シルバーアッシュは幼い頃、まったく同じ悪夢を繰り返し見たことがあるらしい。
その夢は決まって彼の――シルバーアッシュ家の屋敷の中から始まる。
夢の中で、彼は少年の姿をしていた。彼は今しがたリビングを出て、廊下へと向かう最中だった。リビングには、彼の両親がいる。赤と緑の縞模様をしたカーペットの上に、一人がけのソファーを二つ置いて、それぞれに座ってくつろいでいるのだ。暖炉には火が灯されている。暖かな空気で満たされた中で、彼らはトランプゲームに興じているはずだ。
廊下は暗く、ひんやりとしていた。いつもなら灯りがついているはずのランプが、何故か手付かずのまま沈黙している。シルバーアッシュ以外に誰もいない。彼の妹も使用人も、誰一人そこを通りかからない。
廊下の中ほどまで来た時――シルバーアッシュはいつも、『それ』と対面するのだ。
道を塞ぐようにしてそこに立ち塞がっている、天井に頭がつきそうなほどの巨体。今となっては、それがどんな姿をしていたのか彼にはうろ覚えであるらしいが、無理やり言い表すならば心臓に似た形をしていたと彼は言う。
ひどくリアルに描かれた心臓に、手足をくっつけて全身を何度かねじり上げた後で、目玉を二つ付けるのだ。それで、幼少期の彼が見た怪物の姿をそっくりそのまま表現できる。
少年の姿をした彼は立ち止まった。『それ』は無言のままシルバーアッシュを見下ろしている。『それ』はあまりにも背が高く、頭頂部まで見上げようとすると、影が薄暗くかかって見通せないほどである。
当然ながら、彼は『それ』を恐れた。家の中に、何故こんな生き物が――と頭を働かせる冷静さなんて持ち合わせていない。数秒でも隙を与えたら、この怪物に首を捩じ切られるか、全身の骨をへし折られるかもしれないのだ。彼は怯え、慄き、今自分ができる最大限のこととして――力いっぱい両親の名前を叫んだ。
しかし、彼らがこちらへやって来る気配は無い。すぐ後ろ、開け放たれた扉の向こう側のリビングに彼らは居るはずなのに。喉に血が滲みそうなほどに叫んでも、足音ひとつ聞こえないのだ。彼の恐怖は限界にまで達しそうになっていた。怪物はまだ、目の前に立ち塞がっている。不気味な目玉がシルバーアッシュから逸らされることはない。
ほとんどパニックになりかけたところで、ふと彼の頭に冷静な考えが一つ浮かんだ。こんなにもすぐそばで、自分の声が聞こえているはずなのに、両親が助けに来ないだなんて有り得るだろうか?彼らは間違いなくリビングにいる。暖かな暖炉。赤と緑の縞模様のカーペット。濡れたような光沢を帯びているソファー。トランプゲームに興じるひそやかな笑い声。彼らが助けに来ないということは――目の前の『これ』は、わざわざ助けに入るほどの脅威でも無いんじゃないだろうか?
これは馬鹿げた発想に思えるだろう。しかし彼は当時少年であったし、何よりこれは――夢の中の出来事なのだ。
まるで血を流し込まれたかのように、全身へ一気に力が満ち溢れていくのを感じた彼は、手だか足だかを振り上げてその怪物の体に叩きつけた。すると怪物は、風船から空気が抜けていくようにして、凄まじい勢いで萎んではその場に崩れ落ちていくのだった。
「その後は?」
「その後?」
「怪物の正体を確かめたとか、そういうのはないの」
ドクターがそう尋ねると、シルバーアッシュは肩をすくめて「そこで目を覚ます。所詮夢の中のことだ」と答えた。二人は同じベッドの中で並んで寝ていた。ドクターの胸まで引き上げた毛布に、シルバーアッシュの手が置かれている。彼らの体格差を思うと、父親が息子に寝物語を聴かせているようにさえ見えそうだったが、勿論彼らはそういう関係ではない。
「いつ頃までその夢を見ていた?」
「十七か、十八の頃にはもう見なかっただろうな」
「ふうん」
ドクターはそう返して、思案するような顔で数秒黙った後に「ご両親のことは、今でも思い出す?」と尋ねた。
「ああ」
シルバーアッシュはそこで初めて、ひどく優しげな目をして微笑んだ。ドクターも笑みを返し、シルバーアッシュの手を軽く引いて「ぽんぽんして」とねだる。一緒に寝る時、そうしてもらうとすぐ眠れるからと彼は好んでそうさせていた。
シルバーアッシュがその通りにする。数分もしないうちに、ドクターの目はとろりと眠たげなものになった。二、三回瞬きをして――「ランプが……」と寝言めいたことを口にしながらも、彼の目はぴったりと閉じられて、すぐに寝息が聞こえてくることとなった。シルバーアッシュは、震えもせずにいる長いまつ毛をしばらく眺めた後、満足そうに自身もまた目を閉じて眠りについた。
