くっついてください

寝巻きに着替えた賢者様は、着膨れている普段の姿も相まって、ひどく痩せっぽっちに見える。北の国でよく見かける、飢餓寸前の野うさぎを思わせる姿だ。けれど、この細い手足や薄い胴体が、毎晩俺のゆりかごになって、俺の体を包み込んでいる事実に、どうしようもなく興奮する。
「あなた、眠気覚ましを毎晩飲んでるって本当ですか」
薄い背中にそう話しかけると、賢者様はこちらを振り向いて笑顔を見せた。よく笑う人だな、と最初は思っていた。けれど観察するうちに、別にいつも笑ってるわけではないと気がついた。空を眺めてる時や、一人でいる時のこの人は、凍った湖みたいに静止した顔をしている。けれど俺の視線に気がつくと、ぱっと笑顔を浮かべてみせる。俺に見つけてもらえて嬉しいって、そう言ってるみたいに。
「そんな、薬みたいな物じゃないですよ。ただコーヒーを飲んでるだけです。スノウに聞いたんですか?」
上掛けをめくって潜り込んでくる体を、腰に手を回して引き寄せる。もっとくっついて欲しかった。ただでさえ服に隔てられているんだから、せめてもっと、空気が入る隙間さえないくらいくっつきたかった。
「これから寝るんだから、あなたは起きてる意味なんてないでしょう」
「だって、ミスラがまだ眠れてないのに、俺だけ寝ちゃうと嫌じゃないですか?」
「そりゃあ嫌ですけど、だからといって殺しはしませんよ」
そう返すと、賢者様は何がおかしいのか吐息を漏らして笑った。その息を肺に取り込みたくて、ベッドの中で一気に距離を詰めると「わああ」と声を上げてのけぞった。それを引き止めて、鼻先が触れ合いそうなほど近くまで密着する。これ以上離れないように、賢者様の後頭部へ余分な枕を壁のように置いた。「内緒話ですか?」と不思議そうな顔をしている。この状況を見て、何がどうして内緒話になるのか、よく分からない。「さっきの続きを聞かせてください」と促したら、ようやく話を再開した。
「殺されたくないから、ミスラの機嫌を取ってるわけじゃないですよ」
「じゃあ、何でですか?」
「ええと……、ミスラに嫌な思いをして欲しくないからですよ」
これで分かりますか?と賢者様は言った。へえ、と思った。俺は逆なのかと思っていた。俺のことが好きだから好きな思いをして欲しいのかと思っていた。嫌な思いをして欲しくないなんて、まるで弱者の媚びみたいだと思った。
「よく分かりません」
気を取り直して、賢者様の体にくっついた。脚を根元から絡めて、胸も腹も賢者様に押し付ける。綺麗にはまる凹凸を探すみたいに、そのまま上下に擦り付ける。けれど、なかなかうまくいかない。俺たちは同じような場所が盛り上がってるし、同じような場所が凹んでいる。体を擦り付けるたびに、互いの境目にある衣服がぐしゃぐしゃに乱れて、不快な塊になっていく。まるで二人の間に小石を転がされたような気分だ。嫌だって念じれば、この人は察して服を脱いでくれるだろうか。俺の方から命令するのは嫌だ。この人の方から、俺を想って、俺のために動いて欲しい。念じてみる。嫌だ嫌だ嫌だって頭の中で繰り返す。
「あはは。くすぐったいですよ、ミスラ」
けれど伝わってなかったようで、ただ頭を撫でられただけだった。でも、頭皮を撫でる指の腹の感触がゾワゾワしていて気持ちいい。もっと賢者様を感じたくて、鎖骨に鼻を突っ込んで匂いをいっぱい嗅ぐ。石鹸の香りがする。魔法舎に備え付けられた安っぽい甘い香りのするやつだ。こういうのを嗅ぎたいわけじゃない。もっと、この人の毛穴の奥から滲み出てるような、この人が食べた物とか身につけた物とか、この人の排泄した物とか、そういうものが分かるくらいの濃い匂いが欲しいのに。
「そんなに動いたら、眠れませんよ」
頭が腕に包まれる。布越しの腕に耳を覆われて、体内に響く自分の音がこもって聞こえる。ドクドク言ってる血流の音がする。もどかしい。こんなものを聞きたいわけじゃない。もっと俺に囁いて欲しい。その薄い唇を俺の耳にくっつけて。俺の耳を舐めたり、息を吹き込んだりして欲しい。まだしてくれたことがないから、賢者様にはこれからそういうことをして欲しい。
「ほら、明日は早いんですから、もう寝ましょうね。何でもお願い聞いてあげますから」
「じゃあ、くっついてください」
「いいですよ」
でももうくっついてますね、なんてのんびりした声が聞こえたから、思わずかき集めるみたいに、両腕をいっぱい使ってこの人のことを胸に抱いた。ざわざわする。賢者様の心音が俺のと混ざり合って、全く重ならないリズムが胸を裂くみたいに聞こえている。
「唇も、くっつけましょう」
そう言うと、賢者様は一瞬目を丸くした後、すぐに笑って受け入れてくれた。本当は、賢者様の方から言って欲しかったのに。口と口をくっつける。柔い。今日の朝、オムレツを食んでいた口だ。その舌の上で踊ってるのが卵じゃなくて俺の目玉だったらいいのにって思っていた。
俺以外の人にこういうことしないでくださいって、それもお願いしたかった。けれどその前に睡魔が来るから、口にできずじまいだ。多分、俺が寝た瞬間にこの人は唇を離す。そうでなくても、朝が来たら当然のように離れる。多分俺は近いうちに、夜を留まらせる魔法を求めるだろう。この人を俺のそばに引き止めるために。