晶は洗面台に手をついて、こみ上げてくる吐き気と闘っていた。品の良い大理石で作られた、手洗い場が視界に入る。流石こういうお店は、お手洗いも綺麗に作られているようだ。
日曜日の昼間。晶は母親と一緒に、とある寿司屋の二階に来ていた。予約制で、個室が用意されている。彼はさっきまで見ていた景色を思い出していた。テーブルを挟んで向かいに座る母親と、その隣に座る顔も知らない男。大学生の息子を持つシングルマザーが再婚するというのは、特に珍しくもないことなのだろう。晶に反対するつもりはなかった。これから父親になるのだろう男性は、気弱で穏やかそうな人だった。彼にとって何の不満もない。ただ一つ問題があるとすれば、今この瞬間に喉をこみ上げてくる、吐き気くらいであった。
やっぱり、断るべきだったのだろう。晶は自分がアルコールに弱いことを自覚していた。しかし状況が状況なだけに、断るのも気まずいと思って飲み干した。その結果がこれである。
便器に駆け込むべきだろうか。脂汗を滲ませながら彼は考える。たどり着く前に床へぶちまけてしまいそうでもあった。それなら今ここで洗面台に吐いてしまうべきか。でも、その最中に他のお客さんが入ってきたら?それからしばらく逡巡したのちに、彼はようやく覚悟をきめた。
洗面台の上に屈みこむ。口の中に指を入れた。これから起こりうることを想像して、悪寒と緊張が体を走る。けれど、それが終われば楽になるはずだ。母親とその男も、いい加減待ちくたびれているかもしれない。全身がこわばり、喉が開く。近づいてきた靴音に気づかなかったのは、極度の緊張状態にあったからだろう。
「君、だいじょうぶ?」
鼻先を掠める、ホワイトムスクの香り。ほとんど反射的に、晶は声のした方を向いた。涙の浮かんだ目で、中途半端に指先を口の中に差し込んだまま。滲んだ視界に、知らない男が映る。白い、整った顔。細身のスーツ。晶の指を、唾液が伝った。
「ねえ」
そう声を掛けられるのとほぼ同時に、晶は嘔吐した。いかにも高級そうなスーツへ、盛大にぶちまけながら。
「あら。どうしたの、それ」
戻ってきた晶の姿を見て、母親が不思議そうに聞く。彼は身に着けていたブレザーを脱いで、丸めて腕に抱えていた。上着一枚を丸めているにしては、少し大きいように思える。
「ちょっと、濡れちゃって」
手を洗う時に水が跳ね返ったのだと晶が説明すると、母親はあっさり納得した。晶が長くお手洗いにこもっていたのを、緊張のせいだと思っていたらしく、不審がっている様子はない。本当に昔から緊張しいな子で、と母親が男に説明する。母親の頬はピンク色で、隣に座る男をニコニコと見上げる姿は、まるで小さな女の子のようだ。そして男のほうも、幸福そのもののように愛おしげな目で見つめ返している。多分、この二人は、いい夫婦になるんだろう。ぬるいサーモンを咀嚼しながら、晶はぼんやりとそう思う。
そうしながら、彼はそばに置いたブレザーへ意識を向けていた。正しくは、ブレザーの内側に包まれている、吐瀉物で汚れたスーツのジャケットに。
「そりゃあ少しはびっくりしたよ。でもそれより、随分かわいい顔で吐くんだなーって思ってさ」
にこやかにそう言い放つ男に、晶は引きつった笑顔を返した。この人なりのジョークなのだろう。そう納得しようとしていた。
ガラス越しの日差しが降り注ぐ、ホテルのラウンジ。ティールームとも呼べるのだろうか。小さな丸テーブルを挟んだ向かい側に座る、俳優のようにきれいな男。彼の足元には、紙袋が一つ置かれている。そこには、クリーニング済みのジャケットが入っていた。ここに来る際、晶が持参したものである。あの日、晶が汚してしまったスーツ。目の前にいるのは、お手洗いで鉢合わせたあの男なのだった。
