みんなあたまがおかしいそうです(1/4)

 内履きの下で、ざり、と何かが擦れ合う音がした。床一面に広がっている、砂埃のせいだろう。快いとは言えない感触だった。胸がざわめく。砂埃のせいではなく、これから起こりうるかもしれない不穏なやり取りを思うと、緊張と不安で胃が縮み上がるのだ。

「お待たせしてしまってすみません」

 そう言って私は頭を下げた。本当はそんなことしたくなかったけど。
 それに対し、既に席についていた男子生徒は、優しそうな笑みを浮かべてこう返した。

「そんなにかしこまらないでよ、菜乃ちゃん。同じ学年なんだからさ」
「お気遣いありがとうございます、貌鳥先輩」

 私は顔を上げて相手を見た。
 明るい茶髪に、それと同色の瞳。恐ろしいほどに整った顔。アイドルやら芸能人やらが目じゃないくらい、と彼の容姿について語る女子がいるけれど、あながち間違いでないような気さえしてしまう。

 彼は有名人だった。学校の内外問わず。それは容姿のためでもあったけど、一番の理由は彼の言動と来歴にあった。
 名字は貌鳥。下の名前は日向、だったか。私と同じ高校二年生。歳は十八。二年生なのに十八歳。それは私の記憶違いでもなんでもなく、単に彼が一年間の停学処分を受けていたというだけだ。
 停学の理由は「他生徒に傷害、心身の苦痛又は財産上の損失を与える行為」

「……」

 私は改めて、周囲を見渡した。
 旧校舎の一教室。私たちが普段使っている、ガラス張りの新校舎とは別の建物だ。今どき田舎の学校でも見ないような、壁も床も木材でできた造りをしている。机も椅子も傷が目立ち、教室の四隅には埃が溜まっている。今は物置として使われているだけの場所だから、この荒れ具合は仕方ないのかもしれない。普段ここに出入りする人はいないし、掃除の手だって入っていないだろう。

 そしてそんな場所に、私はわざわざ呼び出された。
 特別接点があるわけでもない、停学処分を受けていた年上の同級生に。それに警戒心を覚えないほど、私はお気楽な性格をしていなかった。

 机と椅子のほとんどが、掃除の時間のようにまとめて教室の後方に寄せられていた。それとは別に、机がひとつだけ部屋の真ん中にぽつんと置かれている。机を挟んで椅子が二脚あった。片方は貌鳥先輩が座っている。なので残り片方は、私に用意されたものということになる。
 貌鳥先輩は、椅子の背中の方を前側にしていた。背もたれ部分に両腕で抱きつくようにして座っている。両脚はそれぞれ、椅子を挟むように左右に垂らされていた。お上品な座り方とは言えないだろう。ただ、彼の甘い顔立ちには、こういった軽薄な仕草が妙に似合っていた。
 
「立ってないで座りなよ」
「……失礼します」
「あはは、促されるまで座らないなんて、お行儀いいんだね」
「……」
「黙んないでよ。俺がいじめてるみたいになる」
「でも、貌鳥先輩は実際にいじめっ子でしょう」
「へえ?言うねえ」

 ガガ、と鈍い音がした。先輩が座ったまま椅子を軽く引いたのだ。椅子の足先と床がこすれ合う音。

「今まで話したこともないくせに」
「貌鳥先輩については、いろんな噂を聞きますから」
「うわさ」

 貌鳥先輩はその単語だけ繰り返して口にした。愉快そうに目を細めて。ひどく楽しげな声だった。
 高校生活の間、何度も耳にしてきた貌鳥先輩についての噂が頭の中で自然と思い起こされる。停学処分に至るのも当たり前だと言いたくなるような内容のものたち。それを頭に入れた上で改めて彼の顔を眺めると、その整った顔立ちが、ひどく異様なものに見え始めてくる。

「ねえ、じゃあ教えてよ」
「何をですか」
「その噂がどういうものなのか。君が知ってる範囲だけでもいいからさ」
「……他の人に聞いた方がいいですよ」
「今聞いておきたいんだよ。だって、これから君とお喋りするんだから。どれくらい俺のことを知ってるのか、君の口から聞いてみたい」

