霧の濃い森の中に、蛇骨は一人で立っていた。蛇骨は空を見上げ、木々の間から太陽を見ようとする。けれど、霧に阻まれているために、輪郭の溶けた、ぼんやりした光として目に映るだけだった。
ねぐらから、随分遠くに来てしまったかもしれない。
今日は合戦も仕事も無い日だった。各々体を休めておけ、と今朝蛮骨が言ったのを覚えている。蛇骨は暇潰しに近くを散歩するくらいの気持ちで出かけたが、なんだかんだで長く歩き回っていた気がする。
蛇骨は前髪をかき上げた。彼の黒い髪は、水分を吸って重くなっている。まるで小雨に降られたような姿だが、実際つい先程、弱い霧のような雨が降っていたのだ。ただ、それは一瞬のことですぐに雨は止んだ。けれど雨の気配は未だ濃く立ち込めており、それが霧という形になってこの森に充満していた。
いつ降り出してもおかしくない天気だ。雨に濡れるのは嫌だった。髪は崩れるし、化粧は取れるし、体は冷える。体を冷やして体調を崩したら、戦に出られなくなるし、蛮骨の兄貴をがっかりさせる。髪が崩れるのも、化粧が取れるのも仕方がないと諦められたが、蛮骨に嫌われることだけは嫌だと蛇骨は思った。
蛇骨はさっさとねぐらに戻ることにした。幸い、森に入ってからは真っ直ぐ歩き続けていたので、来た道を引き返せば簡単に帰れるだろう。
蛇骨は黙って歩き続けた。霧があまりにも濃いせいで、一間分先さえ見えない。歩いていると、白く塗りつぶされた空間から、黒々とした木が次々現れていくようにも見える。こうなると、その霧の中に誰かが潜んでいるような気にもなってくる。蛇骨はそんなことを考えてしまう自分が、何だか馬鹿らしく思えた。
(化け物を怖がるガキじゃあるめえし)
そう思いながら、蛇骨はすん、と鼻を鳴らした。甘やかな香りが、蛇骨の鼻をくすぐっている。この香りは、森に足を踏み入れた時から微かに感じていたものだ。甘ったるく、濃厚で、どこか異国的で、吸った側から肺に溜まっていくような、そんな香りである。花か植物のものだろう。もしかしたら、本来はそう強く匂わない香りなのかもしれない。森に立ち込める霧の、雨の粒子一粒ずつにこの香りが付着して、蛇骨を包み込んでいる気がした。
その香りを楽しみながらねぐらへ向かっていた蛇骨は、ふとあるものが目の端に止まった。それは、霧の中でも鮮やかに光る白だった。蛇骨はそれを見て、蛮骨の小袖を連想した。そして、彼が追いかけてきてくれたのだと想像した。突然降り出した雨を見て、自分を心配して探しにきてくれたのだろう、と。そこまで期待して目を向けた蛇骨は、すぐにその希望を打ち砕かれた。そこにあったのは、花だった。小さくて白い、クチナシの花だ。
(なあんだ)
残念に思いながら、蛇骨はその花へ近寄った。甘ったるい香りが、下から湧き上がるように溢れてくる。どうやら森に漂うこの香りは、クチナシのものだったらしい。蛇骨はなんとはなしにしゃがみ込んで、クチナシに顔を寄せた。むせ返りそうに濃い香りが、蛇骨の鼻を塞ぐ。
(甘い)
この香りのせいか、それとも霧のせいか、蛇骨は夢の中にいるような錯覚に陥っていた。しゃがんだまま、地面に手をついてクチナシの方へ身を乗り出す。もっと匂いを嗅ぎたいと思ったのだ。しかしそれは叶わなかった。
ヒュッ、と風を切る音がした。蛇骨の前で、クチナシの花に巨大な何かが勢いよく振り下ろされた。下から舞い上がる風とともに、白い花びらが散っていく。
蛇骨は目を瞬いた。クチナシの花があった場所に、大鉾が突き刺さっている。その鉾を目で辿っていくと、蛮竜を手にした蛮骨が、蛇骨の隣に立っていた。クチナシより白い小袖が、霧の中に浮かび上がる。
「なんだ」
蛮竜を引き抜き、肩に担ぎ直した蛮骨が、拍子抜けしたように言う。
「茂みの陰に、男でもいんのかと思った」
「……びっくりした」
蛇骨はぽかんとした顔のまま言った。蛮骨が手を差し伸べてきたので、素直にその手を取って立ち上がる。
「兄貴も散歩?」
「いや、雨が降り出してきたから、迎えに来た」
「へえー、ありがと」
蛮骨と蛇骨が、連れ立って歩き出す。二人の周りには、粉々に圧し潰されたクチナシの花が散らばっていたが、蛇骨がそれを振り返ることはなかった。不思議なことに、あの甘やかな香りはもう少しも感じられなかった。