あの時。晶は惨状を理解した瞬間に、顔を真っ青にして謝った。それに対し男は、不思議なくらい平然として「気にしなくていいよ」と言っていた。スーツの汚れより、晶の体調を心配しているほどだった。クリーニングして返すから、LINEを教えてほしい。そう言うとLINEはやっていないと男は返した。代わりに電話番号を交換して、そして今日に至るのである。
晶は落ち着かない気持ちで周囲を見渡す。ホテルのラウンジでお茶をするのは、彼には初めての経験だった。待ち合わせ場所に提案したのは男の方である。男はコーヒーとショートケーキを注文して、晶は紅茶のみにした。男は未だケーキに手を付けていない。華奢なフォークが添えられた、見るからに可憐なショートケーキ。
「あの、俺が払いますよ」
おずおずと晶がそう口にすると、男は数分前と同じようににこやかに首を振って断った。でも、と食い下がる晶に男が言う。
「俺が払いたいんだよ。君にはクリーニング代を払ってもらっちゃったし」
「それは、俺が汚したんだから当然ですよ」
「うーん」
コーヒーカップを持ち上げ、首をかしげながら男が微笑む。そんな何気ない仕草まで格好いい。まるで映画の登場人物のようである。晶は改めて男の顔を眺めた。黒に近い濃紺のスーツ。見た目は若い。晶とそう歳は変わらないだろう。しかし洗練された仕草が、彼の年齢を分からなくさせる。きれいな、やさしそうな作りの顔。おそらく彼に対して、ほとんどの人間は羨望か親しみを覚えるのだろう。それなのに、どこか不穏なものを晶は感じ取った。胸騒ぎを覚える、視線と仕草。今にもその白い肌の内側から、得体のしれないものが現れて、豹変してしまいそうな気さえした。
「なあに?」
「あ、いえ……きれいな人だなって」
男はふふと笑って「世渡り上手だね」と言った。どう返すべきか分からずまごついていると「ね、」と男が切り出した。
「俺はね、君にしてほしいことが一つあるんだ」
「して欲しいこと?」
「そう。だからね、俺がここで奢るのは、そのお礼ってことになる。どう?」
「それは、構いませんけど…….」
構わないが、そのして欲しいこととは何なのだろう。晶の困惑を知ってか知らずか、男はゆったりとした仕草で膝の上で指を組み合わせる。そして不意に話題を変えた。
「あの時、なんで吐いてたの」
「ええと、お酒を飲んで、酔ってたんです」
「へえ、無理やり飲まされて?」
「いえ、なんていうか、断りにくい状況だったので……」
「なあに。接待でもしてたの」
そこまで聞かれて、晶はつい込み入ったところまで話してしまった。母子家庭であったことと、あの日は母親の再婚相手との顔合わせをしていたことを。男は楽しそうに聞いていた。にこやかな、完璧に整った笑顔を浮かべて。話し終わると、男は「大変だね」とだけ言った。十人中十人がそう返すだろう感想だった。
「お願いがあるって、言ったよね」
男が指先を組み直す。薄い唇を舌先で湿らせた。ピンク色の舌は、どこかぞくりとするような光沢をまとっていた。
「あのね」
「はい」
「君とお友達になりたんだ」
数秒のまが、二人の間に落ちた。おともだち。晶はその言葉の意味を飲み込もうとした。お友達になりたい、なんて改まって言われること自体、十数年ぶりのことだった。しかしそれ以上に、自分と仲良くなりたがる理由が分からないことが、晶を困惑させていた。
「……どうしてですか?」
「さっきも言ったでしょ。あんなに可愛い顔で吐く子は初めてだって」
いよいよもって、男のことが分からなくなった。彼は、二人が惹かれ合い、親交を深める光景を頭に思い描けるのだろうか?少なくとも、晶には不可能だった。
晶は形容しがたい感情がせり上がってくるのを感じていた。例えるなら、キャンディがぎっしり詰められた瓶の中に、羽虫が一匹紛れ込んでいるのを見たような。明らかな異物が、自分のすぐそばまで這い上がってきているような。
「お友達はだめ?」
