いつか、もしくは50年後に

 乾いて淀んだ空気が、寝室の中に充満していた。朝ではあるものの、朝陽が室内に差し込んでくることはない。窓の外にあるのは、横殴りの吹雪ばかりだからだ。
 ベッドで上体を起こしたドクターが、その景色を眺めている。シルバーアッシュの記憶によれば、ドクターは昨日もおとといも、そうやって外の景色を眺めていた。
「退屈じゃないか」
「なんで?」
 ドクターが振り返らないままそう返す。
「昨日も同じ天気だっただろう」
「雪の大きさが違うよ。風向きも」
「そうか」
 いま寝室にいるのは、シルバーアッシュとドクターだけだ。しかしそれは二人きりというより、一人と一人であると表現する方が正しく思える。実際、二人は別々のことをしていた。ドクターは外の景色を眺めており、シルバーアッシュは一人掛けのソファーに座って、今朝の新聞を読んでいた。その新聞はほとんど読み終わっているので、今はその紙面越しにドクターの様子を窺うことに意識を割いていたが。
 ドクターは、ワンピース状のやわらかい寝間着に身を包んでいる。それはシルバーアッシュ家の末の妹曰く、「ロッキングチェアに座って編み物をしているおばあちゃんが着ているような服」であり、「お兄ちゃんはもっと、新婚さんらしいお洋服をドクターに着せてあげてよ」とも言っていた。新婚さん。その言葉は確かに二人の関係に当てはまっている。しかし、シルバーアッシュにとってはもっと、違う言葉で表現するべき関係のような気がした。
 ドクターが大きなあくびをする。
「眠いか」
「うん」
 最近、いくら寝ても疲れてるんだ、と彼が続ける。
「まだ眠ってるといい」
 シルバーアッシュがそう言うと、ドクターは「そうする」とだけ答えてベッドにもぐりこんだ。シルバーアッシュに背を向ける形になる。シーツ越しに浮かび上がった、薄い体のラインを彼は眺めた。寝間着から突き出た白い足が、毛布の下でどんな風に収まっているのか。彼の頭は驚くほど正確にその形を思い描けるだろう。
 そう遠くない未来、彼は自分の元を離れるのかもしれない。ドクターを見るたびにシルバーアッシュは思う。それはドクターがこちらに向ける好意や関心が、砂時計の片側に注がれつつある砂のように、いつか尽きてしまうもののように思えるからだ。婚姻関係になるのを許してくれたのも、こうして一緒に暮らしてくれていることも、全てはドクターの一時的な慈悲によって与えられたもののように感じてしまう。
 だから、いつか彼がこの関係を断って、どこかに行ってしまう気が彼はするのだ。例えば、今はもう役員として名前を置いているだけのロドスに帰るとか。龍門でもヴィクトリアでも、どこにだって彼の居場所はあるのだろう。
 しかし、もしそんな事が実際に起こったとしても、彼に愛想を尽かされたとか、裏切られたと激昂することはないのだろうとシルバーアッシュは確信している。おそらく、ドクターは最初からこちらを愛してなどいなかっただろうからと自分に言い聞かせて、余生を死んだように過ごすのかもしれない。シルバーアッシュはそんな風にさえ考えていた。
 毛布の下で、ドクターの肩がゆるやかに上下する。遅れて、かすかな寝息が聞こえてきた。そろそろ仕事の支度をしなくてはならない。シルバーアッシュはソファーから腰を上げた。

 別の日も、彼らは同じように寝室で早朝を過ごしていた。
 ドクターは、ベッドの上で新聞を読んでいる。ついさっきシルバーアッシュが読み終えたものだ。手渡すときに、一瞬だけ指先が触れ合った。それだけで彼は喉の渇きを覚えた。数分経った今も、まだそれが続いている。
「ヴィクトリアで大型建造物を建設予定だって」
 ドクターがそう読み上げる。シルバーアッシュもさっき目にした記事だ。雲にまで届きそうなほどの高層建築で、スポンサーに有名貴族が名前を出している。
「ヴィクトリアの新たな観光名所にあるだろう、らしいよ」
「ただの予定だ。どうとでも書いておける」
 その貴族にとって、権威アピールも兼ねているのだろう。特にこういった一般市民の目に留まる紙面上であれば。「最上階からは隣の移動都市まで見渡すことができる」という謳い文句で民衆の心を一時的に高揚させることが目的であり、その建物が実際に建てられたかどうかを数年後に話題にできるほど、覚えている者はそうそう居ない。ドクターはやけに真剣な目をしてそれを見ている。かさついた紙面の端を押さえる、透き通った爪。
