやはりしせんさえこちらに向けないまま「そういうのじゃない」と返した。たっぷりと涙で濡れた声だった。

「そういうのが、聞きたいんじゃない」

 じゃあ、どういうのだ。「告白、ダメだった?」とでも聞けばいいのか。
 すぐそばまで距離を詰めて、彼女がハンカチで顔を拭っているのに気付いた。白い、タオル地の分厚いハンカチだ。赤い花の刺繍が隅にある。あまりさやかには似合わない、シルバニアファミリーって感じのものだった。
 私は思い出す。そもそも普段ハンカチを持ち歩くことさえしない彼女が、放課後に駅ビルのファンシーショップでこれを買ったきっかけは、あの貌鳥先輩の存在だった。「ハンカチ、持ってない子より持ってる子の方が多分いいよね」と言いながらレジへと持っていく背中。まあ、そうだろうけどさ、とあの時は思っていた。つまり告白が失敗した今、明日からはそのハンカチはお役目御免になるのだろうか。

 まだぐしゃぐしゃと泣きながら、あの子はくぐもった声でこう漏らした。

「やっぱり、瞳先輩のことが好きなんだと思う」
「はあ」

 八宮瞳先輩。それは貌鳥先輩と付き合っているという噂の三年の女子生徒だった。
 私はその言葉を聞いて、嘘だな、とすぐに分かった。私はその告白を聞いていたわけでもないし立ち会ってもいないけど、瞳先輩の話題だって絶対に出なかっただろ、と。そもそもとして私たちは、瞳先輩が貌鳥先輩と付き合っているのか、ちゃんと本人に確かめに行ったのだ。
 それを踏まえて、今日こうやって告白しに行ったのに。今さらになって言い訳に持ち出すなんて、びっくりするくらいダサいと思った。でも、その惨めな振る舞いが、可哀想というか、この子に良く似合ってるようにも思えた。

「さやかにダメなとこがあったわけじゃないと思うよ」

 私はとりあえず、そんな風に慰めてみた。するとあの子は「そんなんじゃない」とよりぐしゃぐしゃになった声で言った。

「そんなのを聞きたいんじゃない」
「菜乃、いっつもそうじゃん」
「いつも菜乃は分かってくれない」

 堰を切ったように、彼女はそう吐き捨てた。顔をハンカチに埋めたままで。それはさっきまでの、瞳先輩がどうとかという言葉より、ずっと強く彼女の本心が表れているような気がした。ただ、それは、私自身を非難されたからそう思っただけかもしれない。
 ため息をついた。もちろんさやかには聞こえないよう、細く息を吐くやり方で。
 私はここにいない方がいいのかもしれない。
 そう思って、この場を離れることにした。私にやれることはもうなさそうだし、その子にうんざりし始めていたのも理由の一つだった。多分こういうのは、時間が解決してくれる類のものなんじゃないだろうか。分かんないけど。

「危ないよ」

 私は立ち去る直前、もう一度そう言った。それでも、まさかあの窓から落ちるなんて、少しも思っていなかった。

◆◆◆

「野分さんのことですよね? 先生に呼ばれた時から、そのことだろうなって思ってました。……いつも通りでいい、ですか? なら、そうさせてもらいます。さやか、でいいですよね? いつもそうやって呼んでたんです」

「多分、新しく教えられることはないと思います。初日に私が先生に話して、先生からそちらに伝わった時とほとんど同じだと思います」

「はい、その日は……特別さやかに変わったところはありませんでした。ただ、告白は一人で行くから、っていう段取りだけは午前中に言われましたね」

──なんで一人で告白しようとしたんだと思う?

「えっ……なんででしょう。やっぱり、恥ずかしかったんじゃないですかね。あと、貌鳥先輩に気を遣ったのかもしれません。ほら、私がついて行くと二対一になるので……先輩としても断りにくくなるじゃないですか。そういう気持ちが、あったんじゃないかって思います」

──落ち着いてるね

「……それは、そうかもしれません。でも、ショックはありますよ。悲しいし、なんであんなことしたのって気持ちもあります。それでも、最悪の事態は免れたわけじゃないですか」

「飛び降りはしたけど、さやかはまだ生きてます。刑事さんがすぐ見つけてくれたおかげですよね。私、すごく感謝してるんです。さやかは、まだ入院したばかりだから仕方ないけど、いつかは目を覚ますんですよね? 生きてますし、五体満足だってテレビのニュースでやってました。……すみません、困らせるつもりで言ったわけじゃないんです。忘れてください」

「昼休みは、一緒にお弁当を食べて、その後にさやかが貌鳥先輩のところに行きました。私は教室の中でスマホをいじってました。暇つぶしになるし、もしさやかから連絡が来たらすぐに分かると思ったからです」

