「秋さんはひどいです」
「なんで?」
閨の中で隣から向けられた言葉に、せつらは機械的に返事をした。あからさまに感情のこもっていない声だった。隣に横たわる男──夜香に対する愛情など欠片も感じられない言い方だが、このせんべい屋に限っては誰に対してもこういう物言いをする。
せつらは、この態度についての非難だろうと想像がついた。セックスが終わった瞬間に、ピロートークも無しに背を向けて「ふああ」と欠伸をかます男が、世間的には薄情だと言われることくらいはせつらだって理解している。しかし、次に夜香が口にした言葉は、その予想を外れていた。
「この間、女性とホテルから出てくるのを見ました」
「んー?」
せつらは不思議そうな──というより眠そうな声をあげて、夜香の方を振り返った。薄暗闇の中に、宝玉じみた赤い目が浮かび上がっている。せつらと目が合うと、あからさまな動揺をそこに映した。逃げるようにシーツに片腕をついて上体を起こす。
ハンサムな見た目だっていうのに、これじゃあまるで叱られる子供だ。そうぼんやり思いながら、せつらは事情聴取を始めた。
「いつの話さ」
「この間……雪が降った日の夜です。茶髪の、背中まで髪を伸ばした女性と出てきました」
「あー、あの日ね」
せつらにとってはとうに忘れかけていた事だった。その日せつらは、行きずりの女とそこらのホテルで体を重ねたのだ。
「……で、それが何なの?」
せつらは眠そうな声で問いかける。夜遊びを目撃されたからといって、彼が後ろめたく思う必要はない。そのため、冒頭の「ひどい」という言葉が何を指しているのか、せつらは未だに理解できずにいた。
その様子を見て、夜香は一層悲しげな表情を作る。普通の女なら、あまりにいじらしくて抱き締めてやりたいとまで思うだろう顔だ。端正な顔立ちなだけに、どんな表情をしていても相手に何かしらの衝動めいたものを抱かせるのが夜香という男だった。ただ、秋せつらには効き目のない美貌であったが。
「私とは、遊びだったんでしょう」
「うん?」
場違いなほど間延びした声が、冷えた室内へ落とされた。せつらは思案するように視線をあらぬ方にやって、それからたっぷり数秒経って口を開いた。
「お前、僕とお付き合いしてるつもりだったのか」
やはり迫真さの無いその声には、からかいさえ感じられた。そんな返答に夜香は「ひどいです」と目を伏せるだけだ。まるで日陰の女のような振る舞いである。
しかし夜香の言葉は、せつらのここ数週間の謎を解かす鍵となった。
日の入り直後、シャッターを下ろした秋せんべい屋に毎日のようにやって来ては「お出かけしませんか」「一緒に食事でも」と誘う吸血鬼の長に、せつらは内心首を傾げていた。前々からいじらしい子犬のようだと思っていたが、ここまで通い詰める男ではなかった。
同じ人型をしていても、人間からは恐れられる種族だという自覚を持っている彼は、無闇にせつらの周りをうろついたりはしない。
しかしまあ、「仕事があるから」と断れば大人しく引き下がるので、不思議には思っても問いただす事はなかった。何か良いことでもあってテンションが高いのだろう、とせつらは勝手に納得していたのだ。
それがまさか、恋仲だと勘違いしていたとは。
「なんでそう思い込んでたの」
せつらは頭に浮かんだ疑問をそのままぶつけた。そうしながら、一ヶ月ほど前のとある夜を思い出す。初めて夜香と体を重ねた日のことだ。つまり今日は二度目なのだが、それが勘違いのきっかけであるのは間違いないだろう。
しかし、それだけでこんな思い込みをするだろうか?ともせつらは思う。相手は、せつらより長く生きてきた吸血鬼だ。一夜限りの相手など、自分の倍以上居たのではないかと内心思っている。
倫敦留学時代、探偵などというアナクロな仕事に就いていたにしても、夜香の美貌があれば蝶を誘き寄せる花のようにいくらでも女を捕まえられただろう。
目を伏せていた夜香が、すうと顔を上げる。彼はもうシーツの上で上体を起こしきっていた。せつらへ真っ直ぐに向けられる瞳は、悲しみをたたえていたにも関わらず、白い貌を目にした途端に恍惚と潤む。奥底で未だ燻っている情事の残り火が、また燃えあがろうとしていた。
夜香と見つめ合う。血の色をした唇は、青白い顔の中でよく目立った。ヘソを曲げた子供のように、唇が僅かに歪められているのがせつらにも分かった。
意を決したように、数秒の沈黙を置いて夜香が口を開く。罪を告白する聖職者のような面持ちで。
「……勘違いするに決まってるでしょう。あなたが、あんな──」
「あんな?」
せつらは首を傾げた。やり過ぎなほど媚びた仕草も、彼がやれば美しく見える。
夜香は口をつぐんだままだ。彼が言い淀んだ言葉を察するのを、せつらは諦めた。諦めが早く、執着を持たない。それが自分の長所だとせつらは思っている。
「来て」
せつらはシーツに横たわったまま、夜香の方へ力なく両腕を伸ばした。白い腕が、薄暗闇の中で夢のように揺れている。
夜香は素直に従った。身を屈め、顔を寄せる。見つめ合った白い顔の中で、夜香の目を覆う涙の膜にせつらは気がついた。もう零れ落ちる寸前なのか、水を含んだ下まつ毛は濡れて束になっている。
舐めたいな、とせつらは思った。彼の涙を口にしたら、甘露のごとき甘さが舌の上に広がるように思えた。
夜香の首に、白い手が絡まる。それと同時に、せつらもまた顔を寄せた。薄く開いた唇を、夜香の目元へ押し付けようとする。涙を舐めとるために。