极博♂(アークナイツ)

 あの日。ロドス艦内のバーでの中で、自分が口走ってしまった言葉をエリジウムはずっと覚えている。

 彼はドクターと、カウンターに並んで座っていた。右隣がドクターだ。それなりにお酒が入っていたし、ちょっと気分が浮ついていた。それもあってかエリジウムは、お行儀悪く片方の腕で頬杖をついていた気がする。
 少し斜め上をぼんやりと見上げている彼の、耳下から顎、顎から首筋にかけてのライン。贅肉が一切ついていないそこは、ペン先ですっと線を一本引いたみたいにきれいな曲線を描いていた。
 アルコールが、エリジウムの頭の中を心地良くひたひたにしていた。水の中に潜っている最中のように、奇妙な反響を伴って耳が音を拾っている。今隣でドクターが語っている、恋人の話もそんな風にして聞こえていた。
 お付き合いを始めて三ヶ月経ったのだと彼は言った。エリジウムはその男性オペレーターのことを知っていたし、もっと言えば二人が付き合っていることも二ヶ月前には既に知っていた。けれど、当人から教えられたわけではないのだからと今まで言及を避けていた。
 ドクターは一つ一つ思い出しながら語っているのか、こまごまとした口調で、それでも絶え間なく恋人との間にあったことを話し続けた。甲板。食堂。鍵をかけた会議室。そういうところでしたお喋りやちょっとしたじゃれ合い。そんなエピソード。エリジウムはそれをBGMのようにしながら、ぼんやりとドクターの指先を視界の隅で捉えていた。
 白い指だった。ドクターは手袋を脱いでいた。お酒を飲んで暑いからとフードも外していたはずだ。カウンターにちょこんと置かれた、心許ないほどに細い指先。
 どんな風に、男の体にすがりつくのかな。エリジウムはそんなことを考えた。どんな風に男を抱き寄せて、どんな風に肌に触れるんだろう。四本の長い指と、一本の親指。それがまるで暗闇の中に浮かび上がったかのように、エリジウムの脳内に描かれる。その手が、何かを握るような形になった。彼の頭の中で、その「握られているモノ」がエリジウムの下腹部についているアレにすり替わる。
 エリジウムは酒で濡れた息を吐いた。酸欠になった時のように、頭に酸素が行き渡っていない。ゆるく締めつけられる脳みその感覚。それが何故だか心地良い。下腹部に集まりつつある血を、エリジウムはぼんやりと知覚していた。
 ドクターの声が、不意に途切れる。ああ。話し終わったのか。エリジウムは頬杖をついたままドクターを見た。はにかんだように笑っていた。ひそやかな喜びで胸を満たされているのだろう。そうと分かる表情だった。
 何か言わなきゃな。アルコールを吸った脳みそでエリジウムは考える。楽しそうで良かったよ、とか。ラブラブで羨ましいなあ、とか? 君が仕事以外にも、熱中できるものができたのはいいことだね、とかだろうか。
 ひどく奇妙なことに、エリジウムはドクターを、傷つけてやりたいとこの瞬間強く思った。少し頬を上気させたその白い顔に、ガラス片で切りかかるみたいにして、消えない傷をつけてやりたかった。何故そう思ったのか、当時は少しも分からなかった。分からないなりに、その本能に従わなければならないと、突き動かされるのを感じた。エリジウムは口を開いた。
「セックスはもうした?」
 その瞬間、ドクターの目が、どんな風に自分を見ていたか。エリジウムは何も覚えていなかった。覚えていたくなかったのかもしれない。ただ鮮明に思い出すのは、その時自分が
あ、失敗した
 と思ったことである。
失敗した。
 心臓を削ぎ落とされるような、その鋭い痛みの感触は、一年以上経った今もエリジウムの胸をこまやかに痛め続けている。特にこんな風に、裸でくっつき合っている夜なんかに、彼はいつも思い出すのだ。

