うしなわれた彩画

 秋せつらは、メフィスト病院のとある一角に忍び込んでいた。ここの院長がまた、悪趣味なダミー作りに精を出していないかと偵察に来たのだ。
 奥へ進んでいくうちに、見覚えの無い廊下に出た。そこは病院というより、画廊のような見た目をしていた。
 院内にある他の廊下と違って薄暗い。明かりを絞っているというより、意識して暗闇を作り出しているように見えた。
 道の真ん中だけが道標のようにほのかに明るく、せつらはその光をなぞるように奥へ向かった。

 数分後、せつらは不意に足を止めた。壁に、一枚の絵が飾られている。
 絵は、せつらの身長よりも大きい。それだけでも随分な迫力がある。しかし、見る者を圧倒させる、それ以外の要素があった。
 そこに、一人の男が描かれていた。
 肩より上がキャンバスに収められている。黒い髪に、白い肌をしている。それを引き立てるかのように、濃いブルーの絵具が背景に塗りたくられていた。いや、この男がそこに居れば、どんな物もただの引き立て役にしかならないだろう。それほどまでに、男は美しいのだ。
 秀麗な眉、整った鼻梁、淡く閉じられた唇。頬から顎にかけての、奇跡的な美を持ったライン──この一本の線を描こうとして、どれだけの画家が筆を折ったのだろう。
 そこに描かれているのは紛れもなく、ここ<新宿>で人捜し屋を営む男──秋せつらに違いなかった。
「秋せつら」はキャンバスの中で、無表情に、心持ち目を伏せてこちらを見つめ返している。せつらは立ち尽くしたまま、その視線を受け止めるように、絵を見上げ続けていた。
 しばらくの沈黙の後、彼は口を開き、芒洋とした声でこう呟いた。

「これは僕じゃない」

 痛烈な批評。そう捉えられてもおかしくない言葉だった。
 しかし、せつらにそのような他意は無く、ただ単純に言葉通りのことを言っただけである。
 僕じゃない。では、この男は誰なのか。そうして見返してみると、男の目の中に<僕>が持ち得ないはずの冷徹な光が潜んでいることに気づくはずだ。春風のような暖かみは、絵具で描かれた顔のどこにも見当たらない。
 彼は、まさしく「秋せつら」であった。
 ただし、ここには居ない<私>の方であったが。

「あいつめ、また変な趣味を始めたな」

 せつらの言う「あいつ」とは、勿論ドクター・メフィストのことである。
 メフィストが何処かの画家に依頼して絵を描かせたのか、それとも売り込みに来たのを買い取ったのかは定かではない。しかしどちらにしても、せつらにとって愉快ではなかった。
 それから数分、もしくは数秒ほどせつらは絵を眺め続けた。呆けたように立ち尽くす彼の耳元で、艶やかな声が不意に囁かれた。

「見ていてそんなに面白いか?」

 感情らしきものがあまり感じられない声だった。せつらは、目の前の絵が喋ったのかと思った。しかし、薄紅の絵具で描かれた唇は、僅かばかりも動いていない。

「別に」

 答えながらせつらは糸を周囲に飛ばしたが、手応えはなかった。

「こんな顔してたんだなって思って」

 そう付け加えたが、返事はなかった。言葉の意図をはかりかねているのかもしれない。

「直接、顔を合わせたことがなかったから」
「なるほど」

 そこまで言って、ようやく声の主は頷いた。
 せつらは、頭の奥が痺れていくような感覚を覚えた。何か恐ろしい、白昼夢のような出来事が起ころうとしているからだろうか。
 それとも、囁かれる声の美しさに酔っているのかもしれない……秋せつらともあろう男が?

「いま、会いに行ってやろうか」
「会う?」

 声は一転して、からかうような響きを含んだ。冷ややかな声だけに、嘲笑されていると取る者もいるかもしれない。
 せつらは眉をひそめた。声が口にしていることが本気なのか冗談なのか、判断できていないようだった。
 何しろその提案は、永遠に叶わないものとして彼の中で処理されてきたのだから。

「じゃあ、来て」

 せつらは芒洋と告げた。期待は込められていなかった。せつらとしては、やまびこを相手に言葉を返しているような気分だったのかもしれない。
 様々な怪奇現象が存在する<新宿>で、それは正しい心構えのように思えた。
 しかしせつらの予想に反して、さっきまで無かったはずの気配が、音も無く背後に立つのが分かった。
 冷えた指が、せつらの指の間に差し込まれる。夢から覚めるような心地がした。そのまま指を絡め取る動きに、生々しい力が込められている。
 せつらは振り返った。それに合わせて、自然と絡み合った指が離れる。
 淡く照らされた廊下で、輝くように白い貌が佇んでいた。

 見つめあった一対の美影身に、世界は音を無くしたかのようだった。この二人が見つめ合うためだけに、世界が今まで存在していたと言っても過言ではないだろう。
 静まり返った廊下の中で、二人の間をどのような感情が行き交っているのか、誰も想像がつかない。
 奇跡のように対峙した二人が、最初にどのような言葉を交わすのか、世界の全てが息を潜めて見守っている。
 しかしその期待を、ことごとく台無しにするのが<僕>という男だった。

「本当に来た」

 芒洋とした声で、ひとりごとのようにそう呟いた。
 彼なりに驚いているのかもしれない。しかし、ぼそりと呟く声は、道端で干からびたミミズを発見した時のようだった。
 <私>はそのリアクションを予想していたのか、がっかりした様子も無く無表情のまま片割れを見つめている。
 <僕>は肩越しに背後の絵を顎で指しながら尋ねた。

