銀博♂(アークナイツ)

 以前から、シルバーアッシュにはある独特な習慣があった。奇癖とも呼べるものかもしれない。それは、ドクターと二人きりになった際に、ドクターの手首を強く掴む、というものだった。
 こうして言語化してみると、やはり奇妙で意図の分からない行動だろう。けれどもそうとしか説明できない行為だった。彼は室内に二人きりになると、おもむろにドクターのそばまで近づき、彼の手首を手に取る。そして、手の中に握りこんだそれへ、徐々に徐々に力を込めていくのだ。
 その直前に、ドクターを脅すような言葉は無い。暴力によって何かを要求することもなかった。ただ、ドクターの手を強く握るのだ。その間、ドクターは特に抵抗しない。シルバーアッシュは微笑を浮かべながら、黙ってドクターを見つめている。ドクターもまた無言で見つめ返すのが常だった。ドクターの視線が、いま圧迫されている手首へ向かうこともあったが、どちらでもシルバーアッシュの行為に違いが出たことはない。
 力が徐々に強まり、痣ができそうなほどになって、いよいよ折れてしまうだろうという所にまでなると、ドクターが「やめて」と言う。すると、シルバーアッシュは素直に手を離すのだ。ためらう素振りも見せない。そうプログラミングされた機械のように、従順に解放する。
 もし「やめて」と言わなければ、彼はこちらの腕が折れるまで続けるのだろうか? そう疑問に思ったことはあるものの、そこまで被害を出してまで実験する意義はないだろう、という結論に毎度行きつき、ドクターは「やめて」と声をあげる。それはさながら、子犬をしつけている飼い主のような姿だった。
 ドクターは、その行為の意味を知らない。知りたいとは思うものの、シルバーアッシュの内面に踏み込んでまで理解したいものではない。要するに怠惰なのだ。手間をかけてシルバーアッシュと対話するより、毎回「やめて」と言う方が労力を割かずに済んでいるという見解だった。
 手首を握りこんでいる最中の、あの表情。シルバーアッシュは微笑を浮かべている。それは慈悲深さを感じさせるような類の笑みではない。こちらを試すような、挑発的な感情が彼の目には浮かんでいる。ドクターに危害を加えていることに対しての、陶酔もあるように思えた。虫をいじめる子供のような表情と言えばわかりやすいかもしれない。その顔を、ドクターはじっと見つめている。自身の手首が圧迫されるのを感じながら。

「その痣はどうした」
 ケルシーによる定期健診の際、ドクターはそう尋ねられた。もちろん、手首に残るシルバーアッシュの加害の跡を指していた。ドクターは嘘をつくことにした。彼を庇っているわけではなく、そうした方が早くこの場を切り上げられると思ったからだ。
「ああ、これはね、実験だよ」
「実験?」
「うん。自分で自分の腕を掴んで、耐久度を探ってるんだ」
 ケルシーはあの、何もかもを見透かすような目をしてドクターの目を覗き込んだ。
「ドクター、私にはそれがつまらない嘘だと分かる」
「うん?」
「その手形の、親指の位置を見てみろ。君のもう片方の手を使った場合、どう試行錯誤しても、そのような跡はつかない」
 ドクターはいま一度その痣を見返した。ケルシーの言うとおりだった。なぜ口に出す前に気がつかなかったのか、自分でも呆れたくなるような見落としだった。ケルシーは未だ、問いただすような目でこちらを見ている。ドクターは諦めて正直に打ち明けた。
「これは、シルバーアッシュとのちょっとしたゲームなんだ」
「ゲーム」
「そう。だから、ケルシーが心配するようなことじゃない」
 ケルシーはやはり胡乱げな目で見ていたが、彼女なりの落としどころを見つけたのか、それ以上言及することはなく定期健診の続きへと戻った。

 後日、シルバーアッシュはまた、前述したような状況下でドクターの手首を手に取った。いつもなら、ドクターは何の抵抗もせずその行為を受け入れるだけだったが、今日は違った。
「私なりに考えてみた」
 シルバーアッシュの手が止まった。
「君がこういったことを繰り返す意味を」
「ほう」
「すると同じような事例を見つけることができた。飼い犬が、自身の飼い主へする行為らしい」
 シルバーアッシュはやはり微笑を浮かべたままそれを聞いている。ドクターはよどみなく話した。
「相手の手などを噛んで、自分の優位性を伝えることがある。上下関係を教え込むための、マウント行為とも言えるだろう。多くの場合、その後に噛みついた箇所を舌で舐め取ることもあるらしいが、それは飼い主をいたわっているか、犬なりの甘えであるか、『もう逆らうな』という意思表示であると推測されている」
「私はお前の飼い犬ではない」
「そうだね。その通りだ」
 ドクターは無感情にそう答えた。その返答に、シルバーアッシュはその笑みをいっそう濃くして――いつもならドクターの手首に力を込めるだろうところで――その手首に舌を這わせた。なまあたたかい舌が触れた瞬間に、ドクターは飛び退くようにその手を引き抜いた。無意識の反応だった。シルバーアッシュはわずかに舌を出したまま、やはり微笑を浮かべてこう言った。
「まだ、お前に優位性を伝えるための行為に見えるか?」
 ドクターは怯えたように手首をさすりながら「見えない」と短く答えた。その後に「でも」とも続ける。
「私からこの反応を引き出せて、君が喜んでいることは分かる」
「正解だ」
 シルバーアッシュは笑った。一体何がおかしいのか、ドクターには分からなかった。