「昼休みが終わる……十分前? ニ十分前? ですかね。刑事さん、多分さやかのLINEの履歴を調べましたよね? そうです。その時間にいったん、さやかからトイレに呼び出されたんです」

「その時点で、ああ、貌鳥先輩には振られたんだなって少しわかってました。それでさやかの所に行って……はい、実験室横のトイレです」

「さやかは泣いてました。窓のところにもたれかかるみたいにして立ってて……。窓? 開いてました。はい、確かです。風が入り込んでたのでよく覚えてます。その時にはもう死ぬつもりだった? ……分からないです。でも、そんな風には見えませんでした。ただ、先輩に振られたのがショックで泣いてるだけにしか見えなかったです」

「さやかは、瞳先輩の名前を出してたので、それが理由で振られたんだと思います。え? 貌鳥先輩は違うって言ってたんですか? ……じゃあ、私の聞き間違いだったのかもしれません。さやかはずっと泣いてましたし、ハンカチを顔に押しつけたまま喋っていたので、声が聞き取りづらかったんです。あと、言ってることも割とめちゃくちゃでした。他には……『そういうのが聞きたいんじゃない』とかも言ってましたね。私にも、ちょっと、ひどいなってことを言ってきました。大変だったね? ええ、まあ……」

「あとは、もう、ここに居続けても仕方がないなって思って、さやかを残して教室に戻りました」

──なんでそんなことしたの?

「うーん……他に何を言っても、さやかを傷つけそうな気がして……。私、さやかのためにできることは何も無いだろうなって何となく思ったんです。それと、さやかももうこれ以上私にいて欲しくないんだろうなって思いました。呼び出したのはさやかだけど、振られたって事実がやっぱり、恥ずかしいし、悔しかったんだと思います。だから、教室に戻りました」

「その後は……もうほとんど言うことも無いと思います。昼休みが終わってもさやかが戻ってこなくて、放課後になっても居ないので、先生に私から連絡を取ってみて欲しいと言われました。もうその頃には飛び降りてたみたいですけど」

「その時に私が送ったLINEも、刑事さんが確認したんですよね? 飛び降りの後に既読になったので、さやかの意識が戻ったのかなって一瞬思ったんですけど……いえ、本当に、困らせたくて言ったわけじゃないんです。ごめんなさい」

──貌鳥くんについて、何か知ってることはある?さやかちゃんが彼とお喋りしてたとか

「いえ、そういうのは無かったと思います。なんていうか、貌鳥先輩のことは芸能人みたいな目で見てたので、実際に話したりとかは無かったんじゃないでしょうか。LINEも友達登録してませんでしたし」

──これで最後になるけど、して欲しいこととかはある?

「して欲しいこと? あ、警察の方にってことですか? そしたら……さやかが目を覚ましたらすぐに教えて欲しいですね。それ以外で? ……じゃあ、もし貌鳥先輩がさやかにひどいことを言ったとか、そういうのが原因なら、ちゃんと貌鳥先輩に謝って欲しいです。いえ、私じゃなくて、さやかが目を覚ましたらって意味で。……いいえ、こちらこそありがとうございました。また何かあれば、いつでも聞いてください」

◆◆◆

「慰めに来てくれた、唯一のお友達である君にもひどいことを言って、あの子はずいぶん投げやりだったって言いたいの?」
「はい」
「そんな風になげやりで、全部どうでもいいなって気持ちだったから、あの子は飛び降りなんかしちゃったわけで、結局全部あの子の気の持ちようが全てだったって?」
「できるだけ先輩に責任を負わせずに解釈するとそうなるじゃないですか」

 プライドが高く、他責的な女の子が一人で勝手に空まわって自殺未遂を起こした。センセーショナルな感じは薄れるかもしれないが、世代ごとの在り方とかに対する問題云々なら、こっちの方が衝撃度が強そうではある。
 朝のニュース番組とか、お昼のワイドショーとかで取り上げられそうじゃないか。私たちの世代よりずっと年上の、何も分かってなさそうなおじさん達がしたり顔で「この世代に共通するのは」とか言いそうである。

「俺に一番悪者にならない説っていえば、あの黒板のことを原因にして欲しいんだけどね。面白半分にやった奴も中にはいるかもしれないけど、あの子にとってはクラス中が仮想敵みたいなもんで、それで追い詰められて死のうとしましたーっていう風にね」
「それは難しいと思いますよ」
「なんで?」
「だって、もうあらかた聞き取りは終わった後ですよ。そこに後出しでこんなことがありました、って伝えても、真実味は薄いんじゃないでしょうか」
「こうやって証拠の写真もあるのに?」
「証拠の画像さえあればひっくり返せるって本当にそう思ってるなら、もうとっくの昔にその画像を警察に渡してますよね?」