 言いたくないな、と私は思った。そもそも彼に呼び出された時点で、彼に何かしらの要求をされたとしても、真面目に取り合わない方がいいと本能が告げていた。
 私はしばらくの間、口を閉ざして黙り込んだ。沈黙は気まずかったが、彼が諦めてくれやしないだろうかという期待があった。
 すると、うっすらと笑みを浮かべたままの先輩が、わざとらしく顔を覗き込んできた。視線を合わせたくないので、目を閉じてやり過ごそうとする。真っ暗になった視界の中で、椅子に腰かけたままじっとしていると、ふと髪になにかが触れるのが分かった。
 貌鳥先輩の手だ。それが髪を撫でて、今度は髪の毛の先を一束すくい取る。
 私は背中にじっとりと汗をかき始めていた。できるだけ反応しないよう、微動だにせずいたいのに、彼の指先が触れるたびに体がびくりと強張るのが分かった。
 しばらく髪をもてあそんだ後、その指先が私の首筋へと降りてきた。制服のシャツのボタンに指がかかる。意味深な手つきで、彼の爪がシャツ越しの肌を引っ掻いた。よくない想像が、私の頭の中に浮かんでいく。それはおそらく、あと数秒私が目を閉じたままでいれば、現実のものとなるはずだった。
 ──私は目を開けた。
 視界に映る彼は、やはり甘く微笑んだまま──ちろりと悪戯っぽく舌先を出してみせた。

◆◆◆

「……まず、先輩が一年生の時の噂ですが」
「うん」
「授業中、隣の席の男子に椅子で殴りかかったと聞きました。その男子は頭から出血してしばらく入院したと」
「ああ、そんなこともあったっけ」
「……」
「いいよ?続けて」
「それと、二年生に上がる直前に、貌鳥先輩が上級生の女子に手を出しているという噂をあちこちで流されたんですよね」
「事実無根だけどね」
「はい。なので先輩はその仕返しに、噂を流したグループのリーダー格の男から彼女を寝取った」
「寝取ったなんて言わないでくれる?本番まではしてないんだけど」
「でも、その男を人気のない教室に呼び出して、その元彼女が……先輩の尿を喜んで飲む姿を見せつけたんですよね?」
「うん。それは本当」
「じゃあ、寝取ったじゃないですか」
「尿を飲ませるしかしてないよ。清い仲じゃん」
「……」

 挿れていなければ、「清い」関係であるという判定らしい。それに、その女子は上級生だったので「貌鳥が上級生の女子に手を出している」という噂は後から事実になったも同義だ。

「そして一年生最後の、終業式の前日に図書準備室で火事を起こそうとしたとか」
「俺がしたのは、図書室にある本のカバーをそれぞれ別の本のと取り換えてめちゃくちゃにしただけだよ。二十冊くらいだったかな」
「それは目くらましで、図書委員がそれを直すのにつきっきりになっている隙を見計らって、図書準備室に火をつけたと聞きました。貌鳥先輩にだけきつく当たる生徒指導の先生が、準備室で隠れて煙草を吸う習慣があるのを知ってたから、その人が起こしたボヤにしたかった」
「憶測じゃん」
「でも、ボヤの直前に先輩が準備室から出てくるのを見た人がいます。あと、火に気がついた先生が消防に通報したら、もうおたくの生徒さんから電話を受けて今向かってる最中だって言われたみたいですよ。若い男の子が数分前に電話してきたって」
「へええ」
 
 先輩は、頭の後ろで手を組んで、素知らぬ風にそう言ってみせる。本当に先輩がやったわけではないのか、それともしらを切っているだけなのか。幸い、火事は床がちょっと焼けただけで済んだらしいけれど、放火は罪が重いと聞くから、さすがの先輩も認めたくないのだろうか。

