ひどく親密ななにか

 あの大学教員が「フィガロ」と名乗っていることを、学生たちは特別疑問に思っていないようだった。彼は髪も肌も色素が薄いので、ハーフだとしても違和感がない。けれど、ある日誰かがこう言った。
「源氏名なんじゃないの」
 源氏名ってなに。風俗じゃあるまいし。だから、やくざとかそういう――そんな風にして、変な噂も飛び交うようになった。でも、彼はそういう噂が似合う男でもあった。あの人はきっと、道徳から少し外れた、普通とは違う人生を歩んでいる。そういう印象を人に抱かせる男だった。

「お中元かと思った」
 包装紙に包まれた文庫本を渡されて、フィガロはそんな風に言って笑った。お中元。確かに、もうそんな季節である。少し散らかった研究室の中は、窓を開け放しているために初夏の匂いで満たされていた。
「お中元じゃありませんよ。前に貸すって約束した本です」
 少し笑いながら晶がそう言うと、フィガロは「ああ」と納得した。
「わざわざ包んでくれたの?」
「あ、いえ……もう結構ボロボロだったので、新しく買っちゃいました。だからこれ、あげます」
「いいの?」
「はい」
 晶は数日前、雑談の合間にとある本のあらすじをフィガロに語った。彼が興味を持ってくれたので、今度絶対に貸しますと約束したのだ。
本のあらすじは、こんな風だ。ある日男の部屋に、見知らぬ犬の死体が忽然と現れた。男は死体の処理に困り果て、自転車のかごに犬を入れて、捨て場所を探すために夜の町をさまよい歩く。そんな話である。
 晶はこの小説を、誰かに勧めたことがなかった。内容が内容なだけに、変に誤解されたり、茶化されたりしたら嫌だと思っていたのだ。けれど、フィガロに対してはそれができた。どうしてかは分からないけど。
「じゃあ、お礼しなきゃね」
「いいですよ、そんな」
「だってせっかく買ってくれたんだし。今日時間ある?御馳走するよ」
 そこからは押しの弱さも相まって、帰りに夕食を奢ってもらう約束を取り付けられてしまった。

 夕方、フィガロに連れられてやって来たのは、小さな天ぷら屋だった。ショッピングモールに入っているような飲食店とは違う、晶の経験からすると「高そう」としか表現できないお店である。
二人はカウンター席に並んで座った。目の前で調理しているのが見える。各席の前に置かれた盛り皿に、揚げたての天ぷらが一つずつ順番に出されていく形式のようだ。
 晶はすっかり委縮してしまった。まさかこういった店に連れてこられるとは思ってもいなかったのだ。だって、たった数百円の文庫本だ。ハードカバーとは違う。晶が払った金額の、数倍の値段はする店だろう。
「あの、俺もいくらか払えますよ」
 あまりに申し訳なくてそう言うと、フィガロは「あはは」と笑った。
「なんでさ。遠慮しないでよ」
「だって、本一冊買っただけなのに」
「気にしなくていいんだよ」
 そう言った後に、フィガロはこう続けた。
「俺みたいに教員やってる奴からすると、教え子があんな風に好きなものを勧めてくれたりするのって、すごく嬉しいんだ。だからちょっと舞い上がっちゃうんだよ」
 それを聞いて、晶は何となく気持ちが軽くなったような気がした。そうか、この人にとっては父親が子供を可愛がるようなものなのか。こうして奢っているのも、打算や義務によってではないのだろう。彼がそうしたいと思ったからしたのだ。不思議と、フィガロとの距離が縮まったかのように思えた。もしくは、フィガロという男を少しでも理解できたかのように。晶は自身が高揚しているのを感じた。
「あの、嬉しかったです。あのお話に興味を持ってくれて」
「そう?」
「はい。少し暗い小説だったから、ほかの人に勧めたこともなくて……」
「へえ、そんな内容だったっけ?」
「えっ」
「あっ」
 しまった、という風にフィガロが片手で口を覆った。晶が言葉の意味を飲み込めずにいる間、気まずい沈黙がほんの数秒間その場に落ちた。
「ごめん」
 先に沈黙を破ったのはフィガロの方だった。
「ほんとは割とどうでもよかったんだ。その本。読みたいって言ったら、君と話すきっかけができると思って」
「……」
 フィガロの言葉を、晶はうまく呑み込めなかった。自分がショックを受けているのは確かだったが、その理由を言語化できなかった。
いい加減な社交辞令を口にして、期待させたフィガロへの怒りだろうか。いや、それは違う。勝手に舞い上がって本まで買ってきた自分への恥ずかしさも、ほんの少し違う気がした。
「でも、ちゃんと読むよ。君が買ってくれたんだもの」
 そう付け足されても、それは晶が求めている言葉ではなかった。その後の会話は、当然ながらあまり弾まなかった。

 食事を終えて店を出ると、辺りはすっかり暗くなっていた。交差点の信号機がネオンのように瞬いている。夏の生暖かい夜気が、肌に張り付くのを感じた。
「あの、今日はありがとうございました」
「うん」
 食事をしたというのに、晶はお腹が満たされた感じがしなかった。そしてそれが顔に出てないといいなと思っていた。
「家、あっちの方なので……」
 晶が駅がある方向を指し示す。ここで解散するのが一番自然だろうと思えた。けれど、フィガロの声がそれを遮った。
「なに、帰るつもりなの」
「えっ」
 戸惑い、フィガロの顔を見つめ返す。夜の中で滲む白い顔。何度も大学で見かけてきたはずのその顔が、なぜか初めて見るもののように思えた。
「俺の家に来てよ」
 フィガロの顔には、何の表情も浮かんでいない。怒っているようにも、悲しんでいるようにも見えなかった。それだけに、異物めいた何かを感じた。
異物。それは今のフィガロを表すのに一番正確な言葉に思えた。帰ります、と晶は言った。震える声で。「なんで」とフィガロは返した。一瞬たりとも目をそらさないまま。
「奢ってあげたでしょ」