 あの黒板を書いた当人を庇うわけではないが、私はそう反論した。

「実際、その画像だけ見ても実情は分からないわけじゃないですか。ドッキリみたいにして、クラス中が告白応援してるよみたいな空気で終わったんですよってクラスメイトから供述されたら信じざるを得ないでしょう?」

 私はそこで、ふとある推測に思い至った。

「先輩はそれについて、私の方から先生に便宜を図って欲しいんですか?」
「便宜?」
「実はこんな風にいじめの兆候があった。と私から先生に打ち明けるんです。あの事情聴取の際には言い忘れていたけれど、と。そして他のクラスメイトからも、そんな風に先生にあの時のことをきちんと証言させるんです」
「俺が君にそうして欲しいって?」
「そうすれば、先輩は自分のせいじゃなかったってアピールできます。あの子の自殺未遂について、先輩に責任はありませんし、こうして処罰の対象にもされてないわけですが、やっぱり風当たりは強いというか、居心地が悪いわけで。だから、私たちがそう証言したら、少しは先輩への周囲の印象が改善されるんじゃないですか?」

 私はそこまで言い切った後に、こう付け加えた。

「そのために、私を呼び出したんですか?」

 そう、ずっと不思議だった。なぜ私が先輩に呼び出されたのか、ということについて。
 壁を伝う一筋の氷水の存在に、今ようやく気がついたかのようにして、改めてその疑問が頭に浮かんだ。

 こうやって、対話の席につかせて、当時のことについて、あれこれ根掘り葉掘り聞いているこの状況は、何のために設けられたものなのだろう。
 私はその根本的な疑問について、すっかり存在を忘れていた。対話に続く対話と、推測と議論を繰り返すうちに気にも留めなくなってしまった。本当なら、まず最初にそれを問いただすべきだったのだろう。
 私は何のためにここに呼びだされて、何をさせられようとしてるんですか?私は先輩に何をさせられようとしてるんですか?
 そんな風に。

「…………」

 先輩は何も言わなかった。ただ下からすくい上げるように、少し上目遣いになって私を見ている。薄く笑みを浮かべた口元で、そのくせ目は全く笑っていない。その視線が妙に不気味だった。

「菜乃ちゃんさあ」
「はい」
「パンの中ではどのパンが好き?」

 漫画だったら、ずっこけていたかもしれない。どうして、パン。それも、呼び出した理由を聞いている最中に。

「どうして今それを聞くんですか」
「いや、場を温めようと思って。アイスブレイクってやつ」

 「どうしても君に聞いてみたいことがあるんだけど、それを聞くにはまだ早いかなって」と彼が言う。私は一瞬呆れて、でも私なりの気遣いから、質問への返答を真剣に考えることにした(なにせ、先輩が考えていることは、先輩の口から語られない限り知ることも叶わないのだから。彼が口を割る気になるまで黙って過ごしてるよりはマシだろう)パン、好きなパン、パン……。

「カレーパンですかね」
「うわー、見た目によらず肉食系じゃん」
「カレーパンのどこが肉食系なんですか」
「もっとさあ、女の子が食べてそうなパンであってほしかった」
「女の子が食べてそうなパン?」
「ポケモンパンとか」
「はあ」
「メロンパンとか」
「メロンパンは、好きですけど」

 私はそう答えた後に、「気が済みました?」という目で見てやった。あなたの言うアイスブレイクはこれで済んだんじゃないですか、と。
 しかし先輩はまだお気に召さなかったようで「じゃあ次、二等辺三角形と正三角形はどっちが好き?」と尋ねる。

「二等辺三角形ですかね」
「その理由は?」
「ええ? なんか……正三角形の方は堅苦しい感じしませんか? 全部六十度で統一されてるんですよ」
「正三角形にはゆとりがないってことね」
「いいえ。いや、そうなのかもしれませんが」
「じゃあ、ちっちゃい頃はコロコロ派だった? ボンボン派だった?」

 まだ続けるのか、と思ったけど大人しく従うことにした。

「どっちも読んだことありません」
「え? うそ。じゃあ何読んでたの」
「ジャンプとかサンデーとか」
「えー嘘っぽい。いいんだよでんじゃらすじーさん読んだことあっても。失望しないから」
「失望の意味が分からないんですけど、言うほどコロコロもボンボンも読んでる男子って周囲にいませんでしたよ」
「へえー世代差?」
「先輩はどうなんですか」
「俺もサンデーばっかりだから分かんないや」
「……」
「昔兄貴の本棚にメルヘヴンって名前のサンデーの漫画あってさ。割とエロくて好きだったんだけど、本誌買ったらもう連載してなくてショックだったわ」
「逆に良かったんじゃないですか? 不健全なものを見ずに済んで」
「さやかちゃん殺したの君だよね?」

 自分の脳みそが、引き絞られるのを感じた気がした。先輩は私を見ていた。

「自殺に見せかけて、突き飛ばして殺した。そうだよね?」