 これらは全て噂として聞いただけで、私は当時の様子を全く知らない。先輩が停学処分を受けるのと入れ違いに入学したからだ。

 入学してすぐの四月、職員室前の掲示板に貼りだされたあの紙を、私は今でも覚えている。四隅を画鋲で止められた、A5サイズの白い紙。そこに書かれた以下の文章。

「処分通知 
以下の生徒は本学の校則二十六条に違反し、他生徒に傷害、心身の苦痛又は財産上の損失を与える行為をしたとして一年間の停学処分を下します。
貌鳥 日向」

 その、太いゴシック体で書かれた文章に、とんでもない学校に来てしまったんじゃないかと当時は思った。この貼りだし通知のせいもあって、貌鳥先輩の噂は学校中に広まった。入学したばかりの私たちの耳にも入るくらいに。

 しかし結局、この停学処分を決定的にした行為がどれであるかを私は知らない。今挙げた三つのうちどれかなのか、それとも全部なのか。私たちの把握していないものが問題とされた可能性もある。

「……あとはないの?」
「え?あ、はい」
「へえー」

 先輩がそう返す。へえ、がこの人の口癖なんだろうか。他にもこまごまとした暴力事件なんかもあるようだが、相手を入院させるまでは至ってないのがほとんどだ。

「あるでしょ」
「何がですか」
「言ってないよね」
「……」
「一番やばい噂、わざと言ってないよね?」
「……」
「ああ、もしかして、君も当事者だったから噂にはカウントしてないって感じ?」

 いつのまにか、夕日が落ち始めていたらしい。カーテンの無い教室の窓から、夕焼けが洪水のように差し込んでくる。壁も床も、机の上までが絵具を溶いたかのように赤い。そこに、私たち二人の影が黒々と落ちている。 

先輩が、椅子の背を抱え直した。「一番やばくて、一番最近のやつ」と彼が言う。私は彼の顔を見た。夕日のせいで、唇の端に血が滲んだようになっていた。

「君の友達が、二階の女子トイレから飛び降り自殺したよね? 俺に振られたのが原因で」

◆◆◆

「君の友達が、二階の女子トイレから飛び降り自殺したよね? 俺に振られたのが原因で」

 そこまで言って、先輩は数秒の間を挟んだ。明らかに、私の反応を窺うためのものだった。そしてその後に付け加える。

「ああでも、一命は取り留めたから、自殺未遂が正しいのかな? 意識は戻ってないみたいだけど。意識不明の重体。こういう時に使うんだね」

 何でもないことのように彼が言う。いや、本当に彼にとっては何でもないことなのかもしれない。自分自身の手で起こした今までの問題に比べれば。だって、彼が直接彼女を殺したわけじゃないのだ。
 頭の中に、彼女の姿が自然と思い出される。黒い髪をボブにして、クラスで一番短いスカート丈にしていたあの子。

「遺書は見つかってない。それまでの生活態度から見ても、自殺するような心当たりなんてなかった。ただ、飛び降りする直前の昼休みに、あの子は俺に告白してきた。俺がそれを振ったのが、おそらく原因なんだろうって、ケーサツの人も先生もみんながそう言ってる」
「ひどいですね。高校二年生の子供に、お前が原因だって大人が寄ってたかって突きつけるなんて」
「え。というか君はどうなのさ。お友達が死んだわけだけど」
「まだ生きています」
「いやまあね。でも、自分で死のうとした。『私には何の相談も無かった。私はあの子の友達でいたつもりなのに。悲しいなーーーーー』みたいな気持ちはないの?」

