フィガ晶♂(魔法使いの約束)

 この人の核に触れることができた、と晶が思えた瞬間が一度だけあった。
 それはサークルの新入生歓迎会でのことだ。晶の通っている大学近くには大きな公園があり、時期も相まって、ほとんどのサークルはそこで花見も兼ねた新歓を開く。晶は一年時にとりあえず籍を置いていた、ボランティアサークル伝いにそこに参加していた。当時は大学二年生であったが、それでもどこか勝手が分からず、そわそわと周りの様子を伺いながら過ごしていた。そこに何故か、大学教員のフィガロも居たのだった。
 フィガロとは受講科目上で接点があったものの、晶は話題が見つからず、無言のまま学生の輪から少し離れた場所で二人並んで立ち尽くしていた。流石に気まずいと思い、何とか絞り出した言葉が「桜が綺麗ですね」だった。
 それは「いい天気ですね」とか「今日も暑いですね」と同じ程度の、言ってしまえばどんな返事が来るかも決まりきっているような、ありふれた言葉だったと思う。花見の際に百万回は聞くだろう台詞だ。だから晶側も、さして気の利いた返答など求めてもいなかった。しかしそこに投げ込まれたのは、妙に投げやりな声を伴った、「そう?」という言葉だった。
 思わず横目で表情を窺う。それは晶がフィガロに抱いていた印象から随分かけ離れた返答だった。人当たりが良くて、学生に人気で、ちょっとした好意も受け流すような──。
「桜なんて十分見飽きたから、特別綺麗とか思わないんだよね」
 喧騒が遠くから聞こえる中で、そう呟いたフィガロの横顔は、木陰の下でぞっとするほど白く感じられた。

 夜の住宅地の中で、車を道の脇に停める。シート越しに背中に伝わるエンジンの振動が止まった。一気に静まり返った車内で、自分の心音がやけに耳につく気がして、晶はそれを誤魔化すように周囲を見渡した。いかにも高級住宅街といった風の、新築の家ばかりの場所だ。どの家にも、夫婦がひと組と子供ひとり、ゴールデンレトリバーが一匹いそうな雰囲気がある。その清潔さに、何故こんな場所で不倫調査なんて、と我に返りそうになった。
 ついさっき思い出していた、新歓での出来事からどれくらいの時間が経っただろう。それからフィガロの研究室に入り、そのうえで彼が個人的にしているという不倫調査の手伝いまでしているこの現状に、どうしてこうなったんだと晶自身頭を抱えたくなる。
「怖い?」
 隣から声をかけられて、運転席を見ると、フィガロがちょうど煙草に火をつけるところだった。ライターの火によって、彼の顔が青白く暗闇の中で浮かび上がる。晶は少し逡巡したうえで、「怖くはないけど、混乱してます」と答えた。
「あはは。いい答えだ」
「良くないですよ」
「本当に混乱してる子なら、間髪入れずにはいかいいえとしか答えないよ。ちゃんと自分の状態を詳細に答えられるんだから、上出来だ」
 何でもないことのように、にこやかにそう言われてしまうと、そうかもしれないと晶はあっさり思い込みそうになる。フィガロはいつだってこうだった。その言葉や、仕草や、笑顔だけで、容易く相手をコントロールできる。しかしそのおかげで、緊張がほぐれたのも事実だった。
「あの、フィガロさんって、なんでこの仕事をしてるんですか?」
 手伝いを始めた頃から思っていたその疑問を、ほとんど勢いのまま本人にぶつけた。晶としては、真剣に答えてくれるとは思ってもいない質問だった。いつものように、はぐらかすか、別の話題のための足がかりにされるかだろうと思っていた。しかしその予想を外れて、フィガロは茶化すことなくそれに答えた。
「馬鹿な人間を見たかったから」
「え?」
「ほら、うちの大学ってさ、親も裕福で育ちが良くて、お行儀のいい学生ばっかり来るでしょ。そういう未来ある若者だけ見てると、自分が性根の腐った人間みたいに思えてくるからさ、たまには俺以上に頭の足りない奴を摂取したくなったんだよね」
 白い横顔が、光を含んだかのように目の前にある。それは多分、褒められるような発想ではないのだろう。この人はおかしい。そう思うのと同時に、「分かるかもしれない」と思う気持ちも、どうしてか胸を満たしていた。可哀想な人だ、という気持ちも。
「来たよ」
 フィガロが顎をしゃくって前方を指す。慌ててそちらを見ると、調査対象の夫が帰宅するところだった。
「準備できてる?」
「はい」
「新卒の営業って設定なんだから、ちょっとくらいもたつく方がそれらしいよ」
 励ましのような言葉を聞きながら、晶は少し手間取りながら懐の鞄から書類を取り出す。今日はベネッセの営業のふりをして、あの家に訪問する予定だった。
 怖くはない、とは言ったものの、晶は緊張していた。それは仕事だからというわけではなく、うまくできなかったらフィガロに失望されるかもしれないという、自分でも恥ずかしくなるような、ひどく利己的な理由によるものだった。