「ところでよ」
「はい」
「本当の名前は、いつ教えてもらえるんだい」
その言葉に、美空は心持ち首を傾げてみせた。そして、隣に座る男へ視線を向ける。きっちりと折り目のついたスーツと、驚くほどに整った顔がそこにあった。男は黒く艶のあるカウンターに肘を突き、美空を見つめ返している。だらしなく見えてしまいそうな姿勢だと言うのに、この男がやると不思議ときまって見える。つまらなさそうに目を細めてこちらを見ているその表情さえ、バーの複雑な照明を受けて、どこか憂いを帯びているかのように見えた。
「本当の名前ですか」
「美空っていうのは、正式な僧名じゃないんだろう」
「ああ……」
美空は頷いた。そして、手元のグラスからうす赤いリキュールをほんの少しだけ口に含む。
「確かに、毒島さんには教えてませんでしたね」
先ほどよりも艶の増した唇に微笑を浮かべながら、隣に座る男──毒島へ言う。相手が何か言おうと口を開くのが見えたが、それを聞く前に付け加えた。
「毒島さんだけじゃなくて、鳳介さんや、文成さんにも教えてませんよ」
「それが何だよ」
打てば響くような速さで毒島が言い返した。への字になった口を見て、おやと美空は思う。美空としては、毒島だけ仲間外れにしている訳ではないのだと主張したつもりなのだが、彼にとってはどうでも良いことだったらしい。
「僧名よりも、この通り名の方が知られているので」
癇癪を起こす子供を宥めるような気持ちで、美空は言う。そもそもとして、はるか昔に山を下りた美空が正式な僧名を名乗っても良いものかという問題もある。しかし、美空が平高野と名乗るまでの経緯を知らない毒島にそれを説明するのは、どこか憚られるような気がした。
「それに」
「それに?」
「ぼくはこの名前が気に入ってるんです」
「へええ?」
毒島が茶化すような声を上げる。どこか非生物的にも見える美空が覗かせた感情らしきものに、何か興味を抱いたらしい。形の良い眉が楽しげに持ち上げられている。よく変わる表情だな、と思いながら美空は付け加えた。
「──あの、御大師様から字を取っていますので」
美空の唇の両端が、自然と持ち上がる。そう言いながら、この通り名を付けた円寂のことを思い出していた。あの老僧は、美空がこのようにして毒島と遊び歩いていることを少し懸念しているらしい。とんだ不良とつるむようになってしまった、と言っているそうだが、高野山に女を連れ込んだ自分の方がよっぽど不良ではないかと正直思っている。
女と寝ることが好きだと豪語し、その言葉の通り、毎日女と寝るなり遊んだりしているのだ。自分よりずっと健全な生き方をしている、と美空は思う。
「ふうん」
そっけない毒島の返答に、興を削がれただろうかと美空は思った。しかし、そうでもなかったらしい。しばらくの沈黙の後、毒島は美空の目を見つめながら口を開いた。
「美空」
「なんですか」
返事をしたものの、毒島は黙ったままである。美空が不思議そうにしていると、毒島はつまらなさそうに目を細めた。
「なんだよ、気に入ってるって言うからわざわざ呼んでやったのに」
「……そうなんですか?」
呆けたような顔で美空が言う。毒島は面白いほどに真剣な顔で頷いてみせた。
「そうだ。だからもっと喜べ」
その頃には、既に美空は笑い出していた。一泊遅れて、くすくすという笑みが喉から込み上げてくる。胸の奥が震え、肩が小さく跳ね始める。ふふ、ふふふ、という笑い声が堪えきれなくなって、抑えるように指を唇に当てる。白い指の隙間から、赤くうねる唇が覗く姿はどこか妖艶だった。
声を上げて笑うという行為は、美空にとって久々であった。愉快で仕方がなかったのだ。この毒島という男が、喜ぶだろうと思って真剣に名前を呼んでくれたことが。
笑い転げる美空に、毒島はまじまじと目を剥いてぼそりと言った。
「酔ってんのか?」
そして、美空の前に置かれているグラスをひょいと取り上げ、ほんの少し舐める。しかし、明らかにアルコールは強くないので、怪訝そうに眉を寄せた。その様子を見て、美空のくすくす笑いはいっそう大きくなっていく。毒島はやはり不思議そうに、やけにご機嫌な隣人を眺めながら、自身のアイリッシュミストで口直しをする。
ひっそりとしたバーの中で、やわらかな音楽を背景にさざなみのような笑い声が響く。奇妙なほどに、ゆっくりと時間が流れていく夜だった。