夢の話を、シルバーアッシュに聞かせられた影響だろうか。その数ヶ月後に、ドクターも同じような夢を見た。
彼はロドス艦内の廊下にいた。鉛のような色をした、無機質な壁。金属の板を一枚引き剥がせば、張り巡らされた大小の配線が顔を覗かせるのだろう。その真ん中に、ドクターは立ち尽くしていた。目を覆いたくなるような化け物に、道を塞がれるようにして。
化け物は、シルバーアッシュが語った姿とほとんど同じように見えた。しかしそれ以上におぞましいのが、彼の周囲に飛び散ったものだ。
天井、壁、床。そこら中に、赤黒い血と、臓物の切れ端のようなものが張り付いている。ここで蹂躙めいた暴力が振るわれた直後であるかのように。夢の中のドクターは、何故だかその血溜まりを――今思えば本当に何故か分からないのだが――アーミヤのものだと思い込んだ。
彼女がここで殺されたのだ。
そう思った瞬間に、恐怖が一気にその体を駆け上がっていく。逃げられないと思った。彼女もここで死んだのだ。天井からぶら下がった細長い臓物。彼女もここで死んだ。彼女もここで……。
化け物がこちらに手を伸ばす。天井まで埋め尽くすような巨体を軋ませて。助けを呼ばなければ。気を失いそうな恐怖の中で彼はそれを思いついた。そして、ひどく奇妙なことに、まるでトカゲが巣穴から顔を覗かせるような唐突さで――彼はシルバーアッシュに聞かせられた夢の話を思い出した。ほとんど無意識下で、二つの出来事が絡み合い、頭の中で昇り詰めていく。意識するよりも早く、彼はこう口にしていた。
「シルバーアッシュ!」
「どうした」
叫んだから目を覚ましたのか、それとも話しかけられたことで目を覚ましたのか。じっとりと汗をかいた顔で、ドクターが目だけを動かし隣を見ると、そこにはシルバーアッシュがいた。部屋に備えつけの毛布と、体の下に敷かれたシーツの感触。ここがベッドの中であると、ドクターが理解するのはそう遅くはなかった。
もう一度「どうした」と声をかけられて、ようやく彼は「夢を見た」と答えることができた。
「夢?」
シルバーアッシュは愉快そうにそう繰り返すと「お前のような男でも夢は見るんだな」と付け加える。
「どうやらそうみたいだね」
「面白い夢でもなさそうだ」
「君が見たのとおんなじ夢だよ」
一瞬だけ、不審そうに眉をひそめた彼だったが、すぐに思い至ったらしく「ああ」と声を漏らして納得する。
「怪物が出たか?」
「うん。ロドスの廊下の中で」
「それであの寝言か」
そう話すシルバーアッシュの口元は、かすかに笑みを描いている。
「思い上がった考え方をするつもりはないが、私は随分な大役を任されたらしい」
「そう謙遜しなくても、君はいつも大役ばかりこなしているよ」
指摘されたことについて、わざと答えないままドクターはそう返した。
「起こさなければ良かったな」
「なんで」
「自分の手で仕留めるまでいかなかったんだろう?私の名前を呼んだところで起きたということは。またその夢を見た時のために、予行練習させておいた方が良かっただろうに」
まるで小さな子供に、ピアノの発表会のリハーサルへ行くよう言い聞かせているような口調だった。勿論、からかい混じりの言葉なのだろうが。ドクターは少しむくれて、隣に横たわる彼の目を見ないまま言った。
「もしそうなったら、その時隣で寝ている子の名前を呼ぶよ」
シルバーアッシュからの返答はなかった。ちらりと横目で様子を窺ってみると、どこか気にいらなさそう顔をして口をつぐんでいたので、少しは溜飲が下がった。
ふと毛布を見下ろすと、まるで蛇がのたうつように、その下で何かがうごめいている。それはドクターの体へ徐々に近づき、しゅるりと音を立てて彼の太ももに巻きついた。感触から察するに、シルバーアッシュの尻尾に違いないだろう。それに促されるようにして、ドクターはシルバーアッシュに身を擦り寄せた。自分の二倍はありそうな厚みの、鍛えられた胸元にほっぺを押しつける。
「寝かせてよ」
「ああ」
シルバーアッシュが、毛布越しの肩をとんとんと叩く。睡魔はすぐにやって来た。自身の胸の鼓動のように、体に反響するその音を聞きながら、ドクターはぼんやりと考えた。
少し意地悪なことを言い過ぎたかな、と。しかし彼は、悪夢の中で自身の名前を呼ばれたのだと分かった瞬間に、シルバーアッシュの頭に生えた可愛らしい耳が、歓喜でピンと立ち上がっているのに気づいていた。それを踏まえたら、さして酷いことでもないだろう。そう考えをまとめた後に、彼は意識を手放して眠りの世界へと入っていった。
その直前に、ほとんど聞こえないような声で「シルバーアッシュ」とまどろみながら呼んでいたことは、気がついていないようだった。