ミスラは賢者に手渡された紙を、ひどく奇妙なものを見るようにしげしげと眺めた。その様子を見て、賢者はやや気恥ずかしさを覚える。ミスラが手にしている紙には、ある単語が記されており、それは賢者がたった今、ミスラの目の前で書いてみせたものだった。単語といっても、ほんの一文字だけのものだ。その一文字を、ミスラは長い時間をかけて見つめ続けている。既に、小説を一ページ読み終わる以上の時間が経っていて、それでも紙から目を離そうとする様子は無い。
紙を凝視しているミスラが一言も発さないため、長い沈黙が二人の間に落ちていた。そろそろ何か声をかけた方がいいのだろうか、と賢者が不安になってきた頃、ようやくミスラが口を開いた。
「しかくが」
「……しかくが?」
「四角が、くっつき合ってますね」
その言葉に、賢者はああと納得した。確かに、賢者が居た世界の文字を知らなければ、そう認識されるのが普通だろう。規則的にさえ感じられる見た目をしたその字は、一種の図形やマークのようだ。
賢者は、ついさっき自身が書いてみせた単語を頭の中に思い浮かべる。ミスラの言う通り、四角がくっつき合った、「晶」という自分の名前を。
「これで、あきらって読むんですよね?上の太ってる四角が”あ”なんですか?」
「いえ、それぞれの四角が音を表してるわけじゃないんですよ。全部の四角が組み合わさったその一文字になって初めて、あきらって読めるんです」
「はあ、これ一つであきらなんですか」
ミスラの顔を見る限り、あまりピンときていないようだ。それもそうだろうと賢者は思う。自分だって、韓国語を目にしても丸と棒の組み合わせとしか思えないくらいだ。ミスラの目にはひどく奇妙な文字として映るだろう。
ミスラの目は未だに、紙の上を凝視している。たった一文字だけのせいか、視線が右へ左へ動くことはなく、じっと一点のみをひたすらに見つめ続けている。自分が見られているわけでも無いのに、賢者はなんだか居心地が悪くなってきた。ミスラの手から無理やり紙を取り返してしまおうかとさえ考えた時、不意にミスラが顔を上げた。
「それ、貸してください」
一体何を、と察するより先に、片手に握っていた万年筆をミスラに奪われる。ミスラは手近な机に紙を敷くと、その上にかがみ込んだ。賢者の視線の先で、万年筆のペン先が、白い紙の上に着地する。
ミスラの手繰る万年筆は、焦ったくなるほどにゆったりとした動きで、紙の上に線を引く。ぱっと見では静止しているように見えるほどのスピードだ。ペン先にインクが溜まってしまうのではないか、と賢者が思ってしまうほどに、丁寧すぎるほどに時間をかけて、白い紙の上にぽつんと四角が一つ書かれた時、賢者はミスラが何を書こうとしているのかを察した。そしてその四角にくっつき合うような形で、隣にもう一つ四角が書かれる。その四角も、一つ目の四角と同じかそれ以上の時間をかけて生み出された。
ようやくミスラが紙から顔を上げて一息ついた時、既に書き始めてから一分以上の時間が経っていた。賢者はつい、大きく息をついてしまった。無意識のうちに、息を止めて見入っていたらしい。
「どうです」
ミスラから紙を受け取った賢者は、先程のミスラのようにじいっと紙面を凝視した。そこにあるのは、じんわりと滲みかけた線で描かれた、小さな四角の集まり、つまり「晶」であった。
「……すごく、上手ですね」
「でしょう?」
絞り出すようにそう言った賢者に、ミスラは得意げに返した。本当は、もっと別のことを賢者は言いたかったはずなのだが、何故だか胸がいっぱいでそれしか口にすることができなかった。胸がぎゅっと締めつけられるような、喉が渇くような感覚を覚え、賢者はそれを抑えようとするかのように一層目の前の紙を見つめる。
