煉蛇(犬夜叉)

蛇骨は蓮の花をあまり好きではなかった。別に花というものに対して、いちいち好きだの嫌いだの考えるたちでも無かったが、蓮に対しては何か違和感のようなものを抱いていた。水に咲く花、というのが奇妙に感じられたのだ。それは蛇骨にとって、空を泳ぐミミズや、地面を泳ぐ魚のようなものだった。
煉骨もまた同じように、蓮の花を好んではいなかったが、それは蛇骨とは別の理由だった。
「あの広い葉っぱが、水面に広がってるだろ」
煉骨の言葉に、蛇骨は頭の中に蓮の花を思い浮かべる。皿にできそうなくらい大きな葉が、ちょうど水面のあたりに浮かんでいる。それらが密集して、蓮の花が咲いている辺りは、水の中が覗き込めないほどになる。
「あれを見ると、水の中に潜んでるものを隠してるんじゃないかって気持ちになる」
「何かって、忍びとかか?」
「具体的に何と思ったことはないが、まあそういうのだ」
兄貴らしいな、と蛇骨は思った。中まで見通せない物に不安を覚えるのは、いかにも神経質な煉骨らしい気がしたのだ。
ある日、橋の上から池を見下ろしながら、蛇骨はそのやり取りを思い出した。朱塗りの橋の下の池には、蓮の花が溢れるほど咲いている。蛇骨は橋にもたれかかるようにして、その下を覗き込んだ。煉骨の言うような、潜んでいる何かが見えるような気がした。
「おい」
煉骨が注意するも、お構いなしに池へ顔を近づける。蛇骨は前のめりになりすぎて、両足の先が宙に浮いていた。手すりに掴まっている両手のみが、蛇骨の体を落ちないように引き止めている状態だ。
「落ちても知らねえぞ」
さっきより怒気を含んだ声に、蛇骨はちらりと煉骨を見て、それでも少し口を歪めて笑ったのみで、また池の中を覗き込む。緑色の葉っぱがもつれ合うように広がる中で、その隙間から黒々とした水面が見えた。
そうしているうちに、前のめりになったせいで蛇骨のうなじが小袖の襟から曝け出された。かんざしでまとめ損ねた産毛のような髪が、白いうなじの上に散らばっている。煉骨の目がそこに吸い寄せられる。
不意に、水面が白く光ったような気がした。それは単に光を反射しただけかもしれないし、蛇骨の予想通り何かが潜んでいたのかもしれない。思わず身を乗り出した瞬間、蛇骨のうなじに、焼けつくような痛みが走った。
「いっ……!?」
反射的に身を起こす。煉骨の怒鳴り声は怖くないくせに、体の痛みへの反応は速い。蛇骨の珍しく傭兵らしい一面だった。痛みを覚えた場所を手で押さえながら振り返ると、背後には煉骨が立っていた。小突くための棒か何かを手にしている様子は無い。けれど、あの鋭い痛みは気のせいではないだろう。蛇骨は眉をひそめて聞いた。
「……兄貴、もしかして引っ掻いた?」
「さあな」
さっさと背を向けて「行くぞ」と素っ気なく言う煉骨に、蛇骨は地団駄を踏んで大声で喚く。
「何だよ兄貴!可愛い弟分の体を傷物にしておいてよお!」
誤解されそうなことを叫んでみたものの、煉骨は立ち止まる素振りも見せずに先に行ってしまうので、蛇骨は仕方なく素直に後を追うしかなかった。
その日の晩、蛇骨のうなじを見て蛮骨が声を上げた。
「んだよ、どこの男の遊んできたんだ?」
「え、なんで?」
「ほら、首のとこ」
そう言って自身のうなじを指差す蛮骨に、蛇骨は頬を膨らませて言った。
「煉骨の兄貴がやったんだ」
「へええ」
蛮骨は目を丸くして、興味深そうに声を上げる。
「災難だったな、そりゃ」
「本当だよ!」
蛮骨の意味深な含み笑いに、蛇骨は気づかなかった。