まさかこの自分が、遊園地でデートをすることになるとは思ってもいなかった。自分の性格だとか年齢だとか、それらを全部ひっくるめてそういうものが似合わない男だと自覚してる。それに、「デートに遊園地を選ぶ男」を恋人にするなんて、過去の自分なら想像もつかないことだろう。
肌に触れる風が冷たい。もう夕方近いからだろうか。空は未だ明るいが、もう一時間もしないうちに外は真っ暗になるはずだ。そう思いながら、目の前の光景を眺めた。小さい子供を連れた家族連れが、出入り口のゲートをくぐっている。遊園地から出る時に、簡単な手続きが必要らしく、ゲートには何組かの列ができていた。その一番後ろに、私とトーマも一緒に並ぶ。ほとんどが家族連れで、若い男女が一組だけ居た。おそらくカップルなのだろう。自分たちも、そういう関係に見えているのだろうか。
何人かの着ぐるみがゲートのそばに控えていて、かがみこんでは子供たちに手を振っている。人込みの隙間から覗く、ふわふわと揺れる風船たち。閉園の時間を知らせるアナウンスが遠くから聞こえていて、それが妙に物悲しく聞こえた。
自分たちの番がくる。二人分のチケットに係員がスタンプを押した。近くにいたうさぎの着ぐるみが、律義に私にも手を振ってくれた。何となく茶化したい気分になって、着ぐるみの腕を取って連れていくような素振りをしてみせた。素なのか演技なのか、着ぐるみがあからさまに慌てる。それを楽しんでいると「綾人さんはこっち」と彼に強く抱き寄せられた。
(楽しかったな)
自分でも驚くほど素直な気持ちで、そう思うことができた。にぎやかな園内。ポップコーンとホットドッグの匂いが充満していて、スタッフはみんな親切だった。ジェットコースターもメリーゴーランドも、乗ったのは小学生ぶりだろうか。誰もかれもが楽しそうに笑っていて、そのおかげか年甲斐もなくはしゃぐのを少しも恥ずかしいと思わなかった。
「帰りたくないな」
その言葉に、字面以上の意味など含まれていなかった。本当に、何の含みもなかった。だからこそ、トーマが不意に足を止めても彼が何を言おうとしているのか少しも察することが出来なかった。
「あの、綾人さん」
「うん?」
「実は」
「うん」
「ホテル、取ってあるんです」
トーマの白い顔は、おそらく緊張でこわばっていた。夕日が沈み始めた、薄桃色の空を背景にして。
馬鹿馬鹿しいことに、自分はその言葉の指す意味を全く理解していなかった。遊園地で、はしゃぎ過ぎたのかもしれない。あんなに楽しい時間を過ごしておいて、その延長線上に「そういう行為」があると結びつかなかった。それに、彼がそんなことを想定しているとは思ってなかった。デートに遊園地を選んでくれるような男の子が。
「ホテル?」
私がそう聞き返すと彼は困ったように笑って頷いた。いたずらがバレて、それを誤魔化そうとしている子供のような表情で。
ホテルのロビーには、白い花が飾られていた。長い茎をした、大ぶりな花びらの白い花。それがなぜか、ひどく清潔なものに見えた。
エレベーターには、彼と二人きりだった。密室の中、ガラス壁の向こうでぐんぐん空が近くなっていく。
「お腹すいたな」
そう言った自分の声は、多分ひどく馬鹿っぽい響きをしていたと思う。
「オムライス、食べたいな。レストランにあるといいんだけど」
さっき受付で、最上階にレストランがあると教えられたのを指しての言葉だった。返事に間が空いたので彼を見ると、どこか上の空で「そうですね」と言うだけだった。
はしゃぎ過ぎたかな。責められたわけでもないのにそう思った。もしかしたら、舞い上がっているのは自分だけなのかもしれない。ここにいない誰かに、自分の振る舞いをくすくす笑われているような気がした。
隣に立つ彼の手に、おそるおそる手を伸ばす。偶然触れ合っただけだと言い訳できる自然さで。