「いつか、私と君とで見に行こうか」
「ヴィクトリアの貴族の言うことだ。何十年後の話になるかもしれんぞ」
「そんなに?」
 その、やけに子供っぽい反応に、シルバーアッシュは少しだけ笑った。しかし少年のような見た目をしたドクターには、そういった口調もよく似合っている。折れそうに細い首や、うす青い血管が走る手の甲なんかを何気なく眺めていたシルバーアッシュの耳に、どこか無邪気な声が飛び込んできた。
「じゃあ、金婚式の時に行こう」
 金婚式、という耳慣れない言葉に、彼は数秒黙り込んだ。それが結婚五十周年目を祝う物事を指すことは分かっているけれど、少なくとも彼の日常生活で出てくる言葉ではなかった。だから、彼にしては珍しくこう聞き返した。
「誰のだ」
「君と、私の」
 顔を上げたシルバーアッシュが、大きな瞳と視線が絡み合う。そういえば今日、初めて目が合ったような気がした。随分と、時間をかけてシルバーアッシュはその意味を飲み込んだ。じわじわと理解し始めたところで、呆れていると思い込んだのか「いやならいい」とドクターが言う。
「いやじゃない」
 と、否定したところで、何か恥ずかしさのようなものがシルバーアッシュの胸に湧き上がりつつあった。しかしそれは何に対する気恥ずかしさなのだろう。年月や記念日に趣を持たせようとする考え方自体についてか。それとも、甘やかさの無い新婚生活に勝手に拗ねて、もう愛されていないとへそを曲げた自分自身に対する気まずさかもしれない。
「五十年後なら、お互い生きているか分からないだろう」
「そうかな」
 おっとりとした口調のまま、どこか操り人形じみた動きでドクターが首をかしげる。やわらかそうな髪の毛先が、鎖骨にかぶさった。
「生きていて欲しいって私が望んでるうちは、何をされたって君は死なないように見えるけど」
「────」
 シルバーアッシュは返す言葉を思いつかずにいた。対してドクターは、返事がないのを気にする素振りもなく、新聞紙を畳み始めた。奇妙な角度に折り始めたかと思いきや、紙飛行機に作り替えられる。どうやら他に興味が惹かれる記事は無かったらしい。
 シルバーアッシュの目に、ドクターの姿がさっきまでと違った姿で見え始める。ややくたびれた寝間着の襟ぐりから覗く、抜けるように白い胸元や、まつ毛の影が落ちる頬に、視線が吸い寄せられた。生々しい何かが、その肌から匂い立つようだった。うすい体をした目の前のこの男が、自分のためだけに存在している生き物のように彼は思えてきた。
「何か言いたそうだね」
 かけられたその言葉を合図にするように、シルバーアッシュは立ち上がって、ベッド脇にまで近づいた。ドクターの頬に手を置く。なめらかな肌だ。手のひらの皮一枚下で、ぞくぞくと高ぶるものがある。彼の頬に生えたうぶ毛の感覚まで感じ取れる気がした。色のうすい、丸い目が、じっとこちらを見上げる。
「やらしいこと考えてそう」
「その通りだ」
 そう言いながら、襟元から手を差し込む。乾いた手が素肌に触れた。唇を重ね合う。互いの口の中を舌でかき回した。顔を離した瞬間に、ドクターが言った。
「またするんだ」
「また?」
「最近、君とセックスする夢ばかり見る」
 言ってなかったけ?とドクターが言う。つまりそれは、ほんの数十分前もこの男はセックスをしていたことになるな、とシルバーアッシュはぼんやり思った。もちろんそれは現実ではなく、意識の中でのことなのだが。
「寝足りないと言っていたのはそのせいじゃないか」
「そうかも」
 くふくふと笑う白い頬に、シルバーアッシュは何度も唇を押し当てる。そうしながら、昨日までのどこか気だるげなドクターの対応を思い出す。寝起きで機嫌が良くないのだろう、と一人で納得していたのだが、確かにあれは情事後の倦怠感を帯びた振る舞いに似ていたと思う。しかし夢の中の出来事だからといって、さっきまでセックスの相手をしていた男が、涼しげな顔をして朝の身支度をしている姿をどんな気持ちで見ていたのか。もし許されるなら、ことの最中に聞いてみたいものだとシルバーアッシュは思った。