 わざとらしく、煽るように語尾を伸ばして彼が言う。

「さあ」
「君たち、ずいぶん仲が良かったんだってね。いつでもべったり。二人組で」
「ええ」
「ちょっと整理しようか。事件当日、昼休みにご飯を食べ終わってすぐ、あの子は俺に告白しに行った。君は教室に残って一人で過ごしてた。昼休みが終わってもその子は帰ってこない。授業が始まっても机は空席のままなので、先生はさすがに訝しんで『野分がどこ行ったのか知らないのか、巣守』って聞いた。君はそれに『分かりません』と答えた」
「はい」
「普段、授業を抜け出してサボるような子じゃなかったから、みんな不思議に思いながらも、そのまま授業を続けた。帰りのホームルームになってもやっぱりその子は居ないから、ようやく先生たちも何かあったのかと疑い始めたんだよね」
「……」
「先生は一番仲が良かった君に、『LINEで連絡を取ってみて欲しい。もし野分から連絡が来たら学校に知らせてくれ』と言って、本格的に捜索を始めた。いや、まだそこまで真剣じゃなかったかな。知らせを受けた親御さんから警察が寄こされて、ようやくあの子は見つかった。使われてない空き教室の、ベランダ部分に倒れてたから見つかるのが遅れたんだっけね。でも午後四時半だかには見つかったからまだいい方じゃない?」
「見てきたように言うんですね」
「そりゃ、ケーサツの人に事情とか聞かれてる間、いろいろ説明されましたから」

 おどけてそう言いながら、先輩は背中を軽く丸めて、こちらを下から覗き込むような姿勢になる。なにかを探るような目をしていた。
 自分の友達が死を選んだ原因の男と、こんな風に対面してさして動揺もしていない私が、奇妙に見えるのかもしれない。いや、奇妙というより、物珍しい、の方だろうか。

「実は俺も、告られる前からちょっとは知ってたんだよね。君たち二人のこと。廊下でたまに見かけて、なんか印象に残ってた。飛び降りた子の方が、君によくまとわりついてたんだっけ」
「ええ、まあ」
「俺は女の子の友情とかグループっていうものがよく分からないけどさ、嫌になるもんじゃないの?いっつも同じ子と二人っきりでベタベタしてるとさ。逃げ場ないじゃん」
「そう言う先輩は友達いないじゃないですか」
「あっははははは!」

 彼の言う通り、私とあの子は友達だった。いつも二人組で行動していた。お昼は二人で机をくっつけ合って食べたし、移動教室もその子と一緒だった。けど、他のクラスメイトからハブられてたってわけでもないので、私が他の子とお喋りしてるところにあの子が後から入ってくるとか、そういうことも普通にあった。反対に、その子が他の子と絡んでる姿もよく見たし。ちゃんと他の子たちとも、社交していたと思う。
 女子でいつも二人組で行動してる子って、排他的な感じがして近寄りがたいこともあるけれど、私たちは、まあ、うまくやっていた方なんじゃないだろうか。

「悲しくはないです」

 私はさっきの質問に答えてあげた。

「あの子が死んでたら、悲しくなってたかもしれません。飛び降りたって聞いてすぐは、すごく焦りましたし。でも、なんていうか、最悪な事態は免れたわけじゃないですか。そのおかげで、平静を保ててるっていうか、悲しくないんだと思います」
「これから一生植物状態かもしれないけどね」

◆◆◆

「これから一生植物状態かもしれないけどね」

 先輩は椅子の背に頭を預けて、窓の方を眺めながら言った。夕日はまだ沈みきっていない。ずいぶんゆっくりと、時間が流れているような気がした。

 綺麗な横顔だった。耳の下から顎にかけてのラインとか、鼻筋とか。感傷的なドラマのワンシーンみたいだった。目元だけは二重で可愛いとか、鼻筋だけは整ってる、みたいな人はいっぱいいる。
 でも、この人は目元も口元も顎も鼻筋も、「整っていない」部分がない。それがどんなに特別なことか、TikTokとかを見てれば分かる。新着動画に山ほど並ぶ、ガチガチにフィルターをかけまくった顔。

 だからなのか、一部の女子は彼に惹かれていた。停学処分にもなって、周りから遠巻きにされているような人なのに、何故か彼女らは惹かれてしまうのだ。
 私は貌鳥先輩のことが普通に怖いし、お近づきにもなりたくなかった。でも、一部の女子は、「あわよくば」彼と関係を持ちたがっていた。それも、自分からLINEを聞き出してとかではなく、たまたま同じ電車に乗ったとか、たまたま同じ班になったとか、そういうのを期待していた。少女漫画みたいな感じに。

