蛮蛇(犬夜叉)

蛮骨は、自分が産まれた日のことをよく覚えている。
母親の股からひり出されて、眩しい光の下に晒された瞬間から、蛮骨の記憶は始まっていた。そういった記憶を、ただの思い違いであると言う者もいるが、蛮骨本人はこの記憶を本物だったと確信している。
蛮骨は、大声で泣き叫ぶ自分を見下ろす、いくつもの目を覚えていた。母親、父親、使用人、産婆、その他様々な者がそこにいた。まだ開き切ることのない赤子の目には、それらは大きな黒い影となって映った。泣き叫ぶ自分の声を煩いと思いながら、蛮骨の耳はしわがれた老人の声を拾った。
「男か」
呻くような声だったが、隠しきれない喜びが滲んでいた。おそらくその声は、あの頃当主を務めていた祖父のものだったのだろう。それを聞いて、蛮骨は確信した。
自分はこれから先どう生きたとしても、この家の長男としても、__という名の個人としても認識されず、ただ「男」として扱われるのだろうと。
裕福な家だった。生まれからして、綺麗なお座敷で優しい産婆に取り上げられたのだから、それからの人生においても、幸福そのものだった。何か祝い事があるたびに、芸者を呼んだ。紫陽花の咲く庭があった。若く綺麗な母親がいた。しあわせな子供時代であったし、自分もそれに見合った振る舞いをして、周囲をしあわせにしてやったと蛮骨は思う。
だからこそ、もう、充分だろうと思った。
屋敷の者を全員、一人残らず皆殺しにした。殺すのは簡単だった。予行練習として、野犬や馬を何匹も殺していたので、緊張さえしなかった。
刃物は使わず、全員素手で殺した。その方が、記憶に残るだろうと思った。蛮骨なりの憐れみとして、これから先も覚えていてやろうと思ったのだ。けれど、それは叶わなかった。既に今の蛮骨の頭には、この時のことはただの事実として残っているだけで、絞め殺した時に手に伝わった脈動や、彼らの声などは少しも思い出せなかった。
母親は、犯してから殺した。中がぬるついていて気持ち良かった。ただ、それだけだった。

蛮骨と蛇骨は、滝壺のそばで身を休めていた。蛮骨は苔に覆われた岩の上に腰を下ろし、蛇骨は川の中に下半身を浸して立っていた。滝の水飛沫が霧のように蛇骨へ降り注いでいたが、彼は気にしていないようだった。むしろ、髪をほどき、手櫛を通して風に遊ばせながら、その涼しげな空気を楽しんでいた。
蛮骨は岩の上で、惚けたように滝を見上げていた。側から見ると、ただぼんやりとしているように見えたが、実際はこれ以上ないほどに感覚が鋭敏になっている最中だった。後頭部が痺れ、思考は靄がかかったかのように鈍い。それなのに、五感がどうしようもないほどに研ぎ澄まされている。全身が感覚器になったかのように、全ての刺激を拾っていた。今の蛮骨には、滝の水飛沫がどのように形を変えて霧散していくか、風に吹かれた木の葉がどのようにさざめいていくのかが、視界に入れずとも完全に予知できそうだった。
それは、ついさっきまでしていた殺し合いの影響だった。殺し合いとは言えど、実際は一方的な殺戮と言っても良いものだった。人数だけ数えても、相手はこちらの十倍もの賊がいた。それらを全て、蛮骨と蛇骨の二人のみで片付けた。
蛮竜を振るうたび、その手応えが蛮骨の体へと伝わってくる。自分が思う通りに、自分の体が動くという快感。一拍遅れて湧き上がる悲鳴や血飛沫が、それをより助長した。全てが蛮骨の意のままに動いた。その快感が増していくほどに、蛮骨の五感は研ぎ澄まされていった。賊を狩り尽くし、身を休めるために近くの滝壺へ移動しても尚、蛮骨の体はその快感に酔っているままだった。
この状態の時、女を犯せばどれだけ気持ちいいかを蛮骨は知っていた。たった今、そばに居るのが蛇骨ではなく女だったとしたら、何の躊躇もせずに強姦していただろう。
いや、蛇骨でも犯していたかもしれない。
蛮骨は頭の片隅で冷静に考える。あと一人でも多く殺していれば、抑えきれない衝動のまま、蛇骨を組み敷いていたはずだ。
興奮とは裏腹に静まり返る頭の中で、蛮骨は糸を手繰り寄せるようにして、ずっと昔の出来事を思い出していた。実の親を、使用人共々殺したあの日。蛮骨は今と同じように、全身が果てしなく敏感になっていた。これ以上ないほどに気持ちいい、と思いながら手当たり次第に殺していった。あまりの心地よさに、昇天するかと思った。あれは12の時のことだっただろうか。
「蛇骨」
滝のそばで遊ぶ蛇骨へ、蛮骨は声をかけた。何か他愛もない話をしたかった。しなければいけないような気がした。人語を使わなければ、人としての部分がこのまま失われて、本当の獣のようになってしまうようにも思えたのだ。水飛沫を浴びながら、蛇骨は振り返る。
「なに?」
「なにか話してくれ」
「なにかって……例えばどんな?」
「なんでもいい」
蛇骨は「変なの」と笑いながら、蛮骨のもとへ近寄る。蛇骨の髪は、毛先がたっぷりと濡れて、白い肌に張り付いている。直接濡れてはいない毛先より上の髪も、空気中の水分をたっぷり含んで、普段より重たげになっていた。その髪を揺らしながら、蛮骨の隣へ腰掛ける。その仕草だけで、蛮骨は自身が昂っていくのを感じた。
「じゃあ、俺がガキの頃の話しよっか」
「ガキの頃か」
「うん。俺が『小んまいの』って呼ばれてた時の話」
蛇骨は濡れた髪を絞った。髪から滴り落ちた雫が、岩に染み込んでいく。
「昔々あるところに、妻に不貞をされた男が一人おりました」
冗談めかして語る声に耳を傾けながら、蛮骨は目を閉じる。どこか生臭く感じられる匂いが、蛮骨の鼻を掠めた。それは、雨に濡れた草木が日差しに暖められて、蒸されていく時に発する匂いに似ていた。それが蛇骨の体から発せられた匂いなのかと思うと、蛮骨はたまらない気持ちになった。
「二人の間に生まれた子供は、大変愛らしく、また大変な男色家でありまして……」
クツクツと笑いながら、蛇骨が語り続ける。それを聞いているうちに、蛮骨の頭の中に子供の頃の蛇骨の姿が徐々に浮かび上がっていく。単なる想像の姿だというのに、それがどんな声をしていたのか、どんな肌の匂いをしていたのかまで想像できそうだった。
あとはもう、蛇骨の声を聞きながら、子供の頃の彼を想像の中で犯し続けるだけだった。