 多分、タクシーの中で声を上げるべきだったのだ。すみません、やっぱり今日は帰ります、という風に。そうすればタクシーの運転手が、二人の間に入ってくれたかもしれないし、晶を人目のあるところで降ろしてくれたかもしれない。既にマンションの前に降りてしまった今、それを考えても仕方のないことだが。
 無言のまま、晶はフィガロの後をついて、マンションのエントランスに入る。落ち着いた色合いで統一された中で、円形のソファーがいくつかと、オートロックを解除するパネルが置かれている。
 晶は自分が勧めた小説のことを思い出していた。殺した覚えのない、大きな犬の死体。それを他人に見つかってはいけない、と主人公は考える。捨て場所を探し求め、歩き回るうちに、焦燥が男の胸を満たしていく。強迫観念にも似た、男の焦り。
 ばくばくと鳴る自身の胸を、晶はぼんやりと自覚した。麻痺したように鈍い頭の片隅で。全身がじっとりと汗ばんでいく。
 フィガロがオートロックパネルの前に立った。分水嶺だ。晶はとっさに思った。今この瞬間が、引き返せる最後の。
「帰ります」
ちゃんと、フィガロがこちらを振り返るのを待って、真正面から見つめあってから、そう言った。こわいほど透明な、感情の読み取れない目が、こちらを見つめる。
「すみません。帰ります」
 沈黙を、晶の声が続けざまに打ち破る。
「なんで」
「すみません」
「行かないでよ」
 晶は一瞬ぎょっとした。そう返す声の、あまりの弱弱しさに。フィガロの表情は変わらない。けれど、肌一枚隔てた内側で、何かが脆く崩れかけていた。
フィガロが腕を掴む。思いがけない強さに晶は驚いた。振りほどこうとするより先に、声が出た。
「他の人にもこういうことしてるんですか?」
 多分、無理やり手を払いのけるよりも、ずっと残酷な言葉だったのだろう。フィガロの顔が一気に歪んだ。叱られて、泣くのをこらえている子供のように、ぐしゃりと。彼の目はもはや誰が見ても分かるくらい揺らいでいた。こんなことしなければよかったという後悔が、掴まれた腕に伝わる。
「違う」
 駄々をこねる子供のようだった。どうしてこの人がこんな顔をするんだろう。晶はぼんやりとそう思う。少なくとも、無理やり連れ込もうとしたのは彼の方だ。
「君はちがうんだよ」
「奢ってくれてありがとうございました」
「いかないでよ」
 フィガロは手を離さない。子供が二人、引っ張り合いっこをしているかのような光景だ。そんな顔をするなら、最初からこんなことしなければ良かったのに。
「君になら」
 フィガロが言う。俯いて、目も合わせないまま。
「君になら、わかってもらえる気がしたんだ。うまく、言えないけど」
「俺もです」
 言った瞬間に、晶はそれを後悔した。口に出してしまったために、抑えていたものが一気にあふれ出していくのを感じる。声に出してではない。晶の胸の中で、胸中でさえ言語化せずにいようとしていたものが堰を切ったようにあふれていく。
 だって、仲良くなれると思ったから。自分の好きなものを教えて、興味を持ってもらえた時、仲良くなれると思いました。あなたの中に俺と同じものがあるような気がしたんです。多分、はしゃいでました。あなたもですよね。俺が本をあげた時、もっと仲良くなれると思ったんでしょう。それが、台無しになりかけて、だからってこんな。あなたが俺に対してどんな気持ちを抱いていたのかは知らないけど……。
 不意に疲れを感じ、晶はゆっくりと息を吐いた。こんな思いをするなら、大人しくついていった方が、ずっと楽だったのかもしれない。何も考えないようにして、事が終わるのを待って。翌朝何事も無かったかのように学校で振舞えたはずなのに。
晶は、無理やり連れ込もうとしたフィガロの気持ちが分かるような気がした。誠実でいようとすればするほど、人は疲弊する。
「俺も、あなたになら色んな事を分かってもらえる気がしたんです」
だから、こういうのはやめにしませんか、と言った。
「こういう、だまし討ちみたいなことじゃなくて……あなたと、ちゃんと仲良くなりたいです。同じ本を読んだり、お喋りしたりして……」
 フィガロはもう顔を上げない。腕を掴む手はもうすっかり力が抜けていて、振りほどかずともこのままするりと立ち去れてしまいそうだった。
「ここじゃなくて、どこかカフェにでも行きましょう。24時間営業のファミレスでもいいです」
 そこであなたと、朝になるまでお喋りしてもいいんです。だから、お友達から始めましょう。
 返事が聞けるのを、晶は期待していなかった。それでも、弱々しい声が「うん」と言うのを聞き逃さなかった。フィガロの頬を両手で包む。目を合わせようとした。そこに浮かんでいる表情は、見なくてもありありと想像できる。泣き疲れた子供の顔。
 晶はこれから先、フィガロと恋人になれたらいいと思った。恋人でなくとも、ひどく親密な何かに。そうしてその時になって、冗談っぽく聞いてやるのだ。あのとき俺を連れ込んで、どうやって籠絡しようとしたんですか、と。