 私はそういう子たちが、何となく少し怖かった。彼女たちはみんな、焦点の合っていない、それでいて熱に浮かされたようなキラキラした目で、彼の顔がどんなにいいかを語ったりする。ジャニーズとか、配信者の追っかけをしてる子も似たような顔をするけれど、それとは少し違う。
 彼に惹かれる子たちは皆、その底に自分を肯定しようという気持ちが透けているような気がした。自分は、他の子と違う。自分は、分かってる。自分は、先輩のいいところを知っている。自分は、自分は、自分は……そういうのが、あの子の目の中にもあった。
 貌鳥先輩のファンの中で、あの子は特に目立ったんじゃないだろうか。たとえば先輩が廊下を歩いてこちらに向かってくるのを見たら、勢いよく教室の中に飛び込んで

「やばいやばいやばい!菜乃!貌鳥先輩来たって!」

 と体当たりするように私にしがみついてくるのだ。
 補足しておくと、貌鳥先輩はうちのクラスに用があるわけじゃないし、勿論その子に対しても用はない。本当にただ廊下を通りかかっただけなのだが、それでも彼女は教室中に響き渡るような声でキャーキャーと騒いでいた。道端で芸能人を見かけた並みのはしゃぎようだった。
 こんなに騒がれると逆に居心地悪いんじゃないか、とか、絶対にこの子のこと認知してるよなあ、と当時の私は割と貌鳥先輩に少し同情していたと思う。人となりを知った今、もうそんな気持ちは微塵もないが。

「どんな風でした? 先輩に告白した時の、あの子」
「どんなって、普通だよ。教室まで来て俺を呼び出して、話したいことあるのでいいですかって聞いてきた。一人で呼びにきたのは度胸あるなあって思ったよ。そこまでは友達引き連れてくる子が多いじゃん」
「私は告白したことないので知らないです」
「あ、そっか。そうだよね」

 なぜか半笑いで先輩が返す。こちらを馬鹿にしてるのがなんとなく分かった。

「それで、学校の端の方? 家庭科室前の廊下だったっけ。そこで告られてね。『好きです。付き合ってください』かな。早口だし小声だしで『付き合ってください』しかちゃんと聞こえなかったけど。下向いてボソボソ喋ってたし。告白する時相手の目見ないってやばくない? あ、ごめん。気に障った?」
「いえ」
「怒ってもいいけど」
「怒りませんよ。その後はどうだったんですか」
「その後も、別に……あ、俺が断ったら、泣いてたよ。カーディガンの袖で顔を拭って、なんかブルブル震えながら他にもボソボソ言ってた。あれじゃあ袖が汚れるじゃんね。鼻水もついてたんじゃない?」
「その後は?」
「いや、後はもう普通に喋るのも無理そうだったから、『もう行っていい?』って聞いて帰った。それだけだよ」
「他にもなにかあったんじゃないんですか?」
「さっきから何?」

 部屋の温度が一気に冷えたような心地がした。低い、あからさまに不機嫌な声。豹変という言葉が当て嵌まりそうな落差だった。
 私は咄嗟に目を逸らした。彼の足先あたりを見る。その視線に気づいているのか、彼は椅子の脚に絡めていた片足を、ゆっくりとほどいた。ギ、と靴のつま先が床を擦る音。

「急に調子づいてきたじゃん。うざいんだけど。もしかして、俺のこと疑ってる? 俺がひどいことでも言って、それが自殺の原因になったんじゃないかって」

◆◆◆

「急に調子づいてきたじゃん。うざいんだけど。もしかして、俺のこと疑ってる? 俺がひどいことでも言って、それが自殺の原因になったんじゃないかって」

 痛いくらいの沈黙が、教室を満たしていた。私は先輩の視線が注がれているのを感じながら、依然として床ばかり見続けていた。埃と、どこからか入り込んできた砂利でうすっらと覆われた床を。

