魔界医師の顔に僅かな陰りを見つけたせつらは、あの芒洋とした声でこう聞いた。
「もしかして、疲れてる?」
その言葉に、メフィストは目だけ動かしてせつらを見る。黒檀机の上にある白い顔は、確かに普段と比べて青ざめているように見えた。
「少しね」
白衣の魔人にも、疲れというものは存在するらしい。けれど、その疲労は少しもメフィストをやつれさせてはいなかった。むしろ、どこか妖艶さを増したようにさえ見える。彼の恐るべき美貌は、どのような状態にあっても損なわれないのだ。
「今日になってようやく時間に空きができた」
「そりゃ良かったな」
そう言ってみせるせつらに、心配している様子は微塵もない。地獄の業火に焼かれようとも無傷で済みそうな医師が相手なので、それも仕方がないのかもしれないが。
「じゃあ、せっかくの余暇を邪魔しちゃ悪いし……」
「待ちたまえ」
出入り口へ向かい始めたせつらの背に向けて、低い声が投げられる。ここらでお暇する、の意で持ち上がりかけていた片手を、ぼんやり空中に留めたまま、せつらがのんびりと振り返った。妙に真剣な顔をしたメフィストが、こちらをじっと見つめている。
普段のせつらなら、ちらと見ただけで気にせず帰宅するのだが、今だけは気まぐれを起こしたのか、それともメフィストの相貌に鬼気迫るものを感じたのかは分からないが、大人しくメフィストの前へビデオの逆再生のように戻っていった。
改めて向かい合った二人だったが、引き留めた側のメフィストが何故か口を開こうとしないので、しばらく見つめ合うだけの時間が続いた。不意に何か察しでもしたのか、せつらが天を仰ぎながら「あー」と声を上げる。もう一度見つめ合った後に、面倒臭そうな顔でこう言った。
「何か、してあげようか」
「何かとは」
「頑張れ、って言ってやる。嬉しいだろ」
「……」
メフィストが、ため息なのか相槌なのか判別つかない声を出す。せつらは流石にムッとしたようだが、彼にしては珍しい切り替えの速さで次の提案をした。
「じゃあ、触らせてやろうか」
メフィストの目が、素早くせつらを射抜く。せつらは手応えを感じた。
「どこでもお触りOK」
「…………」
「あっやっぱ許可したところだけ」
メフィストが無言のまま席を立ち、せつらに近づいていく。一歩ずつ、着実に距離を縮めていく魔界医師の姿に、せつらは後ろ手でこっそりと室内のドアに向けて糸を放った。もし何か悪いことが起きたら、ドアノブに巻きつけたそれを使ってすぐにでも外に避難できるように。
そうしている間にも、メフィストが目の前まで来ていた。せつらより、僅かばかり高い場所にある両目が想い人を静かに見つめている。
「美貌」というものに対して常人より耐性を持っているだろうせつらでも、どこか目が潤んでいくような、体の奥が熱を帯びていきそうな視線だった。
メフィストの手が持ち上げられる。徐々に近づいてくる白い手を視界の端で捉えながら、せつらはただ真っ直ぐに目の前の医師を見つめていた。芒洋とした瞳の中に、どこか後悔の色が見え隠れしているように見えるのは、気のせいではないだろう。
せつらの頬を、手のひらが覆う。余った五指が、タランチュラの手足のように顎やこめかみに触れる。
顎に触れていた親指が、肌を這い回り、唇にたどり着く。淡く閉じられているそこは、珊瑚色をしていた。そこをなぞる指先の動きは、こうすることでこの美貌を自分のものにできるとでも思っているかのように、執拗に唇の上を往復する。
他の四指も、木々がざわめくようにして動きだした。美しい人差し指が目尻に触れた時、せつらは目を閉じた。メフィストが触れ始めてからようやく見せた、人間らしい反応である。
