文美(サイコダイバーシリーズ)

「セーフーワードを決めさせてくれ」
深夜、ベッドの上で文成が突然言い出したことに美空は「はあ」とだけ返事をした。
文成はボクサーパンツだけ身につけた姿で、シーツの上にあぐらをかいて座っていた。美空の方は、さっきまで裸だったのを素肌の上に黒い法衣を身につけただけだった。
「必要ですかね」
美空はぼんやりとそう言ってみせた。反対も賛成もしていない、どちらでもいいと言っているような声である。対して、向かい合った文成は、どことなく神妙な顔をしている。
「力加減くらいできるでしょう。女性相手にはできていたんですから」
美空はそこまで言って、口に出そうか迷った言葉を最終的に胸の内に押し留めた。ちなみにそれは「別に僕たち、そうそうアブノーマルなプレイはしませんし」という言葉だった。
「それはそうだが、あんたは痛みが分からんだろう」
「はい」
「そのせいで、取り返しのつかないことになったら困るのはおれの方なんだ」
「僕だって困りますよ」
「あんたのバックにいる奴らがおれを袋叩きにするかもしれん」
美空の頭の中に、なぜか箒を持って文成の巨体を叩きのめす円寂の姿が浮かんだ。美空は多くの反論が頭に浮かんだが、文成の真面目な顔を見てそれを飲み込んだ。そして、前から分かっていたことだが、この男は情が深すぎると思った。一度懐に入れた相手のことを、真剣に考えなければ気が済まないのかもしれない。
「普通に”やめてください”と僕が言うのはだめですか」
「さっきそれで盛り上がったところだろう」
「まあ」
そこまで言って二人とも口を閉ざしたので、静寂が二人の間に落ちた。気まずい沈黙ではなかったが、お互いに相手が何を考えているのかあまり理解できていないような気がしていた。沈黙を破ったのは美空だった。
「僕もこの歳で人工肛門は嫌ですから」
あんまりな物言いに文成は閉口したが、美空としては折れてやったのをわざわざ口に出してあげたつもりの言葉だった。
「セーフワードというと、普通にやっていたら口にしないような言葉がいいんですよね?」
「あとは、聞き取りやすい単語が良い」
「それで、二人にとって馴染みのある言葉ですか」
また沈黙が二人を包んだ。しかしほんの数秒後に、美空はどこか悪戯っぽい目をして文成を上目遣いに覗き込んだ。いいことを思いついた、という表情である。
「なんだ」
文成がそう言っても、美空はなかなか言おうとしなかった。そしてようやく口にされた言葉を、咄嗟に理解できなかった。
「九門鳳介」
文成は一瞬の間の後に、その言葉の意味を理解した。呆れてうなり声のようなため息をついた彼は、しかし自身の唇が笑みの形を描いているのを同時に理解していた。楽しいことを思いついて、試したくて仕方がない子供のような顔だった。美空の方も、あの紅い唇がにんまりと吊り上がっていた。
この瞬間、二人は今この場に鳳介がいるような気がしていた。いつものとぼけた顔をして二人のそばに居座っていて、突然名前を呼ばれたのでのっそりと振り返っては不思議な顔をしているような、そんな気さえしていたのだ。