男が聞く。その顔に落胆の色は無い。晶が躊躇することを最初から分かっていたような顔だ。うっすらと笑ったまま、男が続ける。
「じゃあ、君のお父さんになっちゃおうかな」
晶は今度こそ、その言葉の意味を理解できなかった。理解できても、飲み込むことは難しかった。なにせ彼はついさっき、母親が近々再婚することを、男に聞かせたばかりなのだから。
「無理ですよ、そんなの……」
「なんで?簡単だよ。君のお母さんに気に入られたらいいんだから。その新しい男よりも」
晶は、父親となったこの男が、自分の家で暮らしている姿を想像した。目の前の男が、玄関やリビング、バスルームを出入りする光景を。晶の額に汗が滲む。嫌悪、もしくは怯えに似た感情が全身に満ちていく。母親の再婚相手と対面した時、彼はそんなことを想像すらしなかった。当然かもしれない。正常な人間が正常な人間を前にした時の反応とは、普通そういうものだろう。
「そんなに驚くようなことかな」
男は不意に、ショートケーキに指をねじ込んだ。添えられたフォークに見向きもせずに。白い指が、生クリームの海に沈んでいく。スポンジも、いちごの切れ端も、すべてが吐瀉物のように皿の上で散らばった。あの可憐な姿は、もはやどこにも無い。
音も無く指が引き上げられる。クリームまみれになった指の向こうで、男が笑っていた。笑顔のまま、テーブル越しに手を差し出される。
「はい」
晶は呆然とした。鼻先に突き付けられた白い手と、生クリームの甘い匂い。周囲には、彼らのような客がテーブル席についている。背後には、ホテルの従業員だっているはずだ。彼らは多分、こちらを見ていないのだろう。けれど、その視線がいつ向けられるか、二人のどちらも分かるわけがない。男は笑っている。平然とした様子で。
少しの逡巡の後に、晶はその指を口に含んだ。男の行為を受け入れたからではない。こうした方が、顔をそむけるより早く、この異様な状況から抜け出せるとそう思ったからだ。指に絡みついたケーキの残骸を、舌でこそげ落とし、舐め取った。味はよく分からなかった。ただ、クリームのなめらかな感触だけが、生々しく感じ取れた。
男は微笑を浮かべながらそれを見ていた。きれいになった指先を満足そうに一瞥した後、今度は自分でそれに舌を這わせた。晶の唾液で濡れた指を、男の舌が這いまわる。なにかの生き物のように。晶が見つめる中で、薄い唇が「あはは」と場違いな笑い声を発した。
「あの時と違って、しょっぱくないね。」
「あの時……」
「ほら、お手洗いで、俺が君のほっぺを撫でたでしょ」
それは、確かに記憶にあった。汗と涙で湿った晶の頬を、男が手で拭ったのだ。まるで小さい子にしてあげるように。乾いた手の感触に、なぜかひどく安心したのを覚えている。あの場で別れた後、その手を男がどう扱ったのか、晶が知るはずもない。「さて」と言って、男が伝票を手に立ち上がった。
「考えておいてよ。お友達かお父さんか。俺はどっちでも構わないんだけどね」
濃紺のスーツ。椅子から立ち上がると、男の長身がより引き立つように見えた。テーブルの上の皿には、ケーキの残骸がまだ残っている。獣に食い荒らされたような姿で。
「それと、もう一つ」
「────」
「電話番号はむやみに教えない方がいいよ。それさえ分かっていれば、だいたいのSNSのアカウントはすぐに探し出せるから」
ガラス越しに射し込む光を、まぶしいと晶は思った。ティーカップの中に浮いたレモンの輪切りにさえ、その光は降り注いでいる。晶はそれを、今初めて知ったことのように眺めた。
「ああ、それとね、これだけは覚えていて」
男の言葉に、晶はのろのろと顔を上げた。目が合って、男は嬉しそうに笑みを浮かべる。無邪気な、可憐と言ってもいいくらいの愛らしさで。好きな子と隣の席になれたことを、喜ぶ男の子のように。
「フィガロ・ガルシア。それが俺の名前だから」