「俺が自殺の後押しをしたって証拠が欲しい? こっそりボイスメモでも回してるのかな」
「……してないです」
「本当かなあ」
「調べてみてもいいですよ。スマホだけじゃなくて、盗聴器とかをポケットに入れてないのかも」
「身体検査してもいいってこと?」

 私は細心の注意を払って、視線をやや上に上げた。先輩の、口元までが視界に入る。彼と目を合わせる勇気はまだなかった。薄い唇が、軽薄な笑みを浮かべてそこにある。ついさっきまで声を荒げていたとは少しも思えない。

 不意に、彼がため息をついた。ゆっくりと長く、この部屋を満たした静けさをほどくように。

「さっきさあ、警察に事情聞かれたって言ったじゃん? それで俺は最終的に、まあ間接的な原因かもしれないけど無罪放免ってなったわけだ。警察も先生も、最後にはあらかた説明してくれた。当日あったこととかね。他生徒から聞き出した話も全部教えてくれたと思う。だから俺も、あの子が自殺未遂するに至った流れは全部知ったつもりでいたんだけどさ……」

 貌鳥先輩が、制服のポケットを探る。私は手足の先まで緊張しながら、じっとその様子を上目で窺っていた。
 低く静かな声で話してはいるものの、さっき感じられたような苛立った様子は感じられない。その代わり、どこか気だるげな雰囲気がその話し方にあった。

「知っちゃったんだよね、それらしい別の理由」

 スマホを取り出して、何度か操作した後に彼はそれを机の上に投げた。机上を滑って、私の前にたどりつく。

「見ていいよ、菜乃ちゃん」

 私は爆発物にでも触るように、おそるおそるそのスマホを両手で持った。何かの画像が、映し出されている。

「……」

 それは、黒板を撮った画像だった。周囲に映りこんでいる備品を見れば、それが私たちのクラスのものであると分かった。
 ──でも、それとは別に、これが私たちの教室の黒板であると証明するものがある。
 私の記憶に強くこびりついた、あの文字列。

 黒板いっぱいを埋め尽くすように、チョークで何かが書かれている。白、赤、黄色をふんだんに使って、周囲には星やハートの絵なんかも散らしながら。誰かに見せることを意識した、まるでお誕生日の飾りつけのように、不気味なほど装飾された字で、こう書かれていた。

「さやかちゃん センパイに告白 がんばってね!!」

「君のクラスの子にこの画像、回してもらったんだよね」
「……」
「朝来たら、こんなものが黒板に書かれてたんだって? 野分さやか──俺に告白してきたあの子に向けた言葉だよね」
「はい」
「これ見てさ、青春~~~って思うような性格……」
「……」
「してないよねえ。やっぱ」

 彼の言う通りだった。それは一見すると、卒業式の日に教室の黒板に書かれるような、「みんな今までありがとう!」とか「卒業しても友達でいようね!」と同じ種類のものに思えるだろう。
 しかし冷静に考えれば分かるはずだ、誰を好きで嫌いなのか、告白だとか何だとか、そういう内密なことを、大声で触れ回るみたいに書くことがどれだけ悪意に満ちた行為であるかを。
 特に、中央に鎮座した「センパイ」。色とりどりのチョークで華やかに書かれているはずのそれから、黒々とした底無しの悪意が、滲み出ているかのように思えた。

◆◆◆

 あの日、登校した私は校門前でさやかと鉢合わせた。私たちは登校時間がだいたい同じくらいなので、それ自体はよくあることだった。二人並んで教室に向かい、クラスに足を踏み入れた瞬間に目にした光景。それが、この黒板だった。

 教室には、すでに登校していたクラスメイトが二十人くらいはいたと思う。それぞれが、教室の端や自席、思い思いの場所に固まって、スマホをいじったりお喋りしたりしていた。でも、意識のほとんどは──黒板と、さやかの方に向けられていたと思う。あからさまに黒板とさやかへ交互に視線をやる子、もしくは気づかれないように、ちらちらと様子を窺う子。こちらに背中を向けているけれど、さやかの様子を気配で探ろうとしている子。
 教室の中は、生々しい好奇に満ちていた。