四角を6つ書くようにしてできた晶は、本当の「晶」を知っている賢者からするとやや不自然に見えた。けれど、時間をかけて書かれたそれは角や線に乱れは無く、漢字を書き慣れていなかった子供時代の賢者が書いたものよりも随分丁寧だ。そういう特殊なフォントであると説明されたら、納得してしまいそうな程には、賢者の世界の文字としてきちんと成り立っていた。
親指で隠せてしまいそうなほどに小さなその一文字が、賢者には愛おしくて堪らなかった。紙を胸に抱えるようにして、賢者はミスラに言った。
「あの、貰ってもいいですか、これ……」
「はあ、良いですけど」
物好きな人ですね、という声を聞きながら、賢者は宝物を覗き込むようにして、ミスラが書いた自分の名前をそっと眺める。裏写りしそうなほどに滲んだインクの書き跡さえ、賢者には愛おしく思えた。頬が緩むのを抑えられず、ミスラの視線を意に介さずに賢者はくふくふと笑う。しばらく、そんな賢者の姿をじっと見下ろしていたミスラだったが、ふと良いことを思いついたという風に瞬きすると、賢者の手から紙を奪い取った。
「えっ」
「貰うなら、良いものを書いてあげます」
賢者が制止しかけるも、それより先にインクが紙の上で踊った。さっきよりもずっと流暢に、ミスラの手が文字を書き連ねていく。数秒にも満たない時間で書き終わると、賢者に紙を返した。手元に戻ってきた紙を見て、賢者がぱちりと瞬きする。
「これは……」
「読めないでしょう」
何故か得意げなミスラの声が、賢者の頭上から降ってくる。賢者は答えなかったが、ミスラは気にせず続けた。
「教えてあげてもいいですよ。あなたがお願いするなら」
楽しげなミスラの声の数秒後、賢者は紙面から目を離しミスラを見上げた。その顔はひどく申し訳なさそうで、きっとわざわざ読み上げてもらうのを遠慮しているのだ、とミスラは解釈したのだが、実際は違っていた。すみません、という謝罪の後に、予想していなかった言葉が続く。
「あの、俺、読めます、これ……」
「…………」
毎日の業務として、魔法使い達に手伝ってもらいながらこの世界の言語で報告書を書き上げていた賢者は、簡単な言葉であれば自力で読めるようになっていたのだ。ミスラが書いてみせたような、短い文章であれば尚更、賢者には読むのが容易かった。
それを聞いて、ミスラは興醒めしたように一気に笑顔を消した。見慣れたいつもの気怠げな無表情で、賢者を見下ろす。
「……なんだ。つまらないですね」
「……すみません」
賢者は謝罪したものの、その声には申し訳なさよりも、抑えきれない喜びが溢れていた。紙で口元を隠しつつも、目元は明らかに緩み切っている。賢者は媚びを売っているようにさえ見える表情で、ミスラを上目遣いで見つめながらあることをねだった。
「……あの、読み上げてほしいです。ミスラに」
「あなた、分かるんでしょう?何が書いてあるか」
「そうなんですけど……。でも、ミスラに言って欲しいです」
ミスラはしばらくの間、無言で賢者を見下ろし続けた。しかし賢者は気圧されることなく、その目をじっと見つめ返した。睨めっこのような時間が続いた後に、はあ、とミスラの口からため息が漏れる。
「いいですよ」
それを聞いて、賢者は照れ臭そうに首をすくめながら笑顔を浮かべた。喜びを噛み締めるように、目をぎゅっと瞑りながら上気した頬を緩める賢者を、ミスラはどこか不思議そうな顔で眺めた。一度紙面を見返した賢者は、期待のこもった目でミスラを見上げる。上目遣いでじいっとこちらを見つめる視線に、ミスラは居心地悪そうに目を逸らしていたが、最後にはその目をしっかりと見つめ返し、口を開いた。
「好きです、晶」