 頭が重い。酸素が行き渡っていないのだ、とエリジウムは分かっていた。体中の血が、下腹部に集められていた。しかしその感覚もすぐに止むだろう。もう、吐精した後だったから。
 室内は暗い。毛布の下、手探りでドクターの体に手足を絡ませる。ドクターは毛布をかけたまますることを好んだ。前の男ともそうしてたの?とはさすがの彼も聞けなかった。
「眠い?ドクター」
 エリジウムが問いかけると、ドクターは首を左右に振った。それに「良かった」とだけ返してエリジウムは彼を抱き寄せる。薄くて細い、扁平な体だ。少年のような体躯だといつも思う。彼は吐精の後、いつも慎重な手つきでその肌に触れた。そうしないと二人の間にある熱が逃げてしまうんじゃないかという風に。
 ああ、まただ。
 エリジウムは胸の内でそう呟いた。彼はまた思い出していたのだ。あんなにも下品な問いかけをした、かつての自分のことを。失敗した、と思った瞬間の、全身の血がさっと凍りついていく感覚。あれから一年以上経って、ドクターはその男と別れて、今度はエリジウムがその座についているというのに。それでも彼は思い出すことをやめられない。
 それはまるで儀式のようだった。かさぶたができて傷が癒えるだろう頃に、その上へ全く同じ傷を自分の手で重ねていく。
 自分は大切な人を傷つけた。エリジウムはその事実を、いつまでも忘れずに覚えていた。だからこそ、ふと思い出したという風にドクターがあの時のことを話題に出したのが、なんだか信じられないような気がした。ずっと待ち望んでいた死刑執行の日が、突然今日であると伝えられたかのようだった。
「覚えてる?エリジウムがそんな風に言ったこと」
 ドクターは毛布を引っ張り上げて、それで口元を隠したままそう尋ねた。暗闇の中で、大きな目が爛々としながらエリジウムを見上げている。エリジウムは「うん、まあ」と頷いた。
 ドクターは何が面白いのか、毛布に頭まで潜り込むと、くすくすと笑いながら身を悶えて――それからすぐに、また顔を覗かせた。
「あの日部屋に帰った後にね」
「うん」
「恋人だった――……にそれを教えたんだ」
「……何を?」
「だから、君がまだしてないのって聞いてきたことを」
 エリジウムは、今度こそ息絶えてしまいそうなきがした。あの日、心臓を半分切り落とされたのだとしたら、今この瞬間にもう半分も切り落とされようとしている。少なくとも、きらきらと光るメスが彼の胸に差し込まれている途中であった。ドクターはそんな彼の様子に気づいていないのか、くすくす笑いをやめないまま、こんな風に続けた。
「そしたらね、彼、ちょっとびっくりした後にね」
「…………」
「ちょっといいね、って言ったんだ」
 ……ちょっといいね?それは一体、どういう意図で言った言葉なのか。困惑するエリジウムに、ドクターは付け加える。
「それでその日は、彼と初めてセックスしたんだ」
「……そうなんだ」
「うん。だからね、エリジウムには感謝してるんだよ。あの日言ってくれて良かったって」
 エリジウムは胸を押さえた。彼の心臓はいまだバクバクと動いており、全身にはじっとりと汗をかいていた。けれど胸の中には――明らかな安堵が広がっていた。首筋に押し当てられていたギロチンが、ふっと遠ざけられたような気持ちだった。
 彼は、これを口にするべきかどうか随分と悩んだ末に(多分、秒針が時計を一周するほどの沈黙を経て)、傷つく覚悟をした上でおそるおそるこう尋ねた。
「僕、責められるのかと思ってたのに」
「責める?なんで?」
「だって、下品なことを言ったから」
「ああ」
 ドクターはそんな風に相槌を打って、それから堪えきれないという風に、ふふふふと笑いながら毛布の中でエリジウムの足につま先で触れた。毛布の中は、ドクターの吐息で少しだけ空気が揺れている。その感触がこそばゆいと思う彼に、ドクターは笑みを声に滲ませたままこう言った。
「エリジウムも、自分が彼氏の時に、私が他の子にそう言われたらって考えてみれば分かるよ」
「分かる?」
「うん、分かる」
 エリジウムは目を閉じて、真剣にその様子を想像しようとした。ドクターの隣には、自分以外の誰かが座っている。彼がドクターにこう尋ねるのだ。「エリジウムとはもうセックスした?」と。その質問をするまでの間、彼の頭の中にはドクターと仲睦まじくしているエリジウムの姿があり、それ以前に仲間内でこんな風に話していた時のことも思い出されている。「ドクターとエリジウムって、もうセックスしたのかな」
 また毛布に潜り込んだドクターの、ふふふという吐息で毛布が揺れていた。そこに、別の「ふふふ」も混じる。それはエリジウムのものだった。エリジウムも毛布に顔を埋めた。さっき以上に真っ暗になった視界の中、おそらくドクターと見つめ合いながら、彼はこう言った。
「ほんとだ。ちょっといいね」
「でしょ」
 二人は脚を絡め合った。それから悪戯にほどいたり、またくっつけ合ったりしながら、睡魔がやってくるまでの時間をひそやかに楽しんでいた。