「お前は、あそこに閉じ込められてたの?」
「違う」

 精巧な造形物が、本物の魂を引き寄せて閉じ込めるというのは<新宿>ではよくあることだった。
 ここ数日、<私>が表に出てこなかったことと、突然目の前に現れたことを踏まえて聞いてみたが、どうやら違ったらしい。

「私はお前の中にずっといた。しかし、こうして相見える場所を、あの絵が用意したのだ」
「へええ」

 せつらは相槌を打った。すると、絵には魔力的なものが込められていたのかもしれない。もしくは、<新宿>という名の世界が、二人の魔人が同時に存在するのを見たいと願った為に、妙な力を絵に授けたか。
 ほんの僅かなきっかけで何かが狂う。ここはそういう場所なのだ。

「閉じ込められていた方が良かったか?」
「別に」

 どこか興味深そうに聞く声に、淡々と<僕>が答える。

「でも、もしそうだったら、可哀想だから憐んでやろうと思って」
「嫌な男だ」

 <私>が一瞬だけ俯いた。彼にしては珍しい、自嘲するような笑みが浮かんでいる。
 それを見た<僕>は、目の前の男に対し「姫に似てるな」と相手が聞けば憤慨しそうなことを思った。
 苛烈な言動も、尊大に見える振る舞いも、こうして<僕>の言葉に振り回され気味になるところも。妖姫と名乗る姫をどことなく彷彿とさせた。

「あとであの藪に、事情聴取しに行かないとな」

 <僕>は再度、壁にかけられた絵に向き直ってそう言った。静かにこちらを見つめ返す美貌が、変わらずそこにあった。
 この状況が、メフィストの思い通りのものであるかは分からない。けれど、もしよからぬことを企んでいるならば、即刻破棄する必要がある。
 もう一人の男のことなど気にも止めずに、<僕>はまた絵をぼんやりと見上げ続けた。
 ようやく視線を外したのは、背後から差し込まれた二本の腕が、自身の体に巻きついた時だった。
 背中にぴったりと密着する体と、蛇のように体を這い回る腕の感触。
 両手が<僕>の胸のあたりで落ち着いた時、彼はようやく声を上げた。

「お前もそっちの気があるの?」
「あの薮医者と一緒にするな」

 耳の後ろで囁かれる言葉は、あからさまに不満そうな響きを持っていた。
 じゃあ、なんでハグしてる?と聞こうとしたのを<僕>は気まぐれにやめた。
 目も合わせず、お互いに正面を向いたまま会話をする。

「変なこと企んでそう」
「企んでない」
「ろくでもないこと考えてそう」
「同じ意味じゃないのか」

 大真面目に否定する<私>に、確かにやましいことは考えてなさそうだと<僕>は納得する。
 そして同時に、この状態を特別不快だと感じていない自分に気が付いた。
 人間が手足による接触で可能とする行為のほとんどを、せつらは妖糸で済ませられる。そのためか、肉体の触れ合いを煩わしいと思うことが多い。
 慣れ親しんだ相手からの接触でも、快と不快であれば後者を抱くことが殆どだ。
 それなのに、<私>から抱きしめられているこの状況を、<僕>は何とも思っていない。
 自分自身のことながら、<僕>は不思議な気持ちでそれを目の当たりにしていた。

「今気づいたことがある」
「なんだ」
「僕は潔癖なのかもしれない」
「潔癖?」
「そう、潔癖」
「潔癖……」

 <私>が二度目に口にした「潔癖」は、笑いを堪えているような、わざとちぐはぐに喋っているような響きを含んでいた。カタカナで「ケッペキ」と言っているようにも聞こえる。
 愉快で仕方がなかったのかもしれない。
 潔癖という言葉に当てはまる人間は多種多様にあるだろうが、少なくともここ魔界都市で数年生きていられる人間は「潔癖」ではないように思えた。

「馬鹿にしたな」
「別に」

 その「別に」が<僕>の言い方を真似ていることに、真似された本人が気づく素振りはなかった。

 会話が止んだのは、得体の知れぬ靴音が二人の耳に届いたからであった。
 世界の終わりを告げる鐘の音のように、厳かな音色を奏でながら、刻々と、この部屋に近づいている。
 <僕>は肩越しに<私>を見た。
 <私>もまた<僕>を見た。
 二人とも、ここへ訪れようとする者の正体を見抜いていた。

 ドクター・メフィストがその廊下へ足を踏み入れた時、そこにはあの絵画と、その前で立ち尽くす秋せつら一人だけだった。
 普通の人間であれば辿り着けない場所に侵入していた彼を見ても、メフィストは特別驚かなかった。
 壁の絵画を一瞥し、それからせつらへ目を向ける。メフィストを振り返ったせつらは、肩をすくめてこう言った。

「僕がやったんじゃない」

 メフィストはもう一度、絵画へ視線を戻した。
 そこに描かれていた美しい男は、キャンバスの表面を縦横無尽に切り裂かれ、もはや何が描かれていたのかも分からない状態になっていた。
 切り裂かれた場所からキャンバスの下地が捲れ上がって、密集した羽毛のようにも見えた。
 メフィストは「ふむ」とだけ口にしてせつらの隣に並び立つと、興味深そうに絵を眺めて言った。

「確かに、君の言う通りだ」

 そして間を置かず、せつらへ向き直ってこう口にした。

「<僕>がやったものではないね」

 メフィストの目には異様な光が含まれていた。
 主治医としての理知的なものはそこに無い。
 奇妙な実験体を手に入れたマッドサイエンティストのような──もしくは、悪徳に焦がれる神父が、自身の身に潜む悪魔の姿を覗き込もうとするような、反道徳と倒錯に満ちた眼差し。
 その視線から逃げるように、せつらは顔を逸らした。
 さっきまで体に絡みついていた二本の腕の感触は、とっくの昔に消え失せていた。