 さやかは、数秒間呆然と黒板を見つめていた。私は彼女の後ろ姿を見つめたまま、なんて声をかけるべきか──どうやってこの空気を壊すべきなのか、必死に頭を巡らせていた。でも、私が口を開くより先に、さやかがこちらを振り返った。

「……菜乃がやったんでしょ」

 私は言われた意味がすぐには理解できなかった。血走った目がこちらを見ていた。彼女の、多分毎朝三十分はかけてつくっているのだろう前髪の隙間から、汗をにじませた額が覗いている。

「菜乃が書いたんでしょ!あれ!」
「なんで君がやったと思ったんだっけ?その子」

 意識が現実に引き戻される。目の前には、変わらずこちらを見つめている貌鳥先輩がいた。あの、じっとりと汗ばんで、混乱しきったあの子の顔ではなく。
 どうやらあの日のことを、私が思う以上に詳しく知っているらしい。この画像を渡した子がペラペラ話したのか、それとも強引に聞き出したのか。

「……いつか貌鳥先輩に告白するって、あの子が教えてたのは私だけなんです」
「なるほどねえ。でも、それで君がやったって決めつけられないよね?むしろ君以外の誰かがやった可能性の方がまだ高く思えるけど」
「ええ、そうだと思います」

 黒板にそれを仕込んだ犯人は、告白する予定が実際にあるのか無いのか、どちらでも構わなかったに違いない。校内のだれそれに片思いしているのだと周囲に触れ回っている子が標的ならば、誰にでも使える煽り文だ。特に、片思いの熱にのぼせあがっている子にしてみれば、頭から冷水を浴びせられるようなものだろう。

 それに、このクラスの者であれば、あの子が貌鳥先輩に好意を持っていることなんてほとんど周知の事実なはずだ。これだけで、犯人は私だと決めつけられなくなる。
 ありがたいことに、あの時他の女子が「菜乃がやるわけないじゃん」と諌めてくれたので助かった。いや、あの女子からすると、とにかくその場を収めたかっただけで、私を庇うつもりなどなかったかもしれない。それに──

「同じ時間に登校してきたんじゃ、書くのは難しいだろうしね」
「でも、かなり早い時間に登校して、書き終わったら校内のどこかに隠れておく手もありますよ。あとは、すぐに校舎を出て外で時間をつぶしていつもの登校時間に合わせるとか」
「難しいでしょ。どっちにしても、いつもと違う時間に登校して、不審な行動してるのを誰にも見られない自信ある? 賭けるにはけっこう危険度高いよ」
「それはまあ、そうなんですか」
「てか、なんで自分が犯人だったって仮定の推理してんの?」
「私は犯人じゃないって、ふんぞり返るのも居心地悪くて」
「へえ、変わってんね」

 変わってる先輩に変わってると言われるということは、つまり私は普通なんじゃないだろうか。マイナスとマイナスをかけたらプラスになるように。

「それに君って、嫌がらせするのに手間をかけるタイプじゃないでしょ。もしやるなら突発的な犯行じゃない?」
「……」
「え? なに? 俺は庇ってあげてるんだけど」
「そうは聞こえませんでした」
「菜乃ちゃん、ちょっとは社交辞令を身に着けなよ」

 私はその言葉を無視した。貌鳥先輩が相手じゃなきゃ、私だってちゃんとお世辞の一つくらい言える。
 結局あの黒板は、ホームルームが始まる前に全部消すこととなった。なので担任が教室に来る頃には、跡形もなくなっていた。つまりは、隠ぺいしたのである。
 先生たちに対して、誰もこれを漏らさなかった。生徒間では水面下で話のネタにされてたかもしれないけど。大人に情報を漏らさないことは徹底していた。
 そうしようという取り決めがあったわけではない。ただ、なんとなくそういう空気があった。誰かが密告するかもしれないな。私は内心そう思っていたが、一度もそれらしい話題を出さない教師陣を見るに、その様子はなさそうだった。
 
 そして、ひた隠しにされたまま、あの飛び降りが決行されたということだ。