白いまぶたは、誘うようにメフィストの前へ晒されている。そこに指を這わせるのを、メフィストは躊躇わなかった。なめらかな、今まで誰一人として触れたことのないような肌の感触が伝わる。目尻から目頭へと、線を引くかのようにまっすぐ指をすべらせる。すると、長いまつ毛が指の腹を優しくくすぐった。メフィストは思わず喉を鳴らして笑う。喉の震えが指先にまで伝わったのか、傍目では分からないほど微弱な揺れを帯びた指は、目頭を通過し、鼻筋に触れた。天使でさえ触れるのを躊躇うような、美しい鼻梁だった。白衣の魔人も、感嘆のため息を思わず吐いた。
人差し指を鼻筋に這わせながら、親指以外の他の指はせつらの顔半分を覆うようにしてそこにある。そのまま、鼻梁に沿って下へと移動していく四指に対し、未だ唇に触れていた親指は、まるで他の指と合流しようと言うのか、上へと這い上がっていった。
メフィストの手は、そこでふわりと肌を離れた。音もなく、けれど未練だけはたっぷりと残した仕草で。
宙に留まった手は、まるで愛しい人を引き止められなかったような、それとも触れることを躊躇っているような形をしている。この手首から先を切り取って、大理石でできたプレートの上にでも置いておけば、誰もが美術品だと認めるだろう。
静かな部屋の中で、彼の手はいつまでもその形を保ったまま静止してしまいそうだった。いや、手だけではない。たった今向かい合っている二人の魔人──ひとりは瞑目する聖者のような顔をして、もうひとりは恋人を慈しむような顔をして──そのものが、一対の造形物としてこのまま永遠に凍りついていただろう。
しかし、そうはならなかった。
宙に浮かんでいた手が、肌の下の血脈を突然思い出したかのように、ふっとなめらかに動き出す。精巧な手が向かう先は、顔ではなく、無防備にさらされている白い喉だった。
綺麗に切り揃えられた爪が、室内の照明を反射して濡れ光る。妖艶な色を帯びたそれが爪の先に引っ掛けたのは、黒いシャツの襟元だった。
息を潜めるようにして、そこに佇んでいたささやかなボタンへ繊指が潜り込む。白い指先に押し上げられた時、ちゃちな留め具が「ああ」と恍惚のため息をこぼしたように見えた。
部屋に満ちる空気の、どれだけ張り詰めていることか。まち針一本でも落としてしまえば、全ての均衡が崩れてしまいそうだった。人も、物も、天上に住まう存在さえ、この二人の間に割って入ることは不可能だろう。それはつまり、メフィストがたった今しようとしていることを止める者など何処にもいない、という意味である。
嗚呼、まさしくその通りだろう。邪魔者が入らなければ、必ず成し遂げられるだろう甘美な行為を踏みにじったのは、他の誰でもない秋せつらだった。
瞬きをする時間さえかからなかった。魔界医師の繊指の先から、黒衣の魔人は忽然と姿を消していた。深い海のような目が、虚空から部屋の端へ、戸惑う素振りさえ見せずに移動する。出入り口であるドアノブに前に、見慣れたコート姿があった。
メフィストと目が合うと、芒洋とした顔のまま、コートの前を合わせ直した。どこか、茶化しているような仕草だった。
「サービスしすぎた」
静寂を壊すことへの恐れなど全く感じさせない声で、ぼんやりとそう言い放った後、魔人はあっさりと背を向けた。ドアが開き、生ぬるい空気が室内に流れ込む。立ち去る想い人を、胸の内のままに引き留めてしまいたくなるような、そんな温かさをしていた。
重厚な扉の向こう側へ、コートの裾が翻っては吸い込まれる。扉が閉まるほんの直前、まるで言い忘れたとでもいう風に「じゃあね」という言葉だけが聞こえ、それさえも扉が閉まる音にかき消された。
メフィストの元に残されたのは、痛いほどの静けだけだった。青白い照明は、艶やかな黒がどこにも見当たらない事を惜しむように室内を照らしている。
いつまでもドアを見つめている魔界医師は、さっきまで想い人に触れていた手指へ、ぞくりとするほどに赤い舌を這わせ続けていた。