幽アリ(東方)

 その日、アリス・マーガトロイドは生まれて初めて、そのひまわり畑に足を踏み入れた。幻想郷の隅に咲くひまわりの大群を、遠目から見ることはあっても、そこに降り立つことは無かった。綺麗だとは思っていた。しかし、触れたいとか、そこに居たいと思えるようなものではなかった。
アリスが興味を持ったのは、その花畑がある一人の妖怪によって管理されていると知ったからだ。どんな背格好をして、どんな表情で、どんな風に花に触れる者なのか、この目で見てみたかった。
当てもなくひまわり畑を彷徨いていると、不意にアリスの足元に大きな影が落ちた。巨大な雲がふっと太陽を隠してしまったような、そんな風だった。アリスは頭上を見上げた。一人の少女が、そこに立っていた。
まるで見えない床が嵌め込まれているかのように、その妖怪は空中に足をそろえて立っていた。真下にいるアリスからは、その少女が身につけている赤いスカートの中身まで見えそうな位置である。しかし実際には、少女が差している日傘の逆光によって、少女は全身が黒い影のようになっており、スカートの中を窺い知ることは出来なかった。
「あなたが、風見幽香さん?」
「そうよ」
前もって知人から聞かされていた名前を告げる。アリスが数歩後ろに下がって影から抜け出したことで、ようやく風見幽香の細部が見通せた。鮮やかな、植物色の髪をしている。肌は白く、血の気が無い。粘土を塗り固めたかのようだ。その肌の中で、両目だけが爛々と赤く潤んでいる。少女、と形容してみたが、実際はアリスよりいくつか年上だろう見た目をしていた。
この次に何を言うべきか、人見知りらしくアリスが戸惑っていると、不意に幽香がそばへ降りてきた。予備動作が無かっただけに、かなりの速さで近づかれたかのようにアリスには思えた。瞬きする間も無く、幽香の白い鼻先が目の前にあった。そして、急に抱き寄せられた。衣服越しでも分かる、乱暴な手つきだった。
「ひゃ」
アリスが悲鳴を上げる。幽香は少しも狼狽えなかった。こういう悲鳴を上げられることに、慣れ切った態度だった。息がかかる距離で、幽香は目を閉じてすん、と鼻を鳴らした。
「なんだ」
低い声で、幽香が言う。
「花でも持ってるのかと思ったら、ヘアミストか何かかしら」
そう言って、ようやくアリスの腕を離した。アリスがまとっている香水の匂いのことを言っているのだとようやく気がついたのは、逃げるように花畑を立ち去って、自室で息を整えている頃だった。
屈辱だった。
生娘のような声を上げたことも、慌ててその場を立ち去ったことも、そしてあのように体に触れられるのを許した自分も、アリスは許せなかった。