あたたかい手の甲に、指先が触れる。彼は動かない。ばくばくと鳴る鼓動を聞きながら、彼の手のひらの内側に、そろりと指を絡めた。彼は、握り返してくれた。無言のまま、エレベーターの中で手を繋ぐ。それだけで、彼に何もかも許されているような気がした。
エレベーターの扉が開く。廊下の向こうから、若い女の子の二人組がやってきた。女子大生くらいの歳だろうか。彼女たちが見えた瞬間、どちらともなく手を解いた。別に、それに対して何か思うことは無かった。けれど、女の子たちとすれ違った瞬間に、びっくりするくらいの力で彼が私の腰を抱き寄せた。一瞬、頭が真っ白になる。そのまま、足を少しもつれさせながら彼に連れられる。部屋に足を踏み入れた瞬間、後頭部に回された手がひどく温かかったことを、何故か鮮明に感じ取れていた。
やってしまった、と誰に言うわけでもない後悔の言葉が頭を埋め尽くす。ベッドの端に腰かけたまま項垂れる。こんなはずじゃなかった。こんな風にするつもりはなかった。本当なら、夕食を終えて夜が更けてからするはずだったのだ。いや、そもそもとして、こういうことをせずに一夜を明かしても良かったのだ。
ホテルだって、彼が嫌がるなら泊まらなくても良いとさえ思っていた。「そんなことをするつもりで来たんじゃない」と言われたら「冗談です」と返せばいい。そんな卑怯な考えさえあった。ほんの少しでも彼に嫌われたらと想像するだけで怖くて仕方がなかったのだ。それが、どうしてこんな。
バスルームからはシャワーの音が聞こえてくる。「汗でベタベタする」と言って、行為が終わった途端に行ってしまった。もしかしたら、離れる口実だったのだろうか。彼はバスルームにスマホを持ち込んでいたら、強姦されたと通報されるかもしれない。正直、それでもいいと思った。牢に入ってもいい。牢の中で、綾人さんのことを考えながら一生を終えたい。
昼間の彼のことを思い出す。嬉しかった。彼がはしゃいでいることが。時々、悪戯っぽく視線を合わせて「楽しいね」と囁かれるたびに、幸せすぎて死にそうだと本気で思った。馬鹿みたいな考えだけど、彼が自分だけのものになったような気さえした。
「トーマ?」
その声を聴くより先に、視界の端に映った白い脚に気が付いた。顔を上げると、綾人さんが立っていた。備え付けの、白いバスローブを身に着けて。オレと目が合うと、照れたように彼は笑った。ぞくりとするほどきれいな顔だ。
「隣に座ってもいい?」
「あ、もちろん、いや、どうぞ!」
どこかおずおずとした仕草で彼が近づいてくる。可愛いな、と思っているとほぼ密着するような距離で彼が隣に腰かけた。そのまま、彼がもたれかかってくる。心臓が爆発するかと思った。何を言うべきか迷っていると、彼が先に口を開いた。
「がっかりした?」
「え?」
「私が下品な男だったから」
彼の言っている意味がすぐには理解できなかった。
「まさか!」
慌ててそれを否定する。ベッドに押し倒した時、彼の方から脚を開いた。求められていると分かって嬉しかった。それを下品だなんて、少しも思わなかった。
「よかった」
そう言って、もたれかけた頭を首筋に擦り付けてくる。湿った肌を押し付けられるのが心地よい。毛先がほんの少し濡れていて、束になった髪が肌にこすりつけられる感触にぞくりとした。
「シャワー、一緒に浴びればよかったね」
「今から入りなおしますか」
「いいよ。面倒だし」
彼が子猫みたいにあくびする。その余韻を残したまま「お腹すいたな」とぼんやり言った。
「ステーキかハンバーグ、食べたい」
「オムライスじゃなくていいんですか?」
「あれ、ちゃんと聞いてたんだ」
からかうように彼が言う。ちゃんとって? そういえば、エレベーターの中でなんて返事をしたのか覚えていない。困惑していると、首筋に顔を埋めていた彼が不意にこちらを見上げてにっこりした。
「運動したからおなかが空いたんだよ」
びっくりするくらい可憐な顔で彼が言う。オレはなんだか泣きたくなった。多分オレは、一生この人のことを